日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

スイスの気象台の放射能拡散予測

2011-09-11 11:50:02 | 原発問題
ドイツの気象台の予報がなくなって困っていたのですが、スイスの気象台が予測を公表してくれています。
 
日本で外国の予報をあてにしなくてはならないとは変ですが、気にされる方は利用してください。
私は、風向きを見て、窓を開けっぱなしにするか、洗濯を外で干すか決めています。
福島の原発は完全に収束したわけではなく、今後予想外の展開になった時、いざという時に日本政府は風向きを公表しない可能性があるので、風向きが分かるサイトを押さえておくことは保険になると思います。
リンクがうまくできていないかもしれませんが、コピーで対応してください。
 
スイスの気象台のページです。
 
 
 

原発事故と食べ物

2011-09-04 18:48:30 | 原発問題
  原発事故からすでに5ヶ月がたった。この事故で私の生活は細かな点で変わった。
  食料品は産地を必ず見る。朝に風向きを調べる。芸能ニュースがつまらない。原発関連の情報をチェックする。
そして、気分が重い。
  特に、産地が分からないものは食べない。私一人なら、これほど気にかけないのだが、子の将来を考えると必要でないものはとらないようにしている。
  商品を選択すること、これは風評被害ではないと考えている。怪しいと思われる商品を避けることは、誰もが行うべきことだ。
 
  今日のテレビで、子供は東北の食べ物をとるなと言っている教授がいた。これは正しい。しかし、これを大きな声で言える人は少ない。多くの人があやしいと思うことを口に出せない。福島周辺であればあるほど、この構図は色濃いと思う。あやしいや、危ないということを言うには勇気がいる。食べ物が危ないと言えば、東北の人の気持ち、作った人の気持ちになってみろと言う。
   私は、あやしいや、危ないを口に出せない状況、この空気が、何かおかしいように思う。
  原発自体もあやしいを口に出せないままに、口に出す人を馬鹿にして(私も事故が起きるまでは無関心であったのでこの仲間内に数えられる。)こんな状況になってしまった。
  私は、食べ物があやしいと思うのだが、原発のあやしさとはやや違う構図がある。生産者の気持ちというもの、生産者の暮らしを思う気持ちが、あやしいと言う人に対して自己規制をかけている。あやしいと思っていても、危険と思っているなら、自分の心に閉じ込めておけ、人に向かって口にすべきでない、と。
  この気持ちは、政府のプロパガンダとしての風評被害キャンペーンの成果とも思う。あやしいや、危険は本来、消費者が発信して当然であるのだが、これに自主規制がかかってしまう。商品の安全性は、もとより生産者がアピールすべきことがらであって、消費者が証明するような性質ではない。これにメディアも自主規制がかかり、原発事故自体の報道も減少している。
 
  自分の発言が東北や関東の人、被災者の気持ちを傷つけることになることがあり、しかし、自分が危ないと思っているものを、自分が食べないものをまわりの人は口にする。
  人に注意をうながしても、人の気分を害し、自分の気持ちは理解されない。誰かが、被災地の食べ物を食べなくてはならないが、それは自分ではない。自分で食べなくとも気がつかない人、気にしない人が食べるのだという気持ち、現状がある。
  自分は危険を口にせず、人が食べるのを黙ってみている。これが私の気持ちというのも、なんとも言えない気分になり、気分は重たくなる。
 
  食べ物の危険は数年後、10年後に分かるように思う。
  私は、将来に杞憂であったと思えれば良いが、本当のところは杞憂になると思っていない。私は、悲観的な予想をもとに行動をしているし、楽観論に組することはリスクが高すぎると考えている。
  結局は、人それぞれが、危険への評価をし、これに自身と家族を賭けることになる。
  私が神経質だと言う結果に終われば良いと思うが、これも信じていない。
 
 (食品の放射能汚染があやしいと思わせないためには、全商品について産地表示がなされるように、放射能表示が食品にあれば良いと思うが、これがない。JAS法ではキャベツには、キャベツと分かるように商品名キャベツと書かなければならない。こんな馬鹿げたことが、どれがキャベツか知らない人のためにキャベツと書くことが決められているのに。今、本当に必要な表示がない。)
 
 

消費者、原発事故を懸念 「影響ある産地で買わない」37%

産経新聞 9月5日(月)14時59分配信
 日本政策金融公庫が5日発表した消費者動向調査によると、東京電力福島第1原子力発電所事故の影響があると考える地域の生鮮食品について、「買わない」と回答した消費者が37.0%に達した。「買う」「気にならない」との回答約28.2%を上回り、原発事故が消費行動に大きな影響を与えていることが浮き彫りになった。

 調査は7月上旬に全国の20~70歳代の2000人を対象に実施された。

 震災後、生鮮食品を購入する際に重視する項目では「産地」が30.4%を占め、次いで「鮮度」(12.9)、「低価格」(8.8%)と続いた。

 特に原発の影響を気にする傾向は東日本が強く、原発の影響があると考える地域の生産物について「買わない」との回答は西日本が33.2%だったのに対し、東日本は39.4%に上った。

 一方、震災後、消費そのものを抑えたことも顕著に表れ、購入量が「増えた」との回答が4.3%だったのに対し、「減った」は10.6%だった。特に観賞用の花や菓子といった嗜好(しこう)品の消費を控える動きが目立った。半面、備蓄意識の高まりから、ミネラルウオーターや飲料、冷凍食品は逆に購入量が増えたとの回答が多かった。


原子力と二重思考

2011-07-24 08:05:32 | 原発問題
  二重思考は、ジョージ・オーウェルの小説「1984」に出てくる概念だ。二つの相反する概念を同時に信じる思考方法であり、プロパガンダの手法、マインドコントロールの成果である。
  これだけでは、何のことか分からないので実例を挙げる。
  原子力安全・保安院原子力安全委員会どちらも原子力の安全確保するための国の機関であり、その名称には安全が使用されている。どちらも、その存在により安全が保障されたかのイメージを見たものに植えつけることに主眼が置かれている。
  しかし、水力安全・保安院や水力安全委員会は存在しない。安全なものには、安全を題する機関など本来必要がないからである。原子力安全・保安院原子力安全委員会は、危険性の存在に基づいて、存在するのであるが、危険を題する名称とはならない。
  原子力の安全と危険この二つの相反する概念を同時に信じたのが、この組織のメンバーと、その協力者である。
  設置者自身は、二重思考の欺瞞性には気が付いているからこそ、原子力危険院や原子力危険委員会と名づけなかった。しかし、設置者自身も、この名づけの意味、二重思考であることを忘却し、相反する概念を同時に遂行できると信じ始める。
二重思考は、自らが作った信仰を信じることにより、自らが作った信仰にいつか支配される。この点では一種の信仰である。二重思考では、危険を説きながら、平安を説く。そして信仰が作られたものであることを忘却し、ドグマを信奉することに価値を置く。そして少数の為政者のみが、二重思考の欺瞞性に気づきつつ、民衆を支配する道具として二重思考を利用している。)
  二重思考は、欺瞞の方法、技術であるが、そのことを作成者自身も含めて、その語を聞いた者に正当性を信じ込ませるところ危険がある。リストラは、今では首切り、解雇の意味であるが、本来は再構築であり首切りの意味ではない。しかしながら、再構築という意味をもって首切りを実施するので、罪悪感を忘却することが可能となる。
  「1984」は、ソビエト型社会、戦前の日本のような全体主義、より高度に為政者が民衆の心を支配することによる恐怖を描いたと思う。私は、ソビエトの崩壊後は、一時この小説の意義を忘れていた。もはやこの恐怖は現実にはならないとさえ信じていた。
  しかし、この考えも浅はかであることに今になって気が付いた。世界には、二重思考の網が張られている。メディアの至るところに二重思考が織り込まれている。私を包む言葉、情報の多くに、二重思考の言葉が織り込まれている。そしてこの情報操作による二重思考は、そのものの存在さえ感じさせないほどに巧妙に設置されている。
 もう一つ例を挙げれば、「節電」、電力会社が節電をコマーシャルしているのは何故か。本当に、節電されては儲からない電力会社が、オール電化を進めてきた電力会社が節電を推奨するつもりがあるのだろうか。彼らの意図は、節電しなくとも良い社会、電気の溢れた社会の実現が目標であり、彼らの利益である。ひとつ、ひとつの言葉に織り込まれた、他者を支配しようとする意思、節電のコマーシャルには、電力を潤沢に消費する豊かさという価値観、電力がない恐怖感、脅迫としか思えない。
 そしてこの二重思考は、原子力村の構造、性質そのものであり、原子力村自体が大きな二重思考の一部でもある。
 世の中は、広い意味では言葉により織り成されているが、この言葉が二重思考のターゲットである。私は知らず、知らずに二重思考の言葉の中で思考し、二重思考の提供者の思惑の範囲の思考をする。
 私が、私の言葉で考えを持っているのか、他者の思考の枠による言葉で考えているのか 、マスメディアの言葉については特に意図がある。言葉の意味を考えよう。
 

物忘れ早やすぎ。

2011-07-11 18:28:11 | 原発問題
  原発再稼動が問題になっているが、日本人の物忘れの早さにあきれてしまった。
  今も、福島原発放射能を撒き散らし、東電も原子力安全委員会原子力安全保安院もこれを止めることができない。
  福島の農産物は放射能に汚染され、放射能に汚染された牛は東京に出荷されていた。これからは、海産物の汚染が目立つようになるだろう。こんなことさえ、汚染牛の出荷さえ解決できないのに、原発は安全宣言。
  福島事故の責任の所在は、全く明確にされていないし、関係者の処罰が全くなされていない。関係者は人道に対する罪で、断罪されるべきだと思うがその様子もない。
  原発を推進してきた原子力安全委員会原子力安全・保安院が安全といっているのに、ストレステストをすることがおかしいという論調がメディアにあふれている。
  事故前には積極的に事故原因を具体に指摘されたにもかかわらず、これを放置をした原子力安全委員会原子力安全・保安院、彼らの言うことを信用できる人の頭の構造が分からない。
  読売テレビでは、コメンテーターが「安全は信用するか、しないか。」だと言っていた。信用するか否かではないだろ。福島原発では安全を信用していた結果がこれ。信用するのではなく、安全を立証すべきことを回避した結果がこれ。
  信用するか否かという次元で話をするにしても、原子力安全委員会原子力安全・保安院の福島の事故についての関係者個人の責任、断罪、贖罪が終わってから言うべきことだろ。彼らのこれまでの仕事は、結果として国民、世界への背任であり、何事もなしとげていない。贖罪などできるものではないが、彼らが未だに笑いを浮かべながら答弁する姿を見ると怒りがわいてくる。
  ストレステストなど、データを入れるのが原子力安全・保安院なら、安全の結果しかでないことは明白だ。彼らはこれまで危険と言ったことがない人の集合なのだから。都合の悪いことは、全て想定不適当でデータから抹消するだろう。

  福島の事故で、原発は簡単に爆発することが誰にも分かった。その気になれば、発電機に、送電施設の破壊や、道路の寸断で、送電関係、復旧関係の職員の抹消、この程度で日本の原発は、原子炉を直接に破壊しなくとも、勝手に爆発してしまう。
  日本の原発をあともう一つ制御不能にすれば、日本は今の状態にさえ復旧できないだろう。これに相対的な利益があると見れば躊躇なく実行する者はいないのだろうか。これは誰を信用すればいいのだろうか。
 

世界の変化

2011-06-25 07:47:03 | 原発問題
  見た目に世界が変わった様子はないが、世界に放射能が撒き散らされた後に見る世界は、何故かどんよりとしているように見える。空や雲を見てもきれいだと思うことよりも、この空気の中に放射能が拡散されていると、世界中を小さな粒子が巡っていると思うようになった。毎朝、風向きを確認しているが、何となく、窓を開けるのが億劫になった。何か得たいの知れないものが入りこむような気がするからだ。
  この感覚は、私や、原発の問題を気に病んでいる人だけが持つものだろうか。街では、普通に生活が繰り返され、特に気にしている様子はない。
  そして、漁港の復興をテレビではさかんに伝えているが、海の汚染は漁が可能な状況なのだろうか。このことについてテレビでは沈黙しているようだ。いつかは汚染状況を調べなくてはならない。この海でとれた魚は安全、安心なのだろうか。汚染状況を調べないままに、魚を採る。このような状態で魚を買えるだろうか。
  今は、何も変化がないように見えているが、人や動物に影響が出てきた時は、もう遅い。その時に、対策をしても被曝が除去できるわけではない。
  私の子が、このような社会でこれから生きていかなくてはならないこと、私が子供の頃に持っていた世界への理解が異なってしまったことに何とも言えない気持ちがある。そして、また同じ事故、または今以上の事故が起きる可能性もある。

  何故、多くの人は見も知らぬ人を信用できるのだろうか。何故、事故を防ぐことができなかった実績のある人達の意見を聞いて、安全を信用できるのだろう。結果責任を考えれば、彼らが安全を口にすること自体が彼らの無責任を立証するようなものだ。 
  私は、悲惨な事故を起こしたバスの運転手に、「今度こそ安全ですからバスに乗って下さい。」と言われている。
  「今度はバスに安全装置を追加しました。バスの性能が違いますからもう安全です。もう一度ご乗車下さい。」と言われている。
  バスの運転手は、変わったのですか。と聞けば、「安全運転について研修済みです。ご安心下さい。」と答えるだろう。
  研修の先生は誰ですか。「はい。私です。ご安心下さい。」

  福島での事故が起きる前の私の世界は、単純に美しい世界だったと思う。この世界が過去のものになったことを惜しく思う。私が見る世界は、目に見えない不安に覆われ、世界が与える美しさは、限定的な美しさ、何かを差し引いた美しさとなってしまった。