日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

休憩

2011-01-30 17:28:32 | 日記
  風邪をひいた。いつもと調子が違うだけで不自由なものだ。すこし、せきが出るだけでも気になる。普段忘れているが、当たり前のことが前提に生活がなりたっている。
 毎日、仕事に行って帰ってくる。帰れば、妻が料理をして待っている。これが無くなれば、なんと生活はつまらなくなるだろう。子と一緒に食事ができる。このことだけでも楽しいことだ。
 あって当たり前の生活が続いている。このことに満足しよう。
 人が持っていて自分にないものは多い。金銭でも、容姿でも、感性、知性、知識でも、あこがれるものは多い。それでも私が持っているものがある。
 あこがれ、それを目指して努力することは、それ自体は良いことだと思う。しかし、その努力も、今自分が持っているものを前提にしている。今があることが、とても脆いものだということを忘れないことだ。小さな生活に満足して、その小さな生活はバランスの中で成立している。いつ崩れてもおかしくないことに気がつくことだ。
 進歩のある生活もいいが、進歩がなくとも落ち着いた生活もある。
 
   

どうして分かってくれないのか。

2011-01-22 19:18:37 | 日記
 私が妻に「□□。」と言った。妻は私に「△△。」と返事した。どちらも互いの言うことを聞いていないので、その時はそのままになってしまう。
 後で、「□□。」と言っただろ。「△△。」と言ったでしょ。となってしまった。
 子は私に、「私のことをどうして分かってくれないの。」という。内容を問い尋ね、詳細を理解しようとすると、やっぱり、「どうして分かってくれないの。」となってしまう。
 人は、多くのことで互いに理解しあえない。相手が理解することを期待しているが、私が理解して欲しい内容を相手が理解していると思うことが、私のわがままに過ぎない。 
 将棋か碁を二人で指しているとしよう。互いは同じ盤面を見ている。当たり前だが、同じルールで、同じ盤面を違う向きから眺めている。場合によっては、相手側に席を移って盤面を眺めることもできる。
 将棋や碁は、相手に自分の意図が理解されないように指す方が良い訳だが、ルールがある以上、一定相手の意図は理解できてしまう。が、完全には相手の意図は理解できない。将棋や碁は、相手の意図が理解できないことによってゲームが成立している。
 言葉でも、同じルールを使用して話をしていても、言葉という道具を使って意図のやり取りをする以上、完全には理解できないことが前提されている。相手に表示できる量に限界があり、意図を言葉に変換する際にもロス(表現が下手な人にいたっては、「あれだよ。あれ。」となってしまう。)がある以上、伝える内容には初めから制限がある。
 こちらの意図を余すところなく表現すると、「腹へった。」この言葉の背景にある意図の説明を延々としなければならない。何かを食べたいのか。事実をいっただけなのか。何かを食べさせることを要求している等々。
 普段の会話では、いつもこの面倒を省いている。もとから互いに理解しあえない、又は、しきれないことを前提として会話が成立している。その中で、私が言っていることをどうして相手は分かってくれないのか。という疑問が生じてくる。
 自分は正しいという思い込みから、自分が多くのことを省いて伝えていることを忘れ、相手は自分を理解する責任があると考えてしまう。
 表示された言葉で、多くのことを読み取ることは難しい。もし、相手の背景等をいくらかでも知っているなら、相手の言葉の意図を読み解くことはできるかもしれない。
ただ、この作業も、大きな勘違いという危険性をはらんでいる。私は子の背景をいくらか知っているがそれでも、分からない背景の方が多い。
 分からない背景を読み解くために会話をするのか、会話のために背景を知るのか。言葉の楽しみは、互いの理解の不完全さにあるのかもしれない。同じ言葉でも
受け手によって理解はことなり、その理解をぶつけあうことを楽しんでいるのだろうか。
 いつもはこれを忘れて、分からない相手が悪いと思ってしまう。
 
 子は、妻に対しては「どうして分かってくれないの。」を言っている様子がない。妻は、子に事の詳細を確認するような作業はしていない。「ふんふん。ふ~ん。」というような生返事をしているのだが。
 子の「分かってくれない。」はどうも私に肯定、自分の行為の追認を要求しているようだ。私は、相談を持ちかけられる度に、事の仔細から、その時どのような態度や対応が、世渡りとして、かつ道徳的にも正解であるのかを考えようとしていたが、そんなことではないことが後になって分かった。私は真面目に考えていたのだが、それだけではだめなようだ。
 妻の一言、言葉の力は私の言葉を超えている。
 世の中、理屈だけではないのよ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 

銭湯の考え事

2011-01-20 20:53:58 | 日記
   私は時々、一人でいると、仕事でも、遊びでも、何故ここに、この場面にいるのだろうと思う。
 この不思議さは、この場面で私は違う人であってもいいのに、私は、この前にいてる人では何故ないのだ。というものだ。
 飲み会に行ってつまらない時、この場所に何故来てしまったのだろう、と思う。
 
 銭湯に行った。
 銭湯に一人で入っていると自分のものは何もない。湯船に入っている間は、わが身ひとつ。自分が所有するものなど何もない。周りには知らない人しかいない。私は寄る辺なさを感じてしまう。(この日はバスタオルは用意していたが、小さいタオルを忘れていた。タオル一つで寄る辺なさを感じたのかもしれない。)
 こんな時は、私が、この自分でなくてもいいんじゃないかという気分になる。私は他人であってもいいんじゃないか、という気分になる。もっと金持ちで、かっこいい自分が存在していてもいいんじゃないかとも思う。
 この不思議さは、複数の視点の可能性、今の私の視点は私の視点だが、私の視点は、自分が他者として存在する可能性もあった。他者の視点にも私がなりえた可能性を指していると思う。
 自分Aさんが他者Bさんとなっていたら、Aさんは自分ではない。又、Bさんが私だが、Aさんという特性なしにBさんである私だ。
 Aさんであった時の私と、Bさんとなった私は同じとは思えない。この時、Bさんである私はBさんの特性を持つ訳だから、私はBさんの人格を持つと言えるでのはないか。
 これでは、何も今と変わらないような気がするが、Bさんに私(もとのAさん)の心が入ったら、Bさんは、元のBさんと違ってしまうのだろうか。
 よく、ドラマで頭をぶつけて人格が入れ替わってしまうが、このあたりはどうなるのだろう。心は他人の中でも維持できるのだろうか。もはや元の他人が今の自分となっているのだが。
 世界は、Aさん、Bさんの視点から認識されている。たくさんの人の視点から世界は理解されている。Aさんが存在するなら、視点は無限に増えていくように思うのだが。この視点の中で、世界の中で何故、自分はAさんなのだろう。
 私は、私をAさんとして生き続けている。今さら違う人になりようもない。Aさんの環境は、私のこれまでの生活で私が選択した結果だ。Bさんになれたらいいと思ってもBさんの環境は私には入手不可能であることは、はっきりしている。むしろ、Aさんとして、Bさんの環境に近づくしかない。努力しても、どうしても私はAさんである。
 この選択不可能な中で、私は様々なありえたかもしれない可能性(現実には可能性はない。)を夢見ているのだろう。
 難しい言葉を並べても、少年漫画の主人公にあこがれる昔の、今の自分と何も変わりがない。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

絶対

2011-01-13 07:46:52 | 日記
絶対ということはない。これが真であれば、「絶対ということはないということ」がある(空集合と似ている)と言える。このことについては、真という前提から絶対と言える。であれば、絶対ということの存在が成立してしまう。
「絶対ということない」ということ、これが絶対のことがあるとは、どういう意味だろう。
絶対の存在の次元が一つ違うのだが、次元を変えた絶対という理念の存在は認めざるを得ない。この理念の存在は肯定しないと絶対という言葉自体が成立しない。
何だか、神の存在証明のようだが、そもそも「絶対ということはない」という命題が誤っているのだろうか。命題が偽であるとすると「絶対ということはある」と言える。
どちらも、絶対の存在を認める結果になってしまった。
 
直感的には、絶対の存在を認めることは、誤りであるような気がする。
 
「考える故に我あり」では、考える存在を認めていたが、そもそも考えている事実さえないとすればどうだろう。
高校倫理の授業で習った時には、この質問をしたかったが、絶対の真実として、自明の事実のように先生が言っていたので、何を言われるか分からないので先生の意見は聞けなかった。
彼はなんと答えたのだろう。
思考さえなく、文字列の連続が偶発的に行われているとすれば、我ありと言えるだろうか。文字列の連続あり。文字列に意味あり、意味あるところに人ありだろうか。
文字列に意味ありは、文字列の連続からは因果関係を認めるには足りない。文字列に意味があるかないかは、偶然にすぎないとも言える。 /*4*9sjekg:;.//では意味ありとも言えないのではないか。であれば人ありとも言えない。
 
映画のマトリックスのようだ。まさに今、文字列だけが続いていくが。
文字列で整列した結果が、正しいと言えるのだろうか。文字化した時点で文字により判断しなくてはいけない。文字にまつわるの病気のような気がしてきた。やはり思考には、最後は直感に頼るところが必要だ。

言葉へのこだわり

2011-01-12 23:31:20 | 日記
 人は、誰も自分の意見に固執し、自分の権利を守る。これは、悪いことではない。良いことと言えるかは分からないが。
 何故、自分の意見が正しいと言えるのだろう。ひとえに、自分の意見が正しいと仮定しないと、自分の意見が成立しないからだろう。
 だが、これが仮定であることは忘れ去られている。相手の意見を聞き、自分の意見を自分から離れて見る。第三者が見ているように見る。
 それでも第三者が正しいとも限らない。少数派であっても正しい意見である可能性はある。自分の意見を多数決に委ねるなら、自分の意見でもない。
 意見の正しさは、論理性と倫理性の適正さで決まるのだろうが、それが適正であるかどうかを決定するのは自分だ。自分一人が間違っている判断をしていては、社会的に相手にされなくなることはあるが。
 力関係が変わるほどに意見が長持ちすれば、倫理性については、時代ごとに変化してしまう。新聞の論調によって事件の評価が変わるようなものだ。
 論理性は、そうそう変化しないはずだが、世の中には論理的でない人も多い。論理的であるかないかも、それを決める人が、自分の価値観で決めてしまうので、論理性とは別物になっていることがある。「屁理屈を言うな。」と言えば、論理性のない人は納得してしまう。とりあえずは、声の大きい人の勝ち。後で間違いが見つかることもある。
 「屁理屈」のどこが屁理屈であるのかが重要であり、そこで屁理屈であるかないかが決定されるはずだが、屁理屈ということで物事を処理しようとする人には、分析するという行為はない。
 子供の頃、従兄弟が「世の中に絶対ということはない。」と言った。「それは絶対か。」と尋ねたことがある。その時、答えはなかった。
 従兄弟が言った意味は分かるが、パラドックスではある。この頃から、私は言葉にこだわっていたのだろう。