普遍が何であるのかを考える。普遍とは、例えば薔薇であれば、個体としての薔薇でなくて薔薇全体としての薔薇、といっても薔薇の花の集合でもない。この集合を集合たらしてめている薔薇という概念なのか、名前なのか、性質なのか、議論の分かれるところだが、そういうものが普遍。
薔薇の集合の名前が薔薇で、薔薇は名前でしかないと考えることもできるのだが、集合の要素はどうやって集めてきたのですか。と訊ねられると集合の名前というのは不足があるように思う。この考えでは、神様がはじめに薔薇と名付けました、という理解になると思う。
薔薇は性質だとすると、花の中にそういう性質が存在することになる。すると薔薇は、花の中に性質として存在することになるのだが、花の中にある薔薇の性質って何だろう。その花の中で、薔薇以外の性質もあるのだろうかとか。こう考え始めると性質って説明になっているのかと思う。
薔薇は、概念だと考えると花に概念があるわけではないから、薔薇という概念を人が持っているのだが、その概念を適用する時にどういう花が薔薇だと人は判断しているのだろうか。
普遍が存在するかしないか、世界に何が存在しているのかを考えると人によって違いがあると思うのだが、普遍が存在しないと言ってしまうと、世の中にあると思われているものの数は結構減ってしまう。
物しかないと考えると唯物論になるが、そう考え始めると物って普遍じゃないか、個々の物と言っても、個々はどうやって分けているのかと考えると、普遍によってこれは、机とかリンゴとか車とか分けているんじゃないですか。この普遍は物ではないから存在しないし、存在しないのなら個々の物に分けるのは意味がないように思う。
そうすると、世界には個々の物などなくて、一つの物だけがあるように思う。分け隔てのない物、全てを含む世界、そういう物があるだけ、そこに自分も入っていて世界を覗いているように思う。
でも、実際の世界はあくせくと、個人の資産を増やすことや、何らかの力や尊敬を集めることに必死になっている。そうすると、普遍と呼ばれるようなもので世界を区切ることに皆が必死なわけで、そういう概念というか、想像物が存在していると疑わずに暮らしているように思う。
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