日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

主語と述語と世界の関係についてのメモ2

2018-01-03 15:33:00 | 主語と述語について

  fである何かが存在する。 論理式で書くと、∃xf(x) 

  このfが物事の本質。xは個物である何かを指している。∃は、存在するという意味。
 この∃xf(x)が成立するのは、変項であるxにある特定の値が入った時になる。faが存在するとしよう。aは、特定の値であるので、ある個物を意味するので、例えばaを安倍晋三とする。
 これが成立するのは、fが人間であるとか、総理大臣であるとか、右翼の軍国主義者であるとかになる。仮に左翼の共産主義者では不成立となる。
  faが在る時、fが存在すると言えるのか。faは個物だがfは何らかの性質や事態を現している。aが存在する時にその述語となるf無しに存在することはないだろう。
 安倍晋三の存在は、何らかの背景の下、fの元に見られることになる。それ故に、忖度されることとなる。
 言葉を使う人間は、そこに何らかの性質を様々な面から見て取り、又は自己の判断を含めて投影をする。物事を、物事の存在と同時にそこにfの存在、内在をみる。aなしのfというものは成立しないが、fなしのaも存在しない。安倍晋三は、この名が日本人であることを示している。
  fが無ければ、素粒子の雲のようなものが世界には在るだけに、個物というものも、物の境界というものがなくなってしまうだろう。fなしには、aそのもの、aをbからもa以外のものから切り離して見ることもできないだろう。
  そういう意味で、存在するもの、個物でさえも、人の意識にかかっているものだと思う。世界は、個物からの抽象化、普遍を取り出す作用によって、分類整理されていると考えてよいと思う。
  私が言葉を使う時、物を見る時、何らかの相のもとにある。そこには、何かのバイアスがあるだろう。世界の側にfaがあると私が思う時に、私はaでなくfを見て取る。fを具体化、具現化したfa、aよりもfを見るのだと思う。
  人と人が話しをする時に、互いにaよりも、fを見て、fを話題に話しをするのだが、その二人の間に共通するfとは、共通するようで実は、違う物である。fに公共性はあるのだが、それぞれのみるfは、その人限りのf、faという個物に受肉した途端に、それぞれが見るaは一つ、でもfaは何通りにもなる。
  存在することと、そこに何らかの性質を見ることは、同時的に起こる。そして、何かを伝えるには、このfaを何らかの意味で伝えることなのだが、一つのaを見てもfaは何通りにもなる上、言葉の上では同じfと言っても、fの意味が人それぞれに違っている。そこに、コミュニケーションの難しさがあるのだろう。

主語と述語と世界の関係についてのメモ

2017-11-11 18:48:07 | 主語と述語について

  主語と述語の関係は、関数の関係f(x)にある。主語となるのがxで、述語になるのがfだ。

  通常の文をy=f(x)の形で考えると、yとは話者の言いたいこと、出力、表現したいこと。右辺が、話者の文である主語xと述語fになる。
  通常の文の表現では、yとかいう言い方はしないし、関数的な言い方で「fであるx。」のような表現をすることもあまりない。文は、主語と述語で構成されるので、(日本語の場合、主語は省略されることも多いが、何が主語であるのかは、文脈的に読み取られることになる。)およそ意味のある文は、関数で表現できる。これが、論理学の命題論理の基本的な発想だと思う。
 
  「世界に存在するものが何か」を語ることができるのは、文でしかない。世界をどのように理解しても、表現するとそれは文になるので、世界に存在するものは、文での主語になるか、文の主語になりえるもの。それがどのようなものかは、述語で語ることになる。
  普段の会話では、○○が存在するという語をつけることはないが、自分が主張していることは何らかの意味で存在するか、もしくは、そういうものは存在しないと(否定の場合)言っている。中国人ぽく言うと○○あるよ。という感じか。
  「ある○○が存在する。」を、存在すると言う意味の記号「∃」で表現すると、「∃xf(x)」となる。
  次に、∃xf(x)について、fはホモサピエンスとしてみる。
  すると、ホモサピエンスである何かな何かが存在するとなる。
  その上で、この文が正しいかどうかは、ホモサピエンスがこの世界に1人でもいることが実証できれば、この文は世界を正しく表現していると言える。
  世界に存在するものは、このxに代入できるものである。xにaを代入するとf(a)、先の例では、aにホモサピエンスを1人でも代入することができれば、ホモサピエンスの存在が言える。
  例えば、aは、個人を特定する必要があるので、とりあえずf(a)に安倍晋三をいれてみる。「ホモサピエンスである安倍晋三」、これはOKだろう。安倍晋三も存在しているのでホモサピエンスは存在すると言える。
  この例のように、∃xf(x)は、存在を認めることができる文を表している。
  関数の例を、もうひとつをあげてみよう。
  今度は、「右翼の軍国主義者が存在する。」という文、これも∃xf(x)の形で表現できる。fを「右翼の軍国主義者である」に、xは「者」にあたる変数となる。
  次に、f(a)が成立しているか調べるために、aのところに個人名を代入する。そこで安倍さんを代入すると「f(安倍晋三)」になる。
  安倍さんは自分を右翼の軍国主義者と呼んでかまわないと言っているので、fに「右翼の軍国主義者」を代入すると、f(a)は、「右翼の軍国主義者の安倍晋三」になる。これは成立しているので、「この世界には右翼の軍国主義者が存在する。」ということになる。安倍さんは右翼で軍国主義者でない考える人は、好みの違う人を代入して欲しい。この時、文はその人が思い描く世界を表現している。
  存在するものが何かという問いは、形而上学の問いだが、この論理学の式を使うと、世界は述語となる関数に説明され、そして主語となるものから構成されていることになる。逆に言うと世界は、主語になりえるものの集合とも言える。世界は分解すれば、先の式で表すことができるし、人間が理解可能な、表現可能な存在と言うものは、先の形で表すことができる必要があるのだろう。
  ただ、問題はこの先にもある。安部さんが右翼で軍国主義者であるのは、ある意味、彼が自称、自認しているわけだから私はそうだと言う。一方で、そうではないという世界観の人もいよう。この時、世界に右翼で軍国主義者が存在することを決めるのは、どうすれば良いのだろう。ここから、また問いを立て、考える必要がある。

主語と述語から考える世界観

2016-07-16 18:22:59 | 主語と述語について
  主語と述語の関係は、ライプニッツの意見であれば主語の概念に述語が含まれている。「人間は動物である。」と言えば、人間という概念の中に動物が含まれている。「イチローがヒットを打った。」と言えば、イチローという概念の中にヒットを打つ。ということが含まれている。
  この調子でいけば予想できることだが、イチローが行うことの全てが予め、イチローの概念に含まれることになる。人間で不可能なことは、現実化されないので含まれる範囲が限られたものであることは確かだが、世界は予め神に定められた世界観になる。
  主語と述語の関係が、上手く収まっている文。言い換えると意味のある文は、世界を正しく言い表している文になる。この世界は、文で表現される時には、一つの事実として世界からその一部が切り取られる。
    では、事実とは、主語と述語の関係にあるのだろうか。人が事実を表現しようとする時、どうしてもそこには、主語と述語が必要になる。日本語は主語を省略できるが、その時には主語が隠されているだけで、主語が存在しないわけではない。
  文で世界を正しく表現することは、事実を語ることになるのだが、この正しくは何を持って正しく表現になるのか、真偽が問題になるわけだが、文に対する真偽は何と比べて真だと言っているのだろうか。
  事実は言葉によって主語と述語により表現されるのだが、世界を観察してこれを表現する言葉が、世界の側と一致するかと言えば、必ずしも一致しない。極端に語彙が少ない者は、表現できる世界は身近なことの一部に過ぎないだろう。語彙が多ければ世界と一致するかと言えば、必ずしもそうはならない。世界の側と、言葉はやはり異なるものだ。同じものにはなりえない。
  言葉を使って世界を表現して、それが正しいかどうかを言葉を使って検証するのだが、言葉を使って言葉が世界に一致するか検証するのだから、その検証も言葉に依存せざるをえない。そういう意味では、言葉で事実と考える物が、世界の側の事実であるかどうかは怪しいものだ。人が考える事実は、主語と述語関係において表現されるのだが、神でない人が、主語にどのような概念が含まれるのかを確実に言えるわけではない。
  主語と述語の関係は、世界の存在の仕方の一つの見方である。世界に存在するものは、主語と述語により結局説明をせざるを得ない。人が世界に存在するものを理解する時は、主語と述語の関係において理解をする。
  主語と述語の関係は、単純なことだが、人の世界の見方、ありようを規定している。
  そう考える時、自分の言葉や考えというものは、世界そのものに見えるように思えることも、結局、1人の考え、相対的なものに過ぎないとも思える。


主語と述語 再考

2016-05-12 21:46:04 | 主語と述語について
  主語と述語について、日本語での文法は、あまり主語、述語関係に関しては習わない。品詞分解は学校で習い、どれが名詞で、形容詞で、副詞がどれということはやる。
  日本語では、主語は省略されることが多い、また述語というものにはあまり注目しない。
 主語について語られているのが述語であるのだが、日本人は主語を明確にせず、責任をぼかすことに慣れているので、述語という考え方に違和感があるのかもしれない。このことが、雰囲気、空気を読めということに繋がっているのかと思う。
 西洋の哲学では、主に分析哲学だが述語というものに注目することが多い。
 人間とは何か。人生とは何か。これらを説明するものが述語になる。主語の概念を説明するとそれが述語になる。述語と主語は一体のものだ。主語の概念の中に述語があると言っていい。
 述語と主語が一致する場合、それは命題として真になる。人間は生物であり哺乳類である。そして、理性的動物であるとか、何かを説明するものが述語であり、それが主語に一致する場合に述語は真となる。
 AはBである。BはAである。A=Bとなる。人生は儚いものである。儚いものは人生である。この場合、人生=儚いものというのが、論理学での命題論理になるが、その命題論理の基底をなすのが、主語、述語の関係になる。
 世界は事実の総体とウィトゲンシュタインは言っているのだが、事実とは成立する命題のことであり、命題は主語と述語の関係にある。となれば、世界を構成しているのは主語と述語とも言える。主語や述語のうち、世界で成立しているものはなんであろうか。
 三角形は実在するのだろうか。色は、例えば赤色は、お金は実在するのか。三角形や、お金は主語になりえるが、これを説明するには、別の言葉が必要になる。三角形であれば同一直線上にない3点を結んだ線だろうか。このような主語についての説明が、三角形についての述語になるのだが、この述語で提示される対象というものは世界に実在するのだろうか。また、違う言葉、概念を使用して説明しても、いつかは元の語に帰ってくる。このことは辞書を引けばすぐに分かる。基礎的な概念は循環せざるを得ない。愛する→好きなこと 好き→愛すること。こんな感じか。
 主語や、述語は世界を構成しているのだが、その語は循環する構造にある。語が語を説明し、その語を語が説明をする。この意味で、述語は何かの主語になりえる語を用いていることになる。この延々の循環が世界を構成しているのであり、人生は何かとか、人間とは何かと言っても、循環構造に陥るだけだろう。この時、循環であれ、議論を構成する中でその時々に意味が構築、練られていくのだろうと思う。
 私は、私という主語である。これは私の人生という物語があれば、その物語が私に相当する述語にあたるわけだ。私と言えば簡単だが、私の概念の中には、私の物語そのものが存在しているわけだ。
 私という主語、一つの世界は、私の物語という述語により成立している。これが実在するのかというと、また考慮が必要になるが。