「見えないからこそ美しい」、高校生の頃の国語のテキストにあった評論だ。
そこには、一つの違和感があるので、それをまとめてみた。
シュレディンガーの猫のように、後ろ向きの女性は、観察するまではどの程度の美人かは確立的存在であって、美人でも、不美人でもない。どちらも並立する存在であるのだが、観察したとたんにどちかに決定されてしまう。
美という基準自体が文化差や個人差があり、観察したからと言って必ずしも一致した意見になるわけでもないのだが、仮に美という基準自体は差異なく決定が可能としよう。
そこで、ミロのビーナスの場合は、腕がないから美人なそうだが、発見された元から腕が無いので、腕がないことが前提でいいだろうと思う。
しかし、小野小町の場合は、歴史上の人物であり顔がないということはない。見ることは叶わないが、観察しようが、しまいが特定の顔が存在するはずだ。それが見ないほうが美しいというわけだ。ここで、見ないことは、当人を見ないことを意味している。想像上の小野小町と、当人を比較しているわけだが、実際に見るわけには行かないので結論はでない。見た方が美しかったということもありえる。自分の想像力を超える美というものの存在は、ありえることだし、芸術はそういうもので構成されているように思う。
小野小町の場合は、見ることはできないが、現在の人の場合はどうだろう。見ることが出来る人を見えないからこそ美しいと言えるだろうか。
観察するまでは、想像上の美が最高に美しい段階、一つのイデア論である。そこには、美というものが想像されている必要がある。そのような美の存在が私はイメージできない。
一方、観察した美、これは美の認識であり、私にも美しいものを認識することはできる。この二つ、前者の美のイデア論は、美そのものの存在、概念上であれ、観念上であれ美人であれば美人のイメージが必要になる。
後者の場合、認識したものに美を認める。この美は、感覚の側の特性、なんらかの傾向を美と呼んでいる。
この二つには大きな隔たりがあるように思う。美の実在論と、美の認識論どちらも同じことを対象にしているのだが理解が異なっている。