日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

バカについて(父と二人の子の対話)

2012-01-14 09:58:54 | 子との対話
子A よく人のことをバカと言って見下している態度は腹が立つ。その人の何が分かってバカと言っているの。
 
父 それでは、その人の全てを知り尽くした上でしか、バカと言えなくなるよ。そしてその人の全てを知り尽くすことなんかできないからバカという言葉は、誰も使えなくなる。それは困らないか。それに、普遍的バカが存在すると思っている。プフ。
 
子B バカの格好をしている奴を、外見上バカに見える奴をバカと言ってはいけないのか。バカかどうかは、人はほとんど外見上で判断しているのではないか。金髪をしたり、学生服の下からスウェットのフードを出したり、学校のルールが決めていることを、あえてしている人は、バカではないか。
 
子A そういう外見から観てバカという判断ができるの。その人の置かれた状況や考えも知らないで外見だけでバカということは、あなたもバカにならない。
 
子B その人がどういう環境にいても、わざわざルールを破って回りに迷惑をかけることはバカだろう。同じ環境にいてもちゃんとしている人はいるし、その人のことは気づかないだろう。まわりの気を引きたくてやっているだけなんだよ。
バカをバカと言うと、どうしてバカになるんだい。それなら、そう言った人もバカになるんじゃない。
 
父 人は、全てを知ることはできないし、普遍的なバカ、バカの理想像が決まっているわけではない。だから、自分で人を見下すことが、愚かだと知りつつも、その気持ちを捨てることはできないし、人をバカにすることが愚かであることを知りながらも、人をバカと呼ぶんだよ。人をバカにして、自分も人からバカにされる。バカは循環している。それが分かっていれば、人をバカと呼ぶことも、自然な気持ち、行為ではないかな。
大人になっても、作業服を着て電車に乗ることを嫌う人もいるが、その背景には作業服をバカにしているんだよ。バカでもネクタイを締めていれば偉く見えてしまうからね。私も、普段はネクタイをしないけど、偉く見える方が良い時はネクタイをするんだよ。バカと言わなくても、外見で人を見下すことはあるし、そして、人を見下すことが向上心や闘争心に繋がっているのかも知れない。自然な感情として人を見下さないことは、とても難しいし、そのような感情を持つことができる人はすばらしい。南無という感じかな。でも他人との競争というものに向いていないのかも知れない。
余談だけど、私達の後ろには理想のバカがいて、その姿にさらに後ろから光が投射され、私たちはそのバカの写し、影絵を見ているに過ぎないんじゃないかな。その写しは、人それぞれにあるということだ。振り返って、その理想のバカを直接みることができればいいんだけど、人はその姿を見ることはできないように前向きに固定されているんだ。もし人が見ることができれば、そこには、自分の姿そのものがあるのかもしれないよ。
 
子A あ~疲れた。
 

信じるということ。

2012-01-08 12:13:23 | 日記
   信じると言えば、宗教を思いつくが、ここで考えるのは、必ずしも宗教や信仰だけではない。
   私たちの行為は、常に信じることによって成立している。逆に言えば、人はある行為を信じているのであって、その行為について根拠とするもの、信じるに足る理由がいつもあるわけではない。
   人のあらゆる行為の根底は、信じることによって成立しているし、そして人と人が理解し、理解しあえないのは、この信じるという行為に拠っている。多くの問題で、意見が相違する、理解し合えないのは、正しいと信じていること、このことが人それぞれに異なるところに原因がある。
   では、正しいということはどういうことか。どこかにある正しいといことを発見することなのか。それとも、正しいということは、どこにもなく対話により合意し決定されるべきものなのか。正しいということについて、どのような意見があっても、最後にはどこかで信じるという行為によって、正しいという考えを選択している。何故正しいと信じるかといえば、最後のところでそう思うからだ。
   論理のステップをいかに積み重ねても、与えられる前提と論理規則自体を信じない限り結論を信じることができない。ある言葉の意味を疑うとき、その疑いに使用する言葉まで疑えば、疑うということ自体ができない。思考するかぎり、言葉をどこかで信じるし、何かを信じることができなければ何も始まるところがない。
   人は、生活の中で、信じるという行為を意識することはない。生活の前提として、生活の背景として、信じるという行為が生活に置かれている。一々に、私は本当に○○なのだろうかと懐疑的生活を送る人は少ないだろう。テレビであれ、新聞であれ、多くの出来事の報道を信じるし、私は、冷蔵庫はいつも故障なく動いていることを信じているわけだ。
   この信じるということは、言葉の意味のとおり、疑うことではない。だが、逆に言えば、疑いが存在するからこそ、信じるという言葉が成立するのであり、世に正しいもの事実しかないとすれば、ただ、事実を表明する行為だけとなり、信じるという行為は成立しない。ところが、世の中は信じることの連続であり、つまり日々の生活は、疑いうる事柄の連続により構成されている。
   人と理解しあえない出来事が生じるのは、この疑いうる事柄が互いの関係で具体の姿をもって現れたということだ。自分が普段に信じるという行為に身を委ねていること。この疑いえることに身を委ねることが、信じるという行為、言い換えれば、疑いえる物事について仮定をするという行為、そしてこの仮定を忘却するという行為(近視眼的に信じるという行為)のプロセスを通じて、仮定が仮定でなく、信じるというそれ自体に価値を持った行為(信仰)へと変化する。
   もともとは仮定に過ぎなかったことが、時として仮定と異なる事実として目の前に示された時に、それがが仮定であったことを、信じるという行為・プロセスによって忘却しているが故に、理解できない出来事が生じたと思い驚く。
   この信じるという行為がなければ、人は行為さえできない。全ての行為は信じることへと帰着するが、この信じるという行為自体に価値を与える時、それは信仰になってしまう。信じる対象に疑いが許されない時、対象である命題(テーマ)が仮定であると考えることができない時、それは言葉による命題(テーマ)の仮設定であること、言葉は物事そのものではないことを忘れる時、その時に信じるは仮定であることから抜け出し、正しいことそのもの(真理)へと昇華し、信仰となる。
   この信じるという行為のプロセスは、要約すると次のとおりである。
   ①命題(テーマ)を仮定する。②仮定であることを忘れる。③命題(テーマ)は正しい。
   この②が、日常で理解できないことが生じた時、自分が驚くことの原因だが、このプロセスは信じるという行為について、信仰に限らず全般に見られること、自分の判断が③だけになっているところに問題がある。①と②の存在自体が、信じるという行為の一環、仮定を忘れることが信じることであれば、それが信じることの本質だとすれば、ある命題(テーマ)信じる限りにおいて、反対意見は誤り、人同士は理解しあえないという結論になる。
   一方、信じるということの本質と危険性が①と②にあることを理解していれば、③の結論は必ずしも成立しない。②から③のプロセスは論理的には直接に帰結しない。②は①と③を繋ぐ推論ではありえない。②は、信じるという行為のプロセスの必要過程、③はその結果に過ぎないと考えれば、その危険性が認識されるし、信じる命題(テーマ)の正しさは、推論されたものでないことが理解できる。
   難しいのは、信じるということについて、人は①と②を認識しつつ実行しなければならないのなら、そもそも、その人は命題(テーマ)自体を信じていない。仮定(命題テーマ)の設定は、例えば誤った命題(テーマ)の設定自体は、背理法が成立するように、信じることそのものではない。信じるとは③だけであるという意見(普通の信じるの意味)が成立することだ。
   ①②③のプロセスは、信じるということのプロセスであって信じることそのものではない。この意見によれば、信じることは③だけであるので、①②が理解できない人、信じるプロセスを見ない人に、その人が信じている対象を信じさせないことは難しい。縁無き衆上は、誰も救えないということになる。
   人と人が理解しあえないのは、この信じるプロセスを見ることなく、又は忘れ、それが信じることの本質、仮定であることを忘却することが信じるであるが故に、理解しあえない。そして信じることに懐疑的(信じることは①に過ぎないと考える者には)であれば、信じるということ自体ができないということだ。
   人が何かを信じ、そして相互に理解可能であろうとするには、信じる行為の中に、仮定を忘却することが必要であり、かつ仮定を忘却していることが信じていることであることを認識する必要がある。この信じるという行為は、生活や社会の基盤であるが、その危険性は認識されていないし、日常にあふれている。そして、日常生活で信じることができなくなれば、その人は自身の価値さえも信じることもできなくなる。
   信じるということは実践されなければならないが、信じられない出来事が起きた時に反省が必要に思う。