日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

めも

2014-12-29 08:38:53 | 日記
「見えないからこそ美しい」、高校生の頃の国語のテキストにあった評論だ。
  同じ評論を子が読んでいるのだが、先生が類例として百人一首小野小町の顔は後ろ向きになっている。それは、絵がない方が見る人が自分のイメージをそこにおけるからだそうだ。
  そこには、一つの違和感があるので、それをまとめてみた。
  シュレディンガーの猫のように、後ろ向きの女性は、観察するまではどの程度の美人かは確立的存在であって、美人でも、不美人でもない。どちらも並立する存在であるのだが、観察したとたんにどちかに決定されてしまう。
  美という基準自体が文化差や個人差があり、観察したからと言って必ずしも一致した意見になるわけでもないのだが、仮に美という基準自体は差異なく決定が可能としよう。
  そこで、ミロのビーナスの場合は、腕がないから美人なそうだが、発見された元から腕が無いので、腕がないことが前提でいいだろうと思う。
  しかし、小野小町の場合は、歴史上の人物であり顔がないということはない。見ることは叶わないが、観察しようが、しまいが特定の顔が存在するはずだ。それが見ないほうが美しいというわけだ。ここで、見ないことは、当人を見ないことを意味している。想像上の小野小町と、当人を比較しているわけだが、実際に見るわけには行かないので結論はでない。見た方が美しかったということもありえる。自分の想像力を超える美というものの存在は、ありえることだし、芸術はそういうもので構成されているように思う。
  小野小町の場合は、見ることはできないが、現在の人の場合はどうだろう。見ることが出来る人を見えないからこそ美しいと言えるだろうか。
  観察するまでは、想像上の美が最高に美しい段階、一つのイデア論である。そこには、美というものが想像されている必要がある。そのような美の存在が私はイメージできない。
  一方、観察した美、これは美の認識であり、私にも美しいものを認識することはできる。この二つ、前者の美のイデア論は、美そのものの存在、概念上であれ、観念上であれ美人であれば美人のイメージが必要になる。
  後者の場合、認識したものに美を認める。この美は、感覚の側の特性、なんらかの傾向を美と呼んでいる。
  この二つには大きな隔たりがあるように思う。美の実在論と、美の認識論どちらも同じことを対象にしているのだが理解が異なっている。

  

あるとない

2014-12-21 08:28:27 | 子との対話
子がある映画を見に行った。高校生向けの映画なのだが、上映中に話をするようなマナーの悪い客がいた、ということが発端の話。

子 まあ民度が低いそういう人たちは、仲間で何かを持っているから、自分たちと違う人を蔑んでいるし、そうじゃない人たちは民度の低い人を、そういう言葉で蔑んでいるし、お互いに違うから何を言っても分からない。

父 そうだよね。仲間とか友情とか、少年ジャンプみたいなのを持っているんだろうね。そういうものが本当にあるかは分からないけど。

子 友達とかはあるんじゃない。

父 あるかないかは、話のレベルで違うけど、友情というものがあるとしても、その人達の間に本当にあるかは分からないし、友情というものが、あるということも分からない。

子 父さんがないと思っているだけじゃない。

父 ないとは言ってないよ。あると言えるかどうかが分からないと言っているんだよ。あると思っていても実際にはないものというのがあるんじゃないかな。友情というのは例として挙げただけで、勝利とか名誉とか、ありそうだけど本当にあるのかな。そこに懐疑的なだけだよ。
例えば、目の前にコップがあるけど、間違えたグラスだった。グラスがあると思っているのはグラスという概念を持ってるからグラスがあるだけで、食器があると言えば、グラスはそのうちの一つだから、グラスがあるんじゃないくて食器があるということになる。
あるか、ないかは考えてる人の側にあるんじゃないか。そういう意味では、友情があるかないかは、分からないなと思っている。

子 ユニコーンはあるか、ないかどっちだった。

父 ユニコーンはある。という意見もある。ユニコーンという言葉があるからには、その対象がなければならない。

子 いやないだろ。

父 ユニコーンは実在しないけど、ユニコーンという概念がないとユニコーンという言葉が使えないだろ。そういう意味ではユニコーンという言葉が示す概念はある。ユニコーンだとないと思っているだろうけど、赤はあるかな、ないかな、実数はあるけど虚数はない。数もあるのかな。赤なら、赤い物に共通する性質とか何かがあるんじゃないかな。赤い物の集合が赤という考えもあるけど、ではどうやって赤い物を集めればいいんだろう。
何かが、あると言うと、全てがあるとしか言えないのかもしれない。グラスと食器のように、抽象のレベルをあげていくとテーブルの上のもの、家財道具、ここにあるもの、となっていく、最後には全てのものがあるとしか言えなくなってくる。

子 友情がないなら哲学はないね。

父 哲学は空想だから、実在はしないね。

意味

2014-12-06 17:36:50 | 人生の意味

意味が何であるか、意味が何を意味しているのか。仕事の意味や、人生の意味、自分の意味、そして意味の意味。

  何にでも、意味を問いたくなるのが、言語を使う条件となっているのだろうか。会話の意味、言葉の意味を確認する。考える作業が習慣になっている。どんなものにでも、意味があるのだろうと思う。言葉で、何かを考える時、ある対象を考えると、その対象には意味がなければならない。
  人生を考えると、対象である人生には意味がなければならない。「人生」という語の意味を考えるのも、そうであるが、ここでは「自分の」という前提がついてくる。それに意味があるかどうかは、分からないのだが、言葉で考えると意味がなければならない。そういう意味では、語りなのだと思う。「人生」語り、私なら私の語りが、誰かに聞かせたい、自分で自分に聞かせたい語りなのだろう。
  誰も、人生という事実は持っていない。生の事実、出来事、そのようなものはない。現に、今、体験していることでも、私の解釈に基づいた事実、出来事だ。解釈的事実というものを自分自身で、語っているのだ。私に関する事実が、私の語りの上で事実であろうとも、それは語りということに変わりない。
  この語りが、意味であろうと思うのだが、そう考えると、この意味というものは無色透明なものだ。人生の意味や意味の意味であろうが、語ろうとするところが意味であれば、意味という意味は無色でしかない。そのときおりに語られるものだ。