日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

「こころ」を読んで思うこと。

2020-09-18 16:40:39 | 日記
    Kの死は、先生の罪なのだろうか。Kの死は、先生の行為の結果なのだろうか。一つの考え方は、先生の行為が一つ違っていれば、結果も違っていたということだろう。先生に一定の責任と罪を見ることになる。
  もう一つの考え方は、先生の行為とKの死は法則的な因果関係が成立しないということだ。先生の行為があっても、Kは死ななくて良い。先生に責任も罪もない。
  何らかの、Kの理由によってKが死んだのは事実だが、先生のある特定の行為は、Kでなくても、人ならば誰しもが死ぬという種類のものではない。
  先生のある行為という偶然の行為があり、それに連続してKの死があったので、人は相互に因果関係があるように見るが、ヒューム的な考えになるが偶然の出来事が続いているだけであり、相互にそこに論理的必然性があるということではない。仮に論理的必然性が主張できるのであれば、先生の行為は殺人ということになる。
  自死(ここでは自殺ではなく自死という語を使用する。それは上記のような意味合いを自殺は連想するため、自らの死という意味合いのあるこの語をここでは使用する。)の関係者が苦しむのは、この論理的必然性がないにもかかわらず、関係者と自死した者との間には因果関係があると自らが思い込むところ、又は関係者が互いにそのように、あいつが悪いと考えるところにある。
  Kの死と先生の行為の間には、法則的な因果関係があるとは思えない。偶然の結果、悪い方へと物事が連続したのであろうとは思えるが、出来事間に必然性があるとは思えない。
  行為と結果、これを説明する理由の間には、一定の関係性がある。行為を説明するには、その理由を原因として説明することになる。行為を原因により再記述したものが理由となる。人の行為を解釈するには、その理由として、行為の原因を指示して説明する必要があるのだ。Kの自死という行為、その結果である死。自死という行為を解釈するには、理由が必要であり、原因による自死という行為の再記述が必要になる。
  この原因は、強い因果関係の理解だと、行為と結果の間にはある特定の法則的関係性が要求される。一方で、行為と結果についての説明には、そのような特定の法則性が指示できなくても、何らかの法則性の存在が認められるのであれば、弱い意味になるが因果関係が認められる。窓ガラスに石を投げて、窓ガラスが割れる。窓ガラスが割れたのは石が原因だと言われる時、物理法則が特定されているわけではない。(割れない可能性もある。ガラスの強度、石の速度、質量が特定され、結論されるわけではなく、これらを厳密に確認することは出来ない。)そのような物理法則の存在が推測されるだけだ。
  この弱い意味での因果関係、Kの死について先生の行為と何らかの関係があるのであろうということは、そのように思われる。Kは死の意思決定に至るには、思考のマトリックス、縦横の思考の重なりによって決まったのだと考えられるが、先生の行為がどの程度の影響があったのか言えない。
  先生が悩んだのは、この自身の行為とKの死の因果関係における自身の役割だと思う。強い因果関係は否定できるのだが、弱い因果関係をとると何らかの関係性を求め認めざるを得ない。
  強い因果関係があれば、先生には贖罪の道があったようにも思う。人に罪を告白する道もあったのだろう。先生には、弱い因果関係しか認めることができなかった。主に、Kが自死のような極端な行為をすることにどこまで、自身の責任があるのか。先生と同様の行為に対し、多くの人は、Kのような行為はしないであろうと思われる。 
  先生は、強い因果関係を見て死んだのではないが、罪の意識、故に死んだ。罪の意識の元になったのはKの死とその前にあった先生の行為。そこに何らかの関係性を見たからであろう。先生は自身の行為が卑怯なものと考えた。そこにKの死、謝罪、贖罪の不可能性。
  ここで、仮にに因果関係を認め、先生の責任や罪というものがあるとしよう。この責任や罪の実在性、Kの死に先生に責任があるとすれば、この時に考えられる罪というもの。この罪というものは、実在するのであろうか。
  罪が物理的存在者でないことは議論の余地のないところであろう。罪は抽象的存在者、概念上の存在者であろう。先生の概念として、先生の心の中の存在者として罪がある。
  この罪というものは、先生の手紙を読む「わたし」と、「こころ」を読む読者の他に存在するところはない。この罪は先生の心を知る者の中にしか存在しないのだ。「わたし」は先生の手紙を通して先生のこころを知る。
  先生のこころの内に存在するという罪、これは公共的存在ではなく私秘的な存在である。あくまで、この罪は先生の概念上のこころの内の存在であり、こころの外にある公共性のある罪ではない。手紙により先生のこころは語られる存在となり、客観性を持つのだが、こころが客観性を持つ手紙となった時点で、視点は読者に移動し、そこに先生の主観性は失われる。
    先生の主観を表現している客観的存在が手紙なのだ。その客観的存在である手紙を読者が読む限り、先生に罪はないと思われる。
  先生のこころのうちにある罪、それが客観的表現を得て手紙となる時、そこに読み手は罪を見ることはできない。そこに見えるのは、不運な出来事。出来事の連続を手紙は表しているのだが、罪は出来事ではないので、罪そのものが顕わにされているものではない。
  出来事は、実在的な存在、事実であるのだが、罪は事実というような出来事ではない。その人の主観に基づくこころの内に存在する観念、そういう意味では実在ではない。
  手紙という客観的存在者としての出来事の連続の記録。それと、罪という先生の主観、観念上の存在、それを読み取る「わたし」。「わたし」は、手紙を読み解く主観的存在者なのだが、そこには、手紙と言う性質上、先生の主観を観察する観察者に位置することになる。「わたし」は主観的存在者であるが、他人の手紙を読むという点において客観性を担保された者、主観的存在者ではなく、客観的存在者にあたる。
  この「わたし」の語りを読むことにより、「こころ」の読者は、先生に対しては客観的存在者、観察者として先生の主観を推察することになる。
   客観と主観が、ロシアのマトリョーシカ人形のように多層的に入り組んでいる。手紙は先生の主観であるが、「わたし」が読むことにより客観となる。「わたし」の語りは、「わたし」の主観であるが、読者が読むことにより、客観になる。手紙を読む「わたし」、「こころ」を読む読者は、それぞれ主観的体験をしているのだが、手紙に対して客観的観察者の立場に立つ。
  読むという行為自体は、主観的体験だが、その内容に対しては第三者的、客観的観察者の立場に立つ行為でもある。
    客観的事実というものが、この小説の中にあるわけではない。仮想、フィクションの中の事実、それが経緯として先生や、「わたし」の主観を通した語りによって事実として記述される。
    先生のこころにある罪は、手紙によって公共性を持つがその時に先生は存在しない。結局のところ、罪の存在は、先生のこころにすら、その在りかを失い。手紙において、過去完了形の罪として、罪があったのであろうということの推測だけが残る。
  罪というものは、存在なのだろうか。こころのうちにしか存在しない罪は実在なのだろうか。
  何が、実在するか、しないかはその存在を問うレベルによる。罪が存在するレベルとは、刑法上のレベル、罪の意識のレベルにおいて実在するしないを問うても、そこには、主観のなかに、こころの中に存在があれば実在と言わざるを得ないだろう。罪の有る無しを問う、それを考える時点で負い目を感じている。それが、罪とういうものの本質なのだろうと思う。
  生きる者は、それ故に罪をかかえてしまう。贖罪や、救いを何かに求めるという行為にたどり着くのであろうと思う。
     先生の手紙は、先生の贖罪であり、それは遺書という形式になっている。 そのうえで、「こころ」という作品自体が、作者の思いから生まれた一つの祈り、未来と過去を隔てる区切りのようなものでないかと思う。