口で言っても分からない者には、体で教えよう。
これが基本的な体罰の考えとしよう。
この考えの根本的な問題は、人を殴ることがいけないことをこの考えでは教えることができないところ。
いくら人を殴ってはいけないと説明しても、人を殴ることを止めない人がいるとしよう。
こんな人を殴るのを止めさせるにはどうすればいいだろうか。
口で説明しても言うことを聞かないから殴って言うことを聞かせると、禁止している物事そのものを自分が犯すことになる。
人を殺してはいけないと言いながら、お前は人をたくさん殺したからという理由で人を殺す。
何かを禁止するために、その物事を用いて禁止をする。
暴力がいけないことは、社会の常識であるが、暴力の発生を未然に防ぐには、一種の抑制された力が必要。これが、警察であったり、軍隊であったりするわけだが、法により抑制された力と考えても、事実的には、暴走することもあるので警察や軍隊が暴力を行使することもある。
体罰も同じ構図にある。
体罰を肯定すれば、暴力が否定されるべきものであることを否定できなくなる。
体罰は暴力ではないと定義する方もおられるであろうが、法に認めれらない力の行使は親、教師でも暴力として評価される。
愛情があれば、暴力が許される論についても、偏愛者の暴力は体罰にはならないのかという問題が生じる。偏愛でない。正しい愛情があれば許されるとしても、では正しい愛情とは何かを決めるのは、当の体罰をする人しかない。
自身が正しい愛情を持っていると確信して人を殴る人に、何を言っても無駄のような気はする。
ここに、暴力が根絶できない構図がある。だれもが、人を殴る時に「自分は正しいことをしている。」と、考えて人を殴る。
体罰、暴行、革命、戦争で殴る人は、殴られる人よりも自分は正しいと信じている。
この殴る人に殴ることがいけないことを教えようとしても、その人を殴ることはできない。
口で説明しなればならない。
「言っても分からない者には、体で教えよう。」という考えを持つ人自身にだ。
この人自身が口で言われても分からない、人は体で叩きこまれないと分からないと主張している当人なのだが、その人の考えのとおりに、その人風に体に教えてやることができない。これでは、永遠に当人は理解することができない。
もはや、どうしようもない気分になるが、それでも口で説明をしてやらなければならない。
力には、人がそれを頼る性質があると思う。力を行使できれば、短期的には自分の意思が達成できる。また力を行使することで、自分を強者として自身が尊敬することができ良い気分になることができる。また、他者も強者に対しては外見上の尊敬を払う。力が強くなれば、より強い力と対抗しなければならなくなる。私は勝ち続けるために、さらに強者とならなくてはならない。
それでいて、この力は私自身の力ではない。私の力と思っていても借り物である。
この力は、代わる者がいれば、あっさりその者の力となり、私はその力を失ってしまう。
社会では、力の行使イコール暴力という理解はしていない。言葉の意味からは、暴力は、ルールの範囲内の力の行使は暴力と呼ばない。力の行使は、競争と言う理解が一般的だと思う。競争に勝つには努力を続け、今の地位を保つためには走り続けるしかない。立ち止まったとたんに皆は走りさり、自分は取り残されてしまう。この競争から抜けた者は怠け者であり、競争から取り残された理由はその者にある。
人は、生活をして行くには、立ち止まることはできない。生活に余裕がない者は、走り続けることを余儀なくされる。
世の中の多くの人は、走り続け、何のために走っているかにも気がつかない。競争から取り残される恐怖がために走り続けている。となりの人が持つ者を持たないことが許せない。
このことに気がつけば、走ることの意味を考える。何を目的に走り続けているのだろう。何のために力を行使しているのか。
力を使うことを目標としていないか。力を使うことは、その先の目標のために使っているはずだ。その目標が何かを忘れていないか。このことに気をつけていれば、力を使うことは目的にはならない。
私は、力を使うことが好きであり、かつ、その力を使って有頂天になっている私を見ている。力を使っている時は、そのことに気がつかないが、後になって有頂天になっている私を見る。
愚かだと思う。何故、力を使うことを喜んでいるのかと問う。その意味を考える。それでも同じことを繰り返している。力を使わずに生きていることはできない。力を使えば当然に反発がある。自分が使った力は、全部自分に返ってくる。
良い暴力と、悪い暴力があるか。暴力とは力に依存することだと思う。社会には規範を強制する力がなければ、社会たりえない。
この強制力が良い方向に向かっているか。悪い方向に向かっているか。社会の規範自体に悪が含まれていれば、社会が認める強制力にも悪があるのではないか。この良い方向、悪い方向は誰にとってか、誰が決めるのか。これは、誰にも教えてもらうものではない。集団の指導者や教祖が、決めたからと言ってこれにそのままに従うことは、暴力に従属しているに過ぎない。何故良いか、悪いかこれは私が判断する他ない。他人に聞いて教えてもらっても、結局はその教えが正しいかどうかを私が判断する必要があるからだ。
この良い方向に向かう暴力は、暴力たりえるのか。言葉の使い方としても既におかしさがあるのだが、私が悪い暴力に対抗するのに使う暴力は、良い暴力と言えるのだろうか。世界には、平和維持活動として国家レベルの喧嘩の仲裁にやはり軍隊を使用し、実際に発砲をする。個人レベルでは、殴られている友人を助けるために、殴っている当人を殴りつけることが許されるのか。
人は、自分の目的達成のために、やはり力の誇示、行使をする。ヤクザはヤクザと分かる格好をしているし、ヤクザでなくても、すごんて見せることはある。これは会社で上司が部下をしかるときも同じである。物の売り買いでも同じ。不公正な取引で顕著だが、力を誇示、行使せずに目的を達成することは難しい。
どのような力の行使も、それが人を強制するもの、それが暴力足りえるという認識が正しいと思う。自分の力の行使が良い暴力であるか否かは、暴力を受ける人にとっては関係がない。やめて欲しいだけだ。暴力を受ける側にとっては、ただ力の誇示と行使の仕方が、強いのか弱いのか程度の差に過ぎない。力の行使が過ぎれば、どのような力の使い方も社会的にも暴力と認められる。身近に言うと、暴力は、お客や上司に張り倒されるか、罵倒されるか、やんわりと怒られるかの違いだ。
良い暴力と、悪い暴力に違いはない。同じ現象を目的を通して良いか悪いかを個々に判断しているに過ぎない。人殺しは暴力だと思うが、死刑の執行や、戦争での殺戮は正当化される。軍隊でも民間人を銃殺すると法に違反するが、飛行機での爆撃では、民間人を目標にしてもこれは法に違反しない。
子供への体罰にしても、愛があれば許されると言う議論があるが、愛の有無は子供には関係がない。愛で殴られる子供は、殴られる度に感謝しなければいけない。愛を主張する人が行う体罰は、自分の優位、大人の優位、腹立たしさを子供に伝えたいだけである。思わず叩いてしまったと言っても、自己満足のために叩いているものと思う。
私は、一度、子の頭を叩いたことがある。世の中には暴力があること、自分の発言が暴力を呼ぶことがあると、実際その時は、子も1回は痛い目に会わないと分からないと考えた。これが愛のある暴力だろうか。私は、この時まさに暴力を振るったと思う。子の力では、それは防ぐこともできなかった。防ぐことができない者への力の行使。この時、叩くかどうか迷ったと思う。叩かずに言葉を使う選択肢もあったように思う。
人は、暴力を振るわずには生活をすることができない。この暴力に良い、悪いを付けるのは自分だが、良い悪いにかかわらず、自分が暴力を行使していることをよく見つめる必要がある。自分が今、暴力を行使している認識がなければ、我を忘れて暴力を振るい続けることとなる。
暴力は何故行使されるのか。社会において暴力は是認されている。
暴力の行使を社会は否定しているが、これが表向きのルールだ。裏向きでは暴力と呼ばずに平然と暴力を行使している。大きな意味での暴力を、より下位のフォルダに分類して暴力と呼ぶフォルダ、別の呼び名をつけたフォルダに振り分けている。
社会では、一定のルールのもとに力を行使することは暴力とは言われない。今、日航の社員が大量の首切りにあっているが、これは暴力とは言われない。首切りは、事業の再構築に必要な行為であって、リストラと表現されている。
リストラに限らず、社会には個人では抗しきれない暴力が存在する。しかも非合法でなく、合法に暴力が行使されることがある。
社会は、暴力を一方で否定しながらも、暴力を行使することによってその規範、求心力を維持する集団だ。どのような暴力が否定され、どのような暴力が容認されるのか。合法的暴力は、集団での意思形成過程がある程度わかるが、合法、非合法の範疇にくくれない暴力、集団での個人の無視については、集団での裏向きのルールに反したことに気がつけない者は、何故暴力が振るわれるのか分かりもしない。この裏向きのルールはボスの気を損ねた。これだけで十分だ。
個人は、社会なしに成立しない。個人の生存の基礎がすでに社会を根底としているからだ。個人が社会の暴力から身を守るには、自分が属しているグループがどのような暴力を容認しているかを判別し、これを事前に予測するしかない。予測可能なものは回避できるだろう。
自分の属するグループでは、個人は自分が行使できる暴力、これをグループ構成員に見せなくてはならない。俺がOKしないと上手くいかないよ。ということを普段から周りの人達に意識させることだ。これが上手な人は意識しなくてもやっているし、暴力だとも感じてもいないだろう。これを下手な人がやるとパワーハラスメントと呼ばれる。本質的に、他人に強制する力、この行使なしに、人々は社会を運営することがでいない。
小さな社会であれ、大きな社会であれ暴力は公認されている。ただ、その暴力の使い方が、合法、非合法か、理性的、反理性的であるかの違いで、暴力と呼ぶか、呼ばないかが生じているに過ぎない。理性的、反理性的にしても多くの事柄は、構成員間の力関係で理性が決定されてしまうことがある。
暴力反対を叫ぶことは簡単だし、誰もこれに異はとなえないが、社会が認める暴力に反対することには勇気がいる。その暴力に反対すれば、自分に矛先が向かうことは、ほとんど確実だ。その社会からの離脱することも考慮しなければできないだろう。
子が尋ねたことだが、喧嘩を止めるのに暴力を行使してよいか。喧嘩を止めた相手が殴りかかってきたら、殴り返していいか。
その時は、冗談まじりに「喧嘩はだめだ。バカヤロー」と言って相手の顔面にパンチをしてやればいいと答えた。
実際に暴力を止める方法は、自分の力が相手に対して優勢であることがはっきり示せなければこちらも暴力を直接行使するしかない。(自分の力を誇示している時点ですでに暴力の存在を肯定しているのだが)
良い暴力、悪い暴力があるのだろうか。