日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

愚か者を道伴れとするな

2017-07-16 08:04:58 | 日記

  「愚か者を道伴れとするな。1人で行く方が良い。」

  「真理の言葉」という仏典に出てくる言葉で、私は好きだ。意外だったのだが、上の子にこういう言葉があると伝えると、他者を愚か者と認定するのが気に食わないと言われた。
  この話の始まりは、「他人の悪口を言う人同士が友達とか、ママ友とか言っているのはおかしくない?」という子の問いかけから始まったのだが。私の返答は、そう的外れな返答でもないと思うのだが、以下のような強い皮肉が帰ってきた。
  「そういうお前は、愚か者ではないのか。他者を愚か者と言う者は愚か者と」、「そう言っている自分が愚か者であることに気がつかないお前も愚か者だ。」という趣旨のことを言われた。
  この調子で言うと、そう言っているあなたも、愚か者になってしまうのだが、この調子では、全員が愚か者になってしまうだろう。愚か者について論じるが最後、無限に連鎖が続いてしまう。
  先の言葉に関連しているのだが、「真理の言葉」では、「自分が愚か者であることに気がつく者は愚か者ではない」とも書かれている。
  ここで、疑問がひとつ。
 
1 愚か者がいる。
2 愚か者が自分が愚か者であることに気がつく。
3 愚か者が愚か者でなくなる。
4 愚か者であった者が愚か者でないことに気がつく。
5 愚か者でないことに気がついた者は、自分が愚かであることの自覚を失くす。
6 愚かであることの自覚を失くした者は、2の前提を失くす。
7 1に戻る。
8 後は循環。
  
  これで、延々の循環に陥ってしまった。何か間違っているのだろう。では、4のステップで自分が愚か者でないことに気がついてはいけないのだろう。主観的には、自分は愚か者であり続けなければならない。一方で、客観的には愚か者であることに気がついている者は、愚か者ではないわけだから、3のステップの成立も言えるわけだ。
  この考え方の場合、客観的には愚か者ではないと考えている者は誰なのだろう。客観的真実というものが、自分の主観を超えて存在していると考えるのだろうか。 
  主観を経ない客観など、私の世界には存在しない。客観的世界は私の認識をとおしてしか知ることができないものだ。それを通常、客観的な態度とか言っているのだと思う。そういう意味では、この4のステップを利用した考え方は、神の立場のようなものを前提としなければならない。それこそ、お前何様(愚か者か?)だと思う。
  では、もう一つ違う考え方をしよう。循環自体を肯定的に認めてみよう。人生は繰り返しの連続、そう思えば、循環は生の一つの在りかた。人は愚か者を卒業して、また愚か者の仲間に入り、それをさらに卒業して、また愚か者に、ある意味当たっているように思える。ただ、仏教的な悟りがこういう一種開き直りみたいなものでいいのかはよく分からない。
  論理的に考えると、循環論法はあまり適切な説明にはならない。そういう意味では、循環した解釈で良いのかはよく分からない。一方で、論理的な真理はトートロジー(同語反復)になるので、循環したからダメとも言い切れない観もある。
 
  私は、他者を愚か者だと思うことがある。誰でも、そういう感想を持つことがあるだろう。このことは、否定されることではないと思う。一方で他者も同様に、私を愚かだと考える。そのことを認めれば他者を愚かだと考えても良い。一方だけが、相手を愚かと決め付ける関係を強要するような行為、力の面が問題なのだと思う。
  愚か者は、世の中に多く存在するし、その者に決して力を貸してはいけないことがある。抗議、愚かな行為に反対することは、勇気である。愚かな行為に同意しないこと、そういう点では、愚か者を愚か者と認めることが必要。(自分の誤りがあることも考慮に入れて)
  愚か者を道伴れとしないことは、こういう意味、面も含まれているように思う。

言葉と世界

2017-07-15 20:30:27 | 日記
  今日、近所の日帰り温泉施設に行った。風呂から上がって休憩場所に行くと、先客が1人でテレビに向かって相づちをうったり感想を言っていた。変わった人だと思ったのだが、次々と考えることが口から出てしまうのだろうか。
  人は、予め考えを持っているように思えるが、言葉にしてこそ考えがはっきりする。言葉にする前にもそういう考えを持っているから、言葉になるのだろうと思うが、言葉にしない限り、考えはまとまらない。
  言葉にする前に、何か考えが頭の中にあるように思うのだが、言葉になる前の考えは、心の中で探してみても見つからない。むしろ、言葉にしないで探すことさえできない。
  言葉にする前の考えは、どこにあるのだろうか。頭の中と言われるのだろうが、物理的な場所のことではない。言葉が飛び出てくるこのプロセスは不思議なものだ。
  この頭の中から、飛び出してくるというか紡ぎだすというか、そういう言葉が出ることによって、自分で世界を規定して、一度言葉にしたことを、また頭の中に戻しているのだと思う。それが、その人が持っている世界を作り出す。  
  実在の世界には、様々な世間のしがらみ、習慣、価値観みたいなものは存在しないのだと思う。人は自分が言葉にしたことを、自分で呑み込んでまたそれを世界の実在、あり方だと思い込んでいるように思う。
  会社でも、どこでも人と人との間に偉さの違いなどはありはしない。金持ちでも、裸にひんむいてしまえば、風呂で裸にいる間は何者でもない。大きく言えば、人は種としては体毛の少ない尻尾を無くしたサルでしかない。服を着ることを覚えたサルから、その人が着ている服について自分で言葉にしたことを呑み込んでいる内に、社会の制度みたいなものを実在、リアルにあるものだと思う。ある意味で存在していることは認めるが、それもある意味でしかない。どんな偉いと言われた人も、亡くなれば灰や土になる。何も残りはしない。
  仏陀は、世界は空しいということを言っているが、自分で言ったことを呑み込んで、それを本当に思っていること、ところがそれは実在ではないと。世界が空しいというのは、そういうことを言っているのだと私は思っている。 
  実在と思っている物理的な世界さえも、私を構成する分子と、それ以外の分子にどう違いがあるのかと考えていくと、どこにその区切りがあるのだろうと思う。
  この区切りも、私が言葉にして呑み込んでいるものに過ぎないのかもしれない。分子レベルで見た時に、私と言うものがあるのだろうか。私を構成する分子の塊の雲のようなものが私なのだろうか。
  そう考えると、実在の世界も、私の考えにより構成を規定して、私という分子の雲の範囲を私の言葉によって区切っているのではないかと思う。