クリシュナムルティは、自分自身を観察し、自身の心の動きに敏感であれと言う。何かに成ろうと努力するのでなく、何故、成ろうとするのか、そこを見ようという。怒りがある時、それを怒りと呼ぶ自分がいる。怒りの対象について、堂々巡りの考えをしている時、それは怒りでなく、怒りと名付けられた思考である。その継続が、恐怖や、暴力を生む。暴力的でないように考えるのでなく、何故、自分は暴力的であるのかを考えよう。
自分が暴力的である時、そこには卑小な自分がいることを指摘され、気づかさせられた時に、自尊心を傷つけられた、と反発する。事実、そこに卑小な自分がいることを認めないために。
彼は、道徳的であれとか、執着するなとか、そう言う指針的な事は言わない。自分自身で、自分自身から学び、自分は、社会、世界の縮図、全てがある。そこを観察すれば、人に教えてもらうことはない。人は、教えてもらう事が好きだ。楽だから。何故、教えると言う人が正しいかは考えない。彼は知り、自分は知らない。神や真理を知ると言う人は、神が何であるかを知っていると言う。あなたは神を知らないのに、探そうとする。姿形を知らないものを探し出すことが出来るだろうか。与えられた神が、探し出そうとしているものとどうして分かるのだろうか。
人は、自分自身を観て、そこに何があるのか、自分がどんな人物なのか、人に話す時、どんな態度をしているか、それを見なくてはいけない。何かに成ろうとする前に。
自分が何であるかを知ることが出来た時、そこから、人生の美や、醜を見るのだろうと思う。そこには、比較などないのだろうと思う。