日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

めも

2015-09-26 11:16:56 | 日記
  「全体主義の起源」の3巻をやっと読み終えた。ヤスパースの勧めに従い3巻から読み始め、1巻、2巻を読了したのだが、細部までは分からないところがある。ナチスドイツについては、ある程度を知識を得てから読み始めたのだが、第1次世界大戦前後の歴史や、帝国主義時代になると知識量が追いついていかない。ただ、そういってそのあたりの文献を見ていると結局、本文が進まないのである程度は中途半端な理解でも先に進むことを優先した。再度、読む際には知識が増えていれば理解できることも増えているだろう。
  初め、全体主義全般についていの考察かと思って読んでいたのだが、主にナチス、副次的にボルシェビキが論じられている日本の全体主義については、まったく言及がない。天皇を中心とした全体主義については、また別の本を探すことになるのだが、比較があれば面白いが今回はそれができなかった。
  何故、ユダヤが嫌われていたのか、反ユダヤ主義というものに日本人は感覚的に理解ができない。キリスト教徒でない人、文化圏に住んでいるせいで実感しないだが、遡ると旧約聖書新約聖書、ルターのあたりまで有る程度の理解がないと読めない。これでは、よく分からないはずだとは思う。
  






めも

2015-09-23 06:41:07 | 全体主義について

  連休に入ってP・K・ディックの「高い城の男」を読み上げた。書店で手にとって面白そうだから買ったのだが、ディックらしい内容。ナチスと日本が戦争に勝った世界を書きあげているのだが、割合、日本に好意的に書かれている。

  日本が戦争に勝っていたら、日本による全体主義がアジアに蔓延していたのだろうか。
  日本の全体主義の特徴は、誰も責任をとらないこと。旧憲法下での天皇でさえも責任をとらないし、それ以外の人間はなおさら責任をとらない。システムとして責任が明確にならないように、集団行動が前提。このことは、現代の学校教育や、部活動でも実践されている。団体責任、なんじゃそらというのが、理性的な判断だと思うのだが、そのような責任の負い方は、結局は責任の希薄化、原因、経過、結果、責任の関係を全て無効にしてしまう。
  それで横並び社会が形成されていくのだろう。このあたり、侍ジャパンとか言っているが、人口のほとんどが百姓でその子孫がほとんどで、苗字から判断しても何でこの人が侍なんだろうと思う人物がいっぱいいるが、それで気分よくやっている人達が多いところにも共通点があるのかとも思う。
  第一、侍ってそんなに偉いのかと思うのだが、自分で生産活動をするわけでもなし、侍の多くは官僚的統治機構の一員としても、大部分が過剰な存在で社会的に貢献していたというよりも、百姓を搾取していたといって良いと思うのだが、このあたりは、あまり考えないのが、日本流、さわりの良い言葉の裏や奥は考えない、これが集団でのルールなのだろう。
  この集団がおとなしい間は良いのだが、暴力性を発揮し始めた時、暴力のネジが巻かれた時に、誰も止めることができないのが、全体主義のおそろしさ。
 
 
 

共同幻想

2015-09-19 16:34:41 | 日記
  最近は、、暗くなるのが早くなった。通勤の帰りには、雲が黒くなり、夕日の残りがわずかに見えるくらい。この静かな感じが好きだ。街が暗くなり、人々が帰路につく。
  世間では、安保法案が通った。誰も、安倍にそんなことは期待していないにもかかわらず。彼が政権を投げ出して、恥ずかしげもなく国会議員でいることを不思議に思っていたのだが。
  国や、出身、出身大学、そういうもので一つにまとまれる人の発想が分からない。どれも共同幻想に過ぎないのだが。同じ出身や、同じ大学の出ということで親近感がわくということだが、逆に言うと他を排除する。他が排除するから、自分のグループを作っているに過ぎないだが。これが愛国心であったりするわけだが、そんなものが本当に存在しているとか思っているのが滑稽でしかない。日の丸に挨拶をしてから登壇するのは日本人の政治家がやることだが、外人はそんなことはしない。挨拶する先に、人などいないから。誰に向かって挨拶しているのか。居もしない天皇だろうか。挨拶の先にたぶん国民や1人1人の個人はいないのだろう。個人が価値を持つなら、誰もいない旗にむかって挨拶などしない。これが幻想なのだろうと思う。そしてこの幻想は、政治家にいいように使われている。政治家も使いながら、自分(正確に言うと自分の先輩達だが)が作ったことを忘れて、その幻想を信じる始末。
そして幻想に価値があると信じて、個人の価値よりも上に置く。すると旗に挨拶するような人間が生まれる。
  社会は後退しているのだろうと思う。地域では、個人の感覚のない横並びマイルドヤンキーと呼ばれる全体主義的集団の発生と、国レベルでは立憲主義に対するテロル、国家社会主義的雰囲気の蔓延。どうも良くなっているように思えない。

  


悪についてのメモ

2015-09-07 18:10:12 | 日記
  悪とは何か、悪が存在するのは何故か。何故、人は悪となるのか。漠然としたテーマだが、最近時々考える。
  人がいれば、悪が存在する。このことは確かだろう。人のいないところに悪は存在しない。そういう意味では、悪は人が生み出した。 
  自然界に悪は存在しない。こう言うと、詰まるところ、人が何をしても、客観的に悪というものが存在しないことになる。地球を破壊する能力が人にはあるが、地球の破壊が悪にはならないということだ。この場合、人がいないんだから、悪という言葉そのものが消え去っているだろう。
  悪ということは、民族を問わず、社会を問わず共通で理解可能な概念だと思う。悪の概念が通じないのは、社会化されていない子供くらいだろう。この点でも、悪は言葉における存在、では人が殺されることは、事実、行為としての殺害は悪ではないのか。死刑制度が悪であるかどうか議論があるところだが、事実や行為自体が同じであるとしても、その評価は必ずしも悪にはならない。戦争での英雄は、殺害という事実や行為は同じであるが、その意味付けが異なることによって、悪をまぬがれると考える人もいる。
  悪の相対化、相対主義というものは、人への落とし穴であろう。一方で、悪に対する絶対評価の可能性、神の視点の主張自体が悪である可能性もある。この主張ほど、人類の歴史で最悪の主張とさえ言えるのかもしれない。では、悪はどうして評価されるのか、公正な議論の場で悪の共通理解を得ることに期待するしかないのか。
  これも、悪の主張の平行線をたどることで、これまでどおり。
  この悪の主張の平行線、これが悪がなくならない理由であり原因か。悪の発生の原因であるのかもしれない。子供でさえも、悪をなすことができるのだが、意図するか、しないかに限らず、悪は被害者にとっての悪というものが存在する。善意で悪をなす可能性、これも互いの悪を理解できない原因、現象なのかと思う。
  悪が存在するし、絶対的な悪というものも直感的には存在するのだと思うのだが、この存在によって、正義という観念も存在するのだろうと思うが、絶対的な正義の方は、どうも直感的には存在しないように思う。こういうと信仰の世界にたどりつくのだろうと思うが、この絶対的な正義というもの、その考え自体が悪の感じがしてくる。それほどに人の知性は正しいことを直感できないのだろうと思う。相対的な悪は困るが、正義は相対的であることを認識している必要性の方が高い。






  
  

めも

2015-09-07 07:34:10 | 日記
  ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」2巻を読んでいるのだが、この人の文章は、センテンスが長くて読みづらい。当時の政治状況、歴史が理解していないと、中々ついていけない。翻訳が古いせいもあって、今はほぼ使わない語彙もかなりの頻度で出てくるので、その度に辞書を引くことにもなる。
  こういうと読む気が失せるのだが、ナチスドイツが成立した背景というものにヨーロッパ全体の状況、ユダヤ人がおかれていた状況が関連している背景にあることが分かるので、何度も読み戻りながら読み進めている。有る程度、言ってる意味がぴんと来ないところもあるが、そこは置いておきとりあえず読む。
  元は、ナチスドイツがなぜ成立したのか。人々の心をつかむことに成功したのか。ドイツ関連の本を読んでいたのだが、この人に行き着いたというところ。単に歴史物だとふむふむと読み進むのだが、政治学の話が入っているので中々読むのが難しい。
  読むのが難しい本をわざわざ読んでいるのだが、読後にパズルが解けた感じ、自分のこれまでなかった考えが、一つ追加される感じというか、作者の感性もいくらか理解できて作者の言いたいことが、自分の知識の中で位置づけられるという感じが楽しめるのが、こういう本の楽しみだ。
  いつこの本の内容を役に立てる時が来るのかということを考えても、たぶんずっと来ないだろう。本を役に立つ立たないで判断することも、一面的で意味もないのだが。そういう意味では、知性の涵養ということでは役に立つのだろう。いつ知性を使っているのかと言われてしまうが。