日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

無色透明なかっこよさ 2

2011-02-28 17:57:12 | 言葉の問題(概念とは)
 子が学校の先生の一人をかっこよいというので、写真をみれば、そんなにかっこよくない。キムタクのような男前だと不思議に思わないのだが。その先生をかわいいとさえ言っている。標準的なかわいさはないと思うのだが。
 妻が見る台湾ドラマの俳優も、そんなにかっこよいと思えない。
 反対に、子も妻は、車を見てかっこよさを感じることはないと言っている。ポルシェ、やフェラーリを見ても、言われないと分からないし、それがかっこよいと言われるから、そういうものかと思うそうだ。
 私は、ポルシェやフェラーリの中にかっこよさがあると思っていたのだが、必ずしもそうではないことに気がついた。
 それがかっこよいと言われるから、人がかっこよいと言うから「かっこよい」という現象はよく起きているのだろう。私が乗っている旧型の小型乗用車も、誰もがかっこよいと言ってくれれば、ポルシェに負けずに「かっこよい」と思うようになるのだろう。
 この場合の「かっこよさ」は、そのもの自体よりも人が羨望するものを所有している。まわりの人が欲しがっているから私もほしいという心の仕組みを「かっこよさ」としているのだろう。金銭を多く所有した人を「かっこよく」思うのは、その人自身のかっこよさよりも、その人に付随した羨望を「かっこよい」と表現している。
 かっこよさは、多くのかっこよいものと、かっこ悪いものを経験した後に、その人なりのかっこよさの基準が生まれ、定まっていくのだろうが、このかっこよさの形勢過程では、人がかっこよいと言うからという構造が入り込んでくる。
 かっこよさは、私が思うかっこよさに対し、社会が評価を下し、その評価に対しまた私が、私の考えるかっこよさを提起し、これに社会が評価を下す。
 私が、私なりのかっこよさを提起していれば、私のなりかっこよさが存在すると思うが、私は、かっこよさについて多くの場合に無批判に社会の評価を「かっこよさ」としていると思う。
 また、特にかっこ悪いものについては、鋭利な評価を社会が下し、この評価を私が受け入れることによって、私は、かっこ悪さを理解しているのではないだろうか。わたしなりのかっこ悪さを考えることは少ない。
 では自分のかっこよさの基準というものは、社会的な羨望を通して形成されていることとなる。私が思っているかっこよさとは、単純には私の自分だけの好みと思っていたが、高い濃度で社会的な羨望をかっこよさとしている。
 私なりのかっこよさという基準が本当にあるのだろうかと思えてきた。社会のどのような評価を私が受け入れるかについて、私に選択の自由があるのだろうか。社会の評価に関係ない私の考える「かっこよさ」
 この社会の評価に関係ない「かっこよさ」とまで考えを延長すると、もはや「かっこよさ」は無色透明になってしまうだろう。この時には、かっこよさは言葉の意味を無くしてしまう。
 何をかっこよいと思うかは、個人の勝手であるが、社会の評価から離れたものを対象として選んだ場合、かっこよいは社会的に意味を失い、その人自身においても、いつかはかっこよいの意味が維持できなくなるだろう。
 ただ、社会の評価を無批判に受け入れることも、私を喪失することとなる。
 かっこよさは、個別の対象をその都度に、私がかっこよいと思い、それが社会的に受け入れられるか否かを個人的に検証することによって維持されていく。
 この運動は、どのような言葉についてもあてはまると思う。言葉自体が運動であり、流転のうちに意味がその時々に、個人から社会から付与されていくのだろう。
 私だけのかっこよさも成立しなければ、無色透明なかっこよさというものも成立はしない。
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 

無色透明な犬 1

2011-02-26 13:12:24 | 言葉の問題(概念とは)
  無色透明な犬、この言葉は、中学生の子の国語の宿題で見つけた。少し面白い。
無色透明な犬ってどんな犬だろう。
 
 柴犬、マルチーズ、シェパードどの犬も無色透明ではない。この犬達は、私がすぐにイメージ出来る犬だ。
 名前の分からない羊のようにでかい犬や、馬のような犬を散歩させている人を何回か見た。初めて見た時は、何これ、犬だろうか。と考えたこともある。
 無色透明な犬は、頭の中にいる犬だ。何だろうこれは、犬なのだろうかと考える時、これは犬ではないという時の一歩手前の犬だ。
 私は、頭の中にたくさんの犬を連れて来ることができる。もちろん先に挙げた柴犬やマルチーズ、図鑑を使えばさらに珍しい世界中の犬を連れてくることができる。
 図鑑に載っていない犬を連れてくることもできる。政府の犬や、幕府の犬、変わったところでは女王様の犬、世の中には色んな犬がいる。このあたりの犬は、そこら辺にいっぱいいるはずだが、あまり外見が犬に似ていないので分かりにくい。犬に入れて良いのか微妙な感じもあるが、犬が無色透明なら、入れてもOKだろう。
 本当は、犬が完全に無色透明になってしまうと、極端な話、犬のところに恐竜を連れてこようが、モンスターだろうが何でもいい。無色透明な犬という時の犬は集合に付けられた任意の文字に過ぎず、この文字「犬」は対象を特定する意味を持たなくなってしまった。
 
 それでも無色透明な犬と言った場合には、犬と言った以上は、やはり犬でなくてはならない。完全に無色透明で人に見えなれば、集合Aと表現するのがいい。人が犬と言う場合は、少し色が残ってしまう。そうでなければ無色透明な犬と、無色透明な猫は同じになってしまう。
 無色透明な犬がそこら辺にいればいいのだが、そんな犬はいない。それでも多くの人が、犬っぽいものを見れば犬と言という。下手な絵を見たときには困るのだが、犬っぽければやはり犬と判断する。(このあたり犬か猫か分からない子供の絵を見た時は違う楽しさがある。)
 無色透明な犬と言っても、無色透明に限りなく近くても、最後には犬っぽさが必要。
 そうすると、どこかで犬っぽさの共通した理解が必要になってしまう。犬っぽいものは、誰もが定義を習うわけではない。子供の頃から犬を見てこれが犬だと、たくさんの経験で覚える。この経験をろ過したきれいなものが無色透明な犬だろうが、あまりにろ過してしまうと、犬が残らない。
 こうして無色透明な犬は、私の頭の中に居ついてしまった。しばらくは無色透明な犬の姿を想像することになりそうだ。