日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

雑兵の人生

2020-05-26 07:44:11 | 人生の意味
    漫画のキングダムが好きなのだが、そこでは、主人公を除いては、雑兵は将軍に絶対勝てない。将軍を倒すには将軍でなくてはならない。毎回、つまらなく斬られる人が出てくる。これは時代劇でもそうなのだが、シーンの背景として多くの人が死んでいる。
 映画のプライベートライアンでも、機関銃であっと言う間に人が倒れていた。何の活躍もなく、確率的な数字合わせの為に死んだようなものだ。そのおかげで撃たれずに済んだ人もいるんだろうが。
   雑兵扱いの死に方、多くの人はそういう風に死ぬ。背景として死んでいく。
   雑兵にも生まれてから、子供時代、成人して多くの嫌な出来事、良い出来事、その人の人生そういうものがあった。その事は、誰も記憶せず、その人が消えるとともに消え去っていく。描かれることもなく、人々の背景として生きて来て、知らず消えていく。そして、忘れられる。
   私自身が、そういう者なのだ。
   漫画の主人公のように何か世に聞こえるような人は、意味がある人生だったように見える。そうでなく死んでいく人の方が多いのだが、そのような人の人生は、どんな意味があったのだろうか。
   誰かに褒められるのは、気持ちが良いものだが、逆に貶されるのは気分が悪い。自分の人生を、自分が死んでから他人から褒められても貶されても意味はない、意味を持つのは残された家族くらいだろう。他人の人生を褒めたり、貶したりする人も、同じように人から評価されることになるだろう。
    褒められる人生が良いのかと言えば、責任を負わない他人が何を言おうと、当人の人生の価値が決まるものではない。
    聖書に出てくるユダは、生まれて来ない方が良かったと言われるが、イエスが処刑されキリストと呼ばれる事になるのが予め決まった出来事なら、ユダが裏切る事も予め決まった出来事だ。
    ユダの人生は褒められることはないが、意味はあるし、彼にも少年時代があり、両親や関係した人、様々な出来事があったのだろうと思う。
    イエスとユダの人生の価値は、神学的に大きな違いがあると思うが、人の側面で見ると、どちらもそれぞれに、人であり、自分であり、その生を生きて死んだ。
    雑兵のように背景として死んでいく人々にも、それぞれ家族がありそれぞれの人生を持って死んでいく。
 人生の意味や価値というものが存在するのか。意味や価値は人が付与するものだが、死んでいく当人は自分が生きた生に、生きている間に意味や価値を付与できれば
その人は幸せな人だろう。死んだ後で、自分で人生の意味や価値を自分の人生に付与することはできない。
 こう普遍的な人生の意味とかを問うても、そんなものは存在しない。個人それぞれが自分にどのように満足するか。日々の生活に人生の意味があるのであろう。
 
    
   
    

時間と人生

2018-06-07 06:52:47 | 人生の意味

  時間には、未来や過去は存在せず、現在しかない。時間を2次元の線のように長さがあるものと捉えるのは、空間的な把握しかできない、比喩的把握であるが、実在のように考えるところに誤りがある。時間には、以前や、以後もなければ、現在しかない。そのとおりなのだが、人生という単語が存在するように、実在しない時間と言うものを抽象的存在として捉えるのは、人間のあり方だろうと思う。過去や未来は存在しないが、ある意味、人生は存在するのだと思う。私のこれまでの人生は、私の語りによってそういうものがあったのだと、語りのレベルでは存在すると言えるだろう。

  実在と語りのレベルを切り分けることは、かなり難しい、何が実在かと言えば、それも実在をどう語るかということになる。現在しか存在しないところから、人生という全般を見渡すということについての意味がないということ、未来も過去もないのだから、人生もない。そこに、人生に何か意味を見出すのは、個人の語り次第。
  現在を生きる上で、人生が何かを比ゆ的ではあるが、人生を長さを持つ一つの線のように考えた時に、何か意味があるのだろう。という素朴な、気持ち、人生と言う目的、この目的を規定する上位の目的、そういうものがあればいいなと思う気持ち。それは、結局のところ解消していないと思う。
  人生に、人類一般に通用する普遍的な意味はない、あるとすれば信仰にすがるしかなく、あとは個人レベルで個人の人生に意味づけを自由にして下さい。そういうことになるのだろう。
  先ほど、ニュースにあったのだが、5歳の女の子が「どうか許してください」とノートに書いて衰弱死した。人生に何の意味があるのだろうか。そう思うと、悲しみしかないのだろうかと思う。その子にも僅かでも、幸せな時があっただろうと思うが、その記憶はなくなっていただろうと思う。
  客観的な意味では、人生は意味はないのだろうと思う。ただ生まれ、ただ死ぬ。それがあまりに短いと不幸を思い、長ければ幸せがあったのだろうと思う。それも、その人を思う人が思うだけ。それ以上の何かを求めると、個人が何か自分の人生にこうだったと自分で語るしかないのだろう。
  人生の意味は、そういう点で主観的なものなのだろう。
  

自殺が悪であると考えること、人生に意味がないと考えること

2018-05-26 10:02:01 | 人生の意味
自殺は、悪いことだと考えている。そのことは、以前の記事に書いたとおり。その論旨は、生命の本質である生きることを否定する行為は、悪。いたずらに、自身や他の生命の存続を目的とせずに生き物を殺す行為は、忌避されていること。直感的に嫌悪感のある行為であること。悪は、人の価値観によるものであるので人の直感による忌避、嫌悪は、それ以上の理由を必要としないこと。
  一方で、「人生に意味はあるか」と尋ねられた場合には、私は、「人生に客観的な意味はない」、そういう答えを持っている。主観的に、自分の人生にどんな意味づけをするかは、人それぞれなので、そういう意味では、人生の意味は、人それぞれが決めることと思う。それ以上の客観的な人生の意味、人生と言われるものの普遍的な意味があるかと言えば、それはないだろうと思う。
  客観的、普遍的な人生の意味が存在しないのは、人生を横から眺める視点。そういう者は存在しない。少なくとも、自分ではないし、人の立場ではない。人生は、その中を生きるのであって、外に立つことができるものではない。それ故に、人生に客観的な意味を持たすことなどできない。
  神のプログラムとして、神の目的達成のための手段として人の生が、人それぞれに用意されているのであれば、人生には客観的意味が用意されていることになる。その意味は、人には神の栄光という以上の意味は理解できないであろうが。
  人生の意味を、客観的に捉えるには、それに見合ったスケール、定規が必要なのだ。この定規は、人生を測ることができるのだから、人生を盤上に乗せることができるようなものでなくてはならない。このようなものは、私の人生には存在しない。
  前置きが長くなったが、自殺が悪であると考えることと、人生に意味がないと考えることはどのように折り合うことができるのだろう。人生に客観的意味がないのであれば、自殺が悪だと客観的には言えないのではないだろうか。
  客観的な意味のない人生に自ら終りを告げる行為は自殺なのだが、そうであれば、客観的には自殺という行為にも意味はないということにならないだろうか。
  自殺に意味がないのであれば、悪たりえないのではないかと思う。一方で、自殺は生命の前提を否定する行為、無目的な殺し自体が直感的な悪と考えると、無目的という点では悪になる。
  ただ、そこには神のような客観的な視点ではなく、人の主観的な、直感による悪、主観的な視点ではあるが、多くの人に共感する直感、多くの人々の間で共通した主観性が担保できるであろう点では、間主観的な意味がある。
  「客観的に人生に意味がない」と言う際の客観性と、「客観的に自殺は悪だ」という際の客観性の違いには、客観的という語の意味が異なるのであろう。人生に意味がないという考えは、神の視点にたって客観性を考えているのだが、自殺は悪だという主張の客観性は、主観に基づく価値、その価値に基礎をおいた客観性であり、神の視点ではない。人の価値観という普遍性を利用した客観性の主張になるだろう。
  そう考えると、自殺は、神の視点による客観性から考えると、悪でもないということになるのかと思う。この場合の神は、個別の人に関心なく、悪や善というような価値も持たない客観的存在ということになるだろう。
  また、自殺は、善か悪かという問いは成立するが、人生は善か悪かという問いは成立しない。人生は、自殺のように、善悪を問うような行為ではないのだろう。行為の集合体が人生なのであろうが、それを善悪問うことは、最後の審判になる。そこで問われているのでは個別的な人生であって、普遍的な人生そのものではない。
  自殺が悪だという主張は、主観性の強い主張だ。客観的視点からは、そもそも悪という概念自体が客観的でない概念で、初めから価値観に基づく主観性の強い概念なのだ。
  人生に意味がないと考える時、その時、自殺を考えるのだろうと思う。人生には客観的に意味がない上に、主観的にも、「人生に意味がない」と考えると、そこに自殺が入る余地が生まれるのだろうと思う。客観的には悪いことはないと。
  再度考えるのだが、人生には、客観的に意味がないのだろうか。生きるという行為自体に意味がある。ここにいう意味は価値ということだが。何よりも、生きるということ。生存それ自体が価値ではないか。
  「客観的に、生きることに価値があるか」と訊かれると、「価値」を問うということ自体が、善悪を測る、尋ねる行為だと。価値を問うという行為に対しては、「「客観的に」価値を測る定規」は、人なのだと。
  意味や価値を問うということが極めて人間的行為なのだが、そこで、何度も問いを繰り返すうちに、人は虚無にたどり着くのだろうと思う。意味の意味をいくら尋ねても、その意味をさらに尋ねることができる。最終的には、そんな行為には意味がない。となり、虚無にたどり着くのではないかと思う。
  ネーゲルは、人生に意味がなくても、人はアイロニーを持って生きることができると主張している。このアイロニーの意味は図りかねるのだが、客観的な意味はなくとも、それを知りながら、四苦八苦しながらも人生を楽しむことも出来る、そこに客観的な意味がないと結論しながら。
  こういうところでは、人は、アイロニーな存在なのだろうと思う。
 
 
  
 
 
 

 

自殺は悪いこと?

2018-05-12 06:52:41 | 人生の意味
子  自殺は悪いことと言える?
父  それは、言えると思うよ。人を殺すことは、悪いことでしょう。死それ自体は、人にとって基本的に悪いことだ。誰もが避けることができるのなら避けたいと思うだろう。生に満足した後に死ぬことがあればそれは、悪いことではないかもしれない。ただ、それも期待した人生を送った後での話しでしかない。長寿の上の大往生であれば、それは死も悪いことでないのかもしれない。死は、生命に基本的に組み込まれた出来事である以上、受け入れる必要もあるのだろう。ただ、それを肯定的に認めるのは、その生に何らかの意味を見出すことができるからだ。そこに意味を見出すことが出来ず、絶望して死ぬことは肯定的に認めることの反対だ。
  生まれる前の状態が悪いことでなければ、死ぬことも悪いことでないという人もいるが、生まれる前は喪失ではない。死は一つの可能性の消失、喪失なのだ。だから、人は子供の死のような早すぎる死、突然の事故死、このようなものを喪失と考える。まだ、生まれていない命は喪失ではない。自殺は、人の可能性を途絶する死なので悪いことだ。自殺が、不幸な出来事であることを否定する人は少ないだろうと思う。不幸な出来事は、悪いことであり、それを招く行為は悪い行為だろう。
  眼の前に、避け得ない死が迫っている状況での自殺、自決と言われるような行為や、医師が患者の痛みを取り除くために麻薬を投与する際に死期がいくばくか早まるとか、延命治療を望まないということは、そこには選択の余地がない避け得ない死が前提になっている。ここで、それを議論とすると安楽死の是非を問うような話になるので、今話す自殺とは切り離して考えた方がいいと思う。
 
子  自殺に追い込まれた人は、そうせざるを得ない環境があったから、選ぶことができなくなっているだと思う。そういう状況で、死んだ人を悪いと言うことはできないんじゃない。
父  精神的に追い込まれて正常な判断が出来ないということは、そうだと思う。ただ、正常な判断ができない状況下での行為だとしても、正常な意識の有無にかかわらず、結果的に行った行為が間違った行為となることはあるだろう。一般に、心神喪失下で起こした殺人は、責任能力がないことをもって無罪になるけど、殺人が悪くないということではない。責任を当人に問えないということでしかない。その点で、正常な判断能力を失った人を責めることは酷だと思う。
  私は自殺した人が悪いと言っているわけではない。その人の人格が悪いということでなく、その行為が悪いと言っている。自殺した人の尊厳を守るために、自殺は悪いことではないと考えてしまうのは、そこに論点のすり替えが起きている。自殺が何故悪いという問いは、自殺という行為についての問いであって、自殺した人が何故悪いという問いではない。行為と、人は切り離して考えるべきだろうと思う。自殺という行為は悪いことだが、それを行った人が悪いということはではない。死者を批難すべきではないと感情はあるし、そうだと思う。最後に行った行為が悪い行為であったとしても、生前には良い行為を行ったであろうし、悪い行為も行っただろうと思う。人は、良い行為、悪い行為を双方を常に行いながら生きているのだと思う。最後に、不幸な巡り会わせで悪い行為の順番が来たのだけど、だからといってその人の全てが否定されるわけではない。その人を評価するのであれば、全体の生を見て評価すべきだろうと思う。だから、その人の行為の一部をもって、その人を評価するのは不当だと思う。ただ、その人を肯定するために、その人の行為の全てを肯定する必要はない。人は誰もが、善悪双方の評価を受ける行為しかできないから。良い行為しかしていない人は存在しないと思う。
  もう一つ思うのは、自殺した人と、自殺を踏みとどまった人の違いはどこにあるのだろうか。その人にとって自殺は必然なのだろうか。自殺に追い込まれた人にとって、死を選択したことは必然だったのだろうか。ほんのわずかな、環境の違い、例えば、窓の外を見た時に虹が出ていたとか、そんな劇的なことがなくても、ほんの少しの思いなし、脳内の思考の動きで、死を選択しないこともできたのではないだろうか。
  積極的に自殺が悪いことでないという人は、自殺をする自由、そのような権利的なものを主張する人もいるだろう。この場合での自殺は、正常な判断能力のもとでの判断での自由を意味しているのだと思う。そうでなければ、自由と言えないだろうから。こういう主張のもとの自殺では、自殺した人は自由意志で死を選んだことになる。自由意志での死は、死を選ばないこともできたのだろうと思う。パラレルワールドAという世界のA氏は死を選択したが、A’の世界でのA’氏は、そこで死を選ばず踏みとどまることができた。あらゆる可能な世界においてA氏は死ななくてはならない、そうであれば、必然と言えるだろう。この場合は、自由意志は否定されるのだろうと思う。自殺の場合は、A氏は死ななくてはならない。環境から必然性があるとまで言えるのだろうか。
 
子  自殺を選んだ人は、死を選んだんだから他に選択はなかったんじゃないの。
父  今から、じゃんけんのグーを出すか、チョキを出すか、君は選ぶことができるかい。
子  それを選ぶことはできるよ。
父  では、今、チョキをだしたとしよう。 さあ君は、チョキを既に出した後に、「私はグーを出すこともできた。」と言う。それとも、今となっては「チョキしかだせなかった」と言う。私は、君はグーを出すこともできたと信じているんだよ。この会話を始めた時から、既にチョキを出すことは因果的に必然的に定まっていたのかもしれない。君の脳の思考回路からすれば、私がこういう発言をした時点で、チョキを選択することは必然的だったのかもしれない。こう考えることもできる。ただ、私は選択するまで、実行するまでは定まっていない、確率的にどちらにも成りえたと考えているんだよ。グーが生であって、チョキが死であったとして、どちらを選択することができたか、選択の後になって可能性を考える時、それが必然か否かは、自由意志の考え方に帰着するのだろうと思う。
  自殺した人のまわりの一言がほんの少し違えば、朝出かけるときにほんの一言違う言葉をかけてあげることができれば、ほんのわずかな違いで踏みとどまることができたのではないか、私はそういう可能性を考える。そうでなければ、自殺という結果から、それを一つ一つ過去に遡って出来事の連続を追いかけていくと、どの出来事も必ず起こらなければならなかった必然、突き詰めて行くと、その人が生まれた時からの連続した出来事の全てが、今の結果につながっている。因果関係を強く考えていくと起きた出来事の全ては必然であり、それはその人の生まれる前の歴史も含めてそう考えざるをえないようになる。そうすると、人には自由などなかったということになる。
 
子  自殺は悪いこと、悪いことは、悪い。という説明だけど、どうしても悪いことは悪いと説明されても納得できないんだけど。
父  人を殺すことは悪いこと。生命は、生きることを目的として存在している。生命の定義のようなものだ。それを否定する行為は、生命の目的に反している。だから生き物を殺すことは否定される。トマス・ネーゲルという哲学者が言っているのだけど、生き物を殺すことを肯定できるのは、自らが生きることを理由として殺す。この時にのみ肯定ができる。戦争のような環境においてさえ、そうだ。兵士と兵士は、面と向かって互いを殺す力を持っているから相手方を殺すことが正当化される。降伏した無抵抗な敵を殺すことは、兵士であっても禁止されている。それは命を殺すことそれ自体がはじめに禁止されているからだ。相手を殺すことが許されているのは、自らの生存を賭けているからだ。そこに生きることが前提されているからこそ相手方の命を奪うことを正当化しているのだ。
  だから、対抗する力がない人を、一方的に人を殺すことは、殺戮であり、生き物の原則、生きるという目的を奪う行為であり悪いことだ。
  命を奪うことは暴力だ。その暴力は悪い。この暴力が正当化されるのは、生存をかけて人が戦う時だけだ。自殺は、他人でなくその暴力が自己に向かっているのだが、そこに生存をかけるという事実はない。単に暴力であるだけだ。だから、暴力は悪い。それは他人に向かってなく、自己に向かっていてもだ。人は、生命である以上、生きることが目的だ。それを奪う行為は、自己に向かおうが悪い。
  「風の谷のナウシカ」に出てくるセリフなんだけどナウシカは、「私達は血を吐きつつ、繰り返し繰り返しその朝を越えて飛ぶ鳥だ。」と言う。血を吐きながら飛ぶことに価値、生きるという行為があるのだと思う。それを否定する行為は悪い。
  悪いということは、一つの倫理的判断だ。死が悪くないと考えると、生も悪くない。地上には生命が満ちているが、その生命も物理的には素粒子の雲のような集まりに過ぎない。物理的な観点、人の主観のようなものがない純粋に客観的な観点があるとすれば、その物理的な世界にはなにも価値のあるものはないのだろう。ただ、広漠とした空間に素粒子が浮遊しているだけだろう。時空間と言うような視点すらないのかもしれない。そういう視点から、それは死は悪いことでも何でもないのだろう。ただ、これは悪いとか、そういう言葉を使う世界ではない。そもそも人の言葉で表現できる世界ではない。悪いということは、初めから人の主観に基づいた言葉なのだ。そこには倫理的判断そのものが入っている。悪いということは、一つの直感でもあると思う。そこに客観的根拠、物理学的な説明は与えることはできないのだろうと思う。だから悪いことは悪い。これが理解できないのは、悪いという言葉の性質が理解できていないのだろうと思う。
  言語的な面から言えば、悪いことが、何故悪いか、悪いことは禁止されていることをだから、言葉の意味自体にそれが含まれている。やってはいけないから悪いことなのであって、悪いことだからやってはいけない。他の言葉に置き換えることもできるだろうが、結局はトートロジー(同語反復)に帰ってくる。だから、悪いことは悪い。
  自殺が悪いという本質とは違うけど、自殺は残された者みなを傷つける。自分が大切にしている人を傷つける。それも、残された者は、傷つけたことに対して抗議することもできない。このこともよく考える必要がある。
  抗議のために、自殺する人もいるが抗議の声は、届くべき人には届かない。その人を愛する人が傷つくだけの結果になる。愛する人を失くした人は、自殺は悪いことではないと考えたくなるかもしれない。自由意志のもとに、正当に死を選んだと。そうすると、そう考える人自身も自殺を選ぶ傾向性が生じるだろう。そういうところで、連鎖が生じる。そのことも波及的な効果だが、悪い結果に繋がっていると言えると思う。この波及した結果について、死者に問うこともできないのだが。
 
参考
上記の一部は、トマス・ネーゲルの論文集「こうもりであるとはどのようなことか」に納められた論文(死、戦争と大量虐殺、その他)を参照した意見です。もちろん、上記はネーゲルの考えを正確に伝えているものでもありません。

意味は存在するのか

2017-05-28 08:18:05 | 人生の意味
意味は存在するのか。抽象概念は存在するのだろうか。世界に存在するのは、個々の物だけ、人が考える思考の結果、概念のように抽象的なものは存在しない。そのように考えるのは、いわゆる唯物論だが、そうすると、意味というものも存在しなくなる。
  意味という個物は存在しない。意味が存在しないのであれば、あらゆる個物についての意味も存在しない。そうすると、人間が存在する意味や、人それぞれが存在する意味も存在しない。人に意味がないのであれば、人生の意味というものも存在しない。
  私は生きる意味というか、自分がいる意味とかを考えることがあるが、そういうことには本当は意味がない。意味は実在ではないのだから。
  そういう意味で、人は生きることに色んな意味を持たしたり、考えたりすることもできるのだが、そういうものはフィクション。創作でしかないのだろう。宗教はそういう意味では壮大な創作物だし、創作物が人間を作ったというところまで信じる立場になる。
  こういう立場、創作を信じる立場であれば、意味を信じることが必要になる。当然に唯物論は受け入れることはできないだろう。ここで、宗教と唯物論は相性が悪い。
  世の中に、本当に存在するのは物だけだとすると、そこに色んな意味を詰め込んでいる人は、創作者、創造者なのだろうが、社会的に意味を創造したのが人で、物の側に意味などないということを忘れてしまう。
  物の側にないはずの意味を認め、人生の意味や社会的な構造、システムにも意味を認めているのだが、そこに意味を詰め込んだのは人であることを忘れ、それが意味だと、意味の方の実在、存在を疑うことを知らずに過ごしてしまう。社会の側から、社会、システムに本当は意味が存在しないという不都合を言うことはないから。むしろ、不都合であることも考えもせずに初めから意味を盲信している。
  物事の意味の存在を信じる人は、意味の世界、意味が織り成す構造、マトリックスの方が実在、リアリティを持ってくる。実在の姿を観察する人は、そこに意味の連関、因果関係を見て実在を理解しようとするのだから、意味も存在すると考えるのも自然のことだ。
  人から見た意味の連関、意味の織物は、実は存在しない、人の語り、創作だということを思い起こすと、世の中は、空になるのだろうと思う。人の思考が織り成した意味の連関は実は、空でしかないだろうと思う。
  世の中、世界の側に意味があると、意味の実在を信じる人は、抽象概念の存在を信じるしかないだろう。唯物論を信奉していることはできない。
  赤色や、薔薇、もっと言えば赤色性、薔薇性のような性質の存在を認めるのでなければ、つまるところは唯物論に行き着くのでないかと思う。