日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

金魚

2015-08-30 17:20:42 | 日記
  今日、金魚の朱文金を1匹買った。以前も、子がジョニーと名づけた金魚を飼っていたのだが、15歳くらいだろうか、老衰で1年ほど前に亡くなっていた。
  金魚は、初めさえ上手く慣れてくれれば長生きするので、一度飼い始めると、10年くらいは止められない。それで飼うか、飼うまいか悩んでいたのだ。
  何か、生き物を飼うというのは、金魚であってもいいものだと思う。見て眺めるだけでも気持ちが良い。この小さな命であっても、何か責任を負うことになる。そしてやるべきことが小さいながらできるのだ。
  前の金魚は、子がお祭りで金魚すくいですくってきたものだ。子の成長といっしょに見てきたものだ。
  今度の金魚が長生きすれば、今度は子はどんな風になっているだろう。そして、私も仕事を辞めているころかもしれない。未来のことは分からないのだが、まずはこの金魚を大事に育てよう。

  

普遍論争

2015-08-24 10:51:59 | 日記
  普遍が存在するか、しないか。以前にも書いたのだが、今日は違った視点で考えてみようと思う。
  私が、普段、使ている言葉は存在するだろうか。言葉が存在しなければ、話すことも書くこともできない。ただ、言葉は実在であるかといえば、そうではない。言葉を食べることができないように物理的存在ではない。これは当たり前のことだが、普遍と言う「言葉」が存在するのは、この言葉の上でしかない。というのが唯名論だとすると、
言葉こそが、実在でありリアルだと言う立場が、実在論
  ある意味、言葉こそが実在であるというのは、切迫した人間関係の中に生きていれば、しがらみや、義理の中に生きている人は、言葉こそが実在であると肌身に感じて生きていることだろう。会社での出世や、世間体、そんなものは存在しないと感覚的に感じている人がどれだけいることか。これらは、言葉にすぎず、存在ではないと。世間体や、名誉、誇り、愛国心や、何でもいいのだがこのようなものが存在すると考えるのは、実在論者の立場に近い。
  実在論者も、薔薇のイデアがあってそんなものが実在するなんて思っている人は、ごく少数だろう。ただ、この言葉が愛国主義や、日本という言葉に置き換わると、何らかの存在を認める人が増えてくる。私にとっては、そんなものこそ、唯名論、単語に過ぎんと思うのだが。
  私達が、何が存在するかを考える時、その中には政治性や嗜好性、そのようなものが入ってくるのではないかと思う。純粋に唯名論的立場から、国や天国は存在しないという時、この言葉は、あるメッセージを持つ。そして、このメッセージに反発する人は、これらの実在を大きな声で主張する。そこに「脅威」がある。現実の脅威にどう対処すれば良いか。
  この時、現実の「脅威」といわれるものは、物理的存在であるのか。どういう意味で存在しているのか。その存在を認める政治性と嗜好性、これらを見ないと、現実に存在すると、どういうレベルの現実と言えるのか評価できないだろうと思う。その論者の立場により、存在の意味は変わってしまう。


小さな体験

2015-08-22 11:33:11 | 日記
 最近、休日にすることが多いのが掃除だ。家で気がついたところの汚れを取ってやる。普段の掃除は、嫁さんがしているのだが、どうも四角いところを丸く掃いているので、時々、隅をつつくような掃除が必要なのだ。
  何か、一つだけでも家がきれいになると気持ちが良い。小さなことだが、こういう積み重ねが生活なのだろうと思う。何か、大変なことをしようと考えるよりも、小さな手仕事を一つ、一つこなしていく。それが清潔に繋がるのであればなおさら良い。この手を動かすという仕事、瞑想のような効果があるんじゃないかと思う。
  自転車に乗って出かけるのも、そうなのだが、一つペダルを踏む。そのことに集中する。掃除も同じ、何かそのことをしていると、余計なことは考えない。また、そういう時に考えていることは、何と言うか心が落ち着くような気がする。
  我を忘れて、手作業を行う。そのことに集中する。忘我の時なのだが、これは思考の遂行という意味で私的時間でもなく、また誰かと繋がりがある公共的な時間でもなく、脱時間的な体験のように思う。
  まあ、我を忘れてという体験も少ない気もするが、時折、熱心に作業をしているとそういう風に後で思うことがある。

夏休み

2015-08-21 18:25:14 | 日記
   今年の夏は、家族の休みが合わない。上の子は9月に旅行、下の子は部活に塾に忙しい。毎年、夏休みは旅行に出かけていたのだが、日も合わない上に、金銭的に余裕もないのであきらめることになった。
  残念。
  安倍は、景気がよくなったようなことを言っているが、全くそのような実感はない。というか、自分の給与の上昇よりも、はるかに消費税の増税額の方が大きい。
  好景気の実感ができるのは、賃金が消費税増税率以上に上昇した時だが、そのようなことは今後期待できないだろう。
  今日から、そんなところで夏休みをとっているのだが、旅行に行くあてもなくすることもない。これが一番ぜいたくなのだろうと気休めに考える。朝起きて、昼食にワインを飲んで、しばらくしていると夕方になる。夜は、寝るのが早いので、これといったこともしない。
  毎日は、気がつくと過ぎているだが、何をすればいいのだろうか思うことが多い。世の中の人には熱中することがあるのだが、私には困ったことに熱中するものが何もない。何もはじめないから熱中していないのだろうが、これをしようと思うことがない。もちろん金銭的制約があることも一因ではあるが、どうも冷めてしまう性格らしい。
  まあ、なければないで仕方ないのであるが、そうすると世の中を横から眺めるようなスタンスになってしまうのだろう。



音楽と気晴らし

2015-08-16 17:39:08 | 日記
  ボブ・ジェームスのアルバムをユーチューブで聴いている。学生時代にLPで持っていたのだが。
当、時、はそれなりに人気があったのだが、今はどうなのだろうか。
  休日にすることもなく、音楽を聴いているのはいいものだ。
  人は、何かやることが常に欲しいものだ。何か手持ちぶさたなのが、許せない。その時には、自分の存在がいかに小さいか、このことに直面するからだ。自分自身が何者でもなく、ただこの身ひとつ。色々な虚栄、肩書きそういうものが、ただ1人になると意味をなくすから。
  子の存在は、大きなものだが子もいつかは自分の手からは、離れていく。自分自身の写しではないし、虚栄を満足させる手段でもない。自分は、ただ1人自分であり、子の存在で永続するものではない。
  いつかは、消えいく存在である。このことを感じるのが、恐怖であり寂しさなのだろう。だから人は、1人にならず、誰かと気晴らしをする。自分が存在することを、何らかの役割を担っていることを確認するために。
  多くのことに人は、夢中になり自己を忘れるのだが、このことが幸せと思いなし、夢中であることから目が覚めると幸せを探し始める。それは、ことなる種類の気晴らしでしかない。
  永遠とこの繰り返しを行い、いつかは消えていく存在なのである。
  この消えていく存在であることに耐えられず、人は自分の生きた跡を残そうとあくせくとするのであるが、それも消え去るものである。そのことに、薄々感じるが故に、人は気晴らしへと身を投じるのだ。
  この消えいく存在であること、自分が何者でもないことに、ちっぽけな自分に満足をすることをひとりになる時に気がつかねばならない。