日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

世界は最良?

2016-02-28 14:57:34 | 子との対話
父  今、ライプニッツを読んでいるんだけど、この人の意見では、今ある世界は最良、ベストの状態なんだ。戦争とか不幸なこともいっぱいあるけど、それでも、今の世界が最良なんだよ。
子  何で、その人どうかしてるね。
父  何故かというと、世界は神様が作ったんだけど、神様は最良のものしか作らないから。だから世界は最良なんだよ。神様が最良でないものを作るわけないでしょ。
子  戦争とか、虐殺とかあっても。
父  そうだね。悪いことがあるのも、より良いことをひきたてるためだよ。悪いことがあるから、良いものがより、 
    際立つだろ。
子  その人、思考停止しているね。
父   微分を作った人だから、頭はめちゃ良くて思考は明晰なんだけどね。たくさんの世界から、一番良い世界を選んで作ってくれたんだよ。神様から見ると、その人に属することは全て見渡せて、過去から現在、未来までその人に関係することは全て神様には分かっているんだよ。人間には分からけどね。
子  その人、カルヴァンと話が合うんじゃない。
父  予定調和だね。世界は、始まりから終わりまで全て神様には分かっているからね。でもこのライプニッツは 、人間には自由意志があると言っているんだ。
子  いや、決まっているからないんじゃないの。
父  アダムがリンゴを食べることを神様は知っていたけど、神様はアダムに自由意志を与えてアダムの好きなようにさせたんだ。
子  リンゴを食べることを知っているなら、自由はないんじゃないの。
父  いや、今から私が右手を上げるか、左手を上げるかは決まっていなくて、どちらかを上げるけど、どちらを上げるかは神様は知っているよね。でもどちらの手を上げるかは、私が決めるんだよ。
子  ふーん。



悲しいことが好きなのは、何故

2015-06-30 07:21:56 | 子との対話
子 何故、悲しい物語や話を人は好きになるのだろう。そんな話を聞いて何がおもしろいの。何でそれを聞きたがるのだろう。TVでも、子供が幼くして病気でなくなるような話をしていたり。
父 悲しいことが人は好きなんだと思う。滅びの物語は昔から人に好まれている。滅びの中に美しさがあるからだと思う。平家物語の最後は悲しいし、ホメロストロイア戦争にしても滅びの物語だし、ギリシアでは悲劇が人気があった。
子 人気があるのは、分かるけど何故ということを思うんだけど。
父 人は、滅びの中に美しさを見出して、その中に生きている意味を見つけるのだと思う。人は、滅びることへの願望があるのだろう。悲劇には、普遍性があって、誰もが共通する悲劇、悲しみを負うことがある。もしくは、それに近いものを抱えているからだろう。生があるのは、滅びがあるからであって、誰もが必ず消滅する。その滅びの中に輝きを見るから、意味や価値を見る。日本史では、戦いの最中に、正妻、家臣を見捨てて、妾を連れて逃げ出し、天寿を全うするような人もいるけど、この滅びの中に、美しさを見たりしない。ある意味、いさぎ良い、徹底した利己主義とは言えるけど。
子 かわいそうに思っている自分があるのが、好きなのかな。自分はいい人だと思うために、悲しい話を聞くんじゃないかな。
父 そういう面もあるかな。人は比較の中に生きてるから。全てが比較と考えてもいい。人と話すのも比較、他人にああ言われた、こう言われたことを考えるのも比較、自分がこう言われたいということと比較をしている。予想外に褒められるとうれしいし、腹が立つのは、自分の考えていることと比較して違うから。比較をして、自分をみているのだと思う。
子 幼く亡くなるような子供の悲しい話を聞いたりしても元気がでるというのは、何故。
父 その短い生の中に輝きを見るから。自分は、何をやっているんだろう。そう思うことができるから元気がでるんだと思うよ。 



あるとない

2014-12-21 08:28:27 | 子との対話
子がある映画を見に行った。高校生向けの映画なのだが、上映中に話をするようなマナーの悪い客がいた、ということが発端の話。

子 まあ民度が低いそういう人たちは、仲間で何かを持っているから、自分たちと違う人を蔑んでいるし、そうじゃない人たちは民度の低い人を、そういう言葉で蔑んでいるし、お互いに違うから何を言っても分からない。

父 そうだよね。仲間とか友情とか、少年ジャンプみたいなのを持っているんだろうね。そういうものが本当にあるかは分からないけど。

子 友達とかはあるんじゃない。

父 あるかないかは、話のレベルで違うけど、友情というものがあるとしても、その人達の間に本当にあるかは分からないし、友情というものが、あるということも分からない。

子 父さんがないと思っているだけじゃない。

父 ないとは言ってないよ。あると言えるかどうかが分からないと言っているんだよ。あると思っていても実際にはないものというのがあるんじゃないかな。友情というのは例として挙げただけで、勝利とか名誉とか、ありそうだけど本当にあるのかな。そこに懐疑的なだけだよ。
例えば、目の前にコップがあるけど、間違えたグラスだった。グラスがあると思っているのはグラスという概念を持ってるからグラスがあるだけで、食器があると言えば、グラスはそのうちの一つだから、グラスがあるんじゃないくて食器があるということになる。
あるか、ないかは考えてる人の側にあるんじゃないか。そういう意味では、友情があるかないかは、分からないなと思っている。

子 ユニコーンはあるか、ないかどっちだった。

父 ユニコーンはある。という意見もある。ユニコーンという言葉があるからには、その対象がなければならない。

子 いやないだろ。

父 ユニコーンは実在しないけど、ユニコーンという概念がないとユニコーンという言葉が使えないだろ。そういう意味ではユニコーンという言葉が示す概念はある。ユニコーンだとないと思っているだろうけど、赤はあるかな、ないかな、実数はあるけど虚数はない。数もあるのかな。赤なら、赤い物に共通する性質とか何かがあるんじゃないかな。赤い物の集合が赤という考えもあるけど、ではどうやって赤い物を集めればいいんだろう。
何かが、あると言うと、全てがあるとしか言えないのかもしれない。グラスと食器のように、抽象のレベルをあげていくとテーブルの上のもの、家財道具、ここにあるもの、となっていく、最後には全てのものがあるとしか言えなくなってくる。

子 友情がないなら哲学はないね。

父 哲学は空想だから、実在はしないね。

ややこしくて面倒くさい「因果関係」

2013-08-31 08:34:06 | 子との対話
子 「ややこしい」と「面倒くさい」って同じ意味じゃない。

父 違うよ。ややこしいから面倒くさいんだよ。面倒くさいからややこしいは成立しないよ。

子 でも、同じ意味で使ってない。面倒くさいことをややこしいと言ったりしてるよ。

父 面倒くさいことは、ややこしいことが多いから、日常だと同じように使えることが多いけど、必ずしもそうはならないよ。面倒でも簡単なことはあるだろ。単純作業の繰り返しは、面倒だけどややこしくはない。因果関係は、ややこしいから面倒くさいへ成立しているんだよ。その逆は必ずしも成立しないんだよ。いや違うか。ややこしいから面倒くさいに因果関係があるなら、面倒くさいからは、ややこしいは必然になるな?この場合は、面倒くさいからややこしいのか?????

子 学校の評論にあったんだけど、「因果関係は人の勝手な見方に過ぎなくて、物の側にはない。」と書いていたよ。そしたら、ややこしいから面倒くさいの因果関係はないんじゃない。

父 ややこしいは、物理的な複雑さを意味しているけど、面倒くさいは人の感想、主観の表現なんだよ。
だから、物理的な現象化から主観が成立している。面倒くさいの時点で主観が入っているのは確かだよ。
因果関係を説明するとややこしくて面倒くさい話になるんだけどね。
因果関係が厳密な意味では成立しないのは、ヒュームという哲学者が指摘しているんだけど、
例えば、ここにあるガラスのコップに、フォークをカチンと当てる。割れるか割れないかはまだ分からないよね。100回やってみて、100個のコップが割れると、割れたコップとフォークの間には因果関係があると、思うよね。でも101個目のコップが割れるかどうかは、やってみないと分からない。100個のコップが割れたことから言えるのは、次のコップも確率的には割れるんじゃないかと推測できるだけだよ。次のコップが割れなければならない理由は論理的にはない。物理的にも101個目のコップがとても硬いとか、粘度があるとか何かの理由で割れないことも起こることがある。
決して単純な経験の積み重ねだけでは、因果関係にならない。このことには、注意した方がいい。
教訓っぽい話になるけど、農場に住んでいるひよこは、毎日えさをくれる農夫のことを、とても親切な人だと思っているだろう。毎日えさをくれるし、家の掃除もしてくれるからね。でも農夫は、本当に「やさしいおじさん」なのだろうか。

子 量子力学で、手がテーブルをすり抜けたりする可能性があるって読んだことがあるんだけど。

父 そうだね。手がテーブルをすり抜けるのは現実には起こりえない確率だと思うけど。
強い因果関係を考えると、テーブルに手が当たって跳ね返るのはやはり、偶然的だと思うね。テーブルが古くなっていたり、空手の達人ならテーブルくらいは手で抜いてしまいそうだね。
強い因果関係を考えると、AとBに因果関係があるならAからは必ずBが生じなければならないことになる。
現実の出来事では、AからBが生じなければならない理由はないんだよ。これまで1万回、AからBが起きることを確認しても、次にAからCという現象が生じる可能性は否定できないんだよ。物理的に、マクロにはAからBが生じることは言えたとしても、ミクロの要因まで考えるとかならずAからBが生じるとは言えないんだよ。工場でもどれだけ計算していても必ず不良品が生まれたりするだろ。

子 強い因果関係を考えて何の役に立つの。

父 まあ役に立つのは裁判とかだろうね。どれだけ強い因果関係があれば、犯罪が成立するかとかだろうね。被告が犯罪を犯したのは、被告の劣悪な環境に原因があるのであってとか言うでしょ。あんまり、ゆるゆるの因果関係で罪にされても困るし、かと言って強すぎる因果関係だと犯罪なんか成立しない。
だから、どの程度の因果関係が必要かを考えるのは重要なことだよ。

子 結局、因果関係はあるのないの。

父 論理的には、因果関係というものは成立しないと思う。だけど、日常的には因果関係は成立すると考えないと生活できないから、そういう意味では因果関係は成立すると考えた方がいい。

子 ややこしいね。

無いことについて

2013-02-10 11:09:41 | 子との対話
子 主人公は、頭の中にだけいる犬がいなくなったと言って大騒ぎをするんだ。
父 面白いね。現実の犬じゃなくて、空想の犬がいなくなったことを頭の中で想像しているんだ。元々いないものがいなくなる想像か。
子 主人公は、いつもこの犬と一緒だったんだよ。
父 いつもいない犬がいなくなる想像はどうだい。
子 どういう意味。
父 僕の頭の中には、普段から犬がいないんだけど。今日は、ポチがいないんだよ。いない犬がいなくなることができるだろうか。いなくなるということは、どこかにポチがいないといなくなるとは言えないよね。はじめからポチいなければポチはいなくなることができるのか。不思議に思えないか。
子 何。
父 だから、僕の頭には、タマがいないんだよ。とか、テリーがいない。ジョセフがいないとか。
いないものだから無限にいないと言えるよね。
このいないものをわざわざいないと言うとどうなるか。
普段は、頭の中にいる犬がいなくなったと言われると、まだ言っている意味が何とか分かるよね。
僕の頭の中には、ミミズがいないし、石ころもないんだよ。と言い出したら、意味がわかるかい。普段は頭の中にいるのかいと聞いたら、いやいつもいないよ。でも今いないんだよ。と言って騒ぎ出したら。
いないことは、間違っていないだろう。石ころが頭にないのは当たり前だけど、この当たり前のことを口に出して言われると違和感がある。
無いものについて、無いと言う。この手の上には石ころがないです。この文は意味があるか。
文脈によっては、意味が生じる場合があるよね。これから手品でも始まるのかな。と考えるしかない。でなければ、こいつ何言っているの。となるだろ。
私たちは、文章自体が意味をもっていても、現実の使用の中では意味をもって無いものについて言及することができない。在るものについてしか語ることができないんじゃないかということ。
子 はじめから無いものについては、語れないということか。でも空想ではいろんなことが語れるよね。
父 空想でも、無いものについては語れないんじゃないか。空想上あるお話は可能だけど、空想上もないお話ができるかい。