日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

めも

2015-09-23 06:41:07 | 全体主義について

  連休に入ってP・K・ディックの「高い城の男」を読み上げた。書店で手にとって面白そうだから買ったのだが、ディックらしい内容。ナチスと日本が戦争に勝った世界を書きあげているのだが、割合、日本に好意的に書かれている。

  日本が戦争に勝っていたら、日本による全体主義がアジアに蔓延していたのだろうか。
  日本の全体主義の特徴は、誰も責任をとらないこと。旧憲法下での天皇でさえも責任をとらないし、それ以外の人間はなおさら責任をとらない。システムとして責任が明確にならないように、集団行動が前提。このことは、現代の学校教育や、部活動でも実践されている。団体責任、なんじゃそらというのが、理性的な判断だと思うのだが、そのような責任の負い方は、結局は責任の希薄化、原因、経過、結果、責任の関係を全て無効にしてしまう。
  それで横並び社会が形成されていくのだろう。このあたり、侍ジャパンとか言っているが、人口のほとんどが百姓でその子孫がほとんどで、苗字から判断しても何でこの人が侍なんだろうと思う人物がいっぱいいるが、それで気分よくやっている人達が多いところにも共通点があるのかとも思う。
  第一、侍ってそんなに偉いのかと思うのだが、自分で生産活動をするわけでもなし、侍の多くは官僚的統治機構の一員としても、大部分が過剰な存在で社会的に貢献していたというよりも、百姓を搾取していたといって良いと思うのだが、このあたりは、あまり考えないのが、日本流、さわりの良い言葉の裏や奥は考えない、これが集団でのルールなのだろう。
  この集団がおとなしい間は良いのだが、暴力性を発揮し始めた時、暴力のネジが巻かれた時に、誰も止めることができないのが、全体主義のおそろしさ。
 
 
 

安倍と全体主義

2015-07-28 06:52:53 | 全体主義について
  安倍は全体主義者か?
  彼の話を聞いていると、訊かれたことには答えない。同じフレーズの繰り返し。訊かれたことには答えずに、自分が好きなことを何度でも言う。
  彼の特徴であるのだが、こんな全体主義者がドイツにいたのだが、そのまんま同じ。
  彼が、日本をあるべき姿にと考えているのは、確かなのだが、そのあるべき姿「美しい国日本」が憲法よりも優先している。
  日本は立憲主義の国なのだが、それを超えるイデオロギーの発動、このイデオロギーが回転を始めると、憲法は無視される。ワイマール憲法もそのような運命だった。
  この点では、憲法を越える価値観、イデオロギーによる運動という意味では、全体主義者の例に並んでいる。
  日本は、一度動き出したものに歯止めをかける力がほとんどない。今回の強行採決もそうだが、自民党内部には安倍に抗する能力はないし、他党にもない。
  むしろ、国民の中には安倍の外面のよさ、同じフレーズを繰り返されることによってそんな気分にされた人も多い。
  この一部にしろ国民の賛同の中で、戦争法案が審議され、そのままに流れていく。
  新しい形の全体主義というものがあるのではなかろうか。



全体主義について

2015-07-26 17:12:15 | 全体主義について
  最近、アーレントの本を読み始めた。彼女の本は、読みづらいところがあるのだが、その指摘は面白いところが多い。
  本を読み出して、全体主義や悪について考えているのだが、全体主義が悪を生み出すのか、悪が全体主義を生み出すのか。アーレントは、ナチスレーニンスターリン時代のソ連について分析をしているのだが、日本はどうなのかと思う。日本が、全体主義の脈略で語られることは少ない。軍国主義として、全体主義が捉えられることが多いのだが、軍国主義を生み出す背景には何があったのかと思う。ナチスにはヒトラーソ連にはスターリン、日本には東条だろうが、東条が自国民を積極的に壊滅させるべき螺子を回していたようには思えない。結果は、壊滅したけど。
  日本における全体主義の進展は、強力なイデオロギーというよりも、より目に見えにくい雰囲気、協調という名の強制、空気、誰も責任を負うことなく物事が進んでいくシステム、ここに全体主義が、全ての個人を全体として1人かのように均質化していく全体主義が潜んでいるように思う。
  ナチスボルシェヴィキは、全体主義を蔓延させるためにテロルを使用したが、日本においてはその必要すらなかったのではないかと思う。日本の全体主義にテロルが存在しなかったという意味ではないが。
  現代の日本においても、誰が責任を負うのかという質問に対して、面と向かって回答があることはない。トップである私の責任ですという人はいるが、そのトップはどのような責任も実際には負わない。辞めてお終いということが多い。その責任の追求のしようのなさから、無責任と放置、個人という自覚が失われ、集団性という全体に還元されていくのではないかと思う。
  日本における全体主義の芽は、つまれてはいないし、むしろいつその方向性へと暴走していくことも考えられる。
身近に全体主義はあるのだと思う。

台風の通過ときな臭い世の中

2015-07-18 17:23:33 | 全体主義について
  台風が過ぎて、今日から夏らしくなるのだろうか。
  例年、家族で夏には旅行に行っていたが、今年は行けるものか分からない。
  上の子も、下の子もそれぞれ予定があり、忙しい。8月末ごろに都合がつくだろうか。

  安倍政権のもと、解釈改憲が行われているが、自民党は寄らば大樹のかげであり、日和見、ほか小判鮫のような政党は問題外。
  全体主義という流れが来ているのだろうか。日本は、元より全体主義的傾向が強い。
  何らかの議論がなされるわけでもなく、全体の雰囲気、皆さんが空気を読めよという言葉が好きなように。このような結論づけ(論理的整合性、価値観のすり合わせ、合意が図られるのでなく、多数決を民主的と理解する傾向が強い、学級委員長選びのような人気比べ的)がなされることが多い。
  今回の、議論も噛み合っていない。互いに大砲を打ち合うのだが、高射砲を空に向けて打ち合うばかり。これが、自民党が言う議論であり、議論が尽くされた感であり、戦術なのだろう。本当の意図は、国民には言わない。ナチスであれ、ボルシェヴィキであれ、日本帝国であれ同様であった。  
  きなくさい感がして止まない。
  戦争をしないための法案と言っているが、目的が軍隊の使用のための法案であると言わないところ、ビッグブラザーの支配する世界、ダブルスピークだったか。戦争は平和であり、自由とは服従という感がある。
このようなことが、個人の意図により実行されるところに、全体主義を感じる。日本には、議論という歯止めがない。
  また、市民は市民権、公権を行使することがない。ただ、市町村民であるだけ。その町に生まれたということにしか市民を理解していない。公民権の行使の意味こそが市民の意味であるだが。
  こういう面倒くさい議論や、思考を行うことへの興味が少ない。朝のニュース番組を見ればよく分かるが、ほぼエンターテイメント中心、大事な内容は一時間の内、5分から10分くらいだろうか。
  良い世の中を期待するが、うちの子の時代、その子の時代はどのような時代になるのだろうかと思う。