日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

もったいないと思うこと。

2019-01-27 07:32:38 | 日記
  物に対して、執着は無いと思っていたのだが、20年来の車を手放そうかどうか、とても考えこんでしまった。もったいない。そういう心情が正しいのかどうか分からない。機械だけど、苦楽を共にした記憶を捨てるそういう気持ちになる。
  新しい物が欲しい訳ではない。ただ、これまでの日常を変えるそのことに抵抗があるのだと思う。毎日は、同じことの繰り返しだが、少しずつ、全てが老化の方向にある。これは、物についての普遍的な宿命なのだろう。いつかは、何かを失くし、代わりが要るのであれば、それがとって変わる。
  シジフォスの神話のように、毎日、仕事を終え、1日が終わり、また明日が来る。それは繰り返しなのだが、少しずつ滅びへと向かっている。生き物であれば、生まれた時から、そうなのだから、今さら特別のことではないのだが、様々なものといつか別れがある。それがいつなのかははっきりとは分からない。
  毎日に、死があり、様々な物と、別れることを覚悟する。頭でそう思っても、実際に車一つで、その覚悟がないことが分かる。
  物に執着し、それを手放すとき、そこに悲しみを見る。それが、悲しみの原因と知っても、その物を簡単に捨てることよりも、その悲しみも受け入れる。そういうことも、大切なのだと思う。
  執着の原因を捨てる。それも一つの方法、執着を受け入れて、悲しみも受け入れる。私がある限り執着はなくならない。私、そのものが執着だろう。私という意識、そこにこそ、執着があるのだろう。私と、あなた、そこには、完全な断絶があり、私という意識は、私の思考の基底を成している。
  私という経験の集大成、その経験からの判断、そこには限界があることを、客観性の視点からの私を見、主観を見直す。
  執着も受け入れて、そういうことが必要なのだろう。
  

クリシュナムルティ感想6

2019-01-04 18:07:28 | 日記
    クリシュナムルティの教えは、徹底して自分を観察しろ。そして自分で考えろ。というところにあると思う。そのため、楽に、他人に教えを聞いて、何故それが正しいの考えることなく、知っているという人の意見、それを批判なく実行したい、という人には、向いていない。これを信じれば救われるという事は、自分の教えを含めて一切ない。むしろ、そのような教えから眼を覚ますことが、教え、彼が言いたいことだ。
  人は、喜び、優越、偉大さ、そのような幸せという感覚、それに名前をつけて、それを再体験、何度も継続して、それを味わうために、その継続性の確保のために必死に努力をする。色んなことで頭を悩ますのも、この再体験のため、いつでもどこでも優越を感じるために、色んなものを手にいれようとする。又は、手放さないようにする。
  この手に入れる、手放さないことが、恐怖や、怒り、ねたみ、色んな感情を生み出す。元は、幸せだったはずなのに。
  私達は、失敗、劣等感、そういうものへの心理的な恐怖から、努力しているように思うのだが、実は、その努力、これをしたのに、希望のものが入手できない。そういう事態がまた恐怖を生み出す。努力、そのものが、新たに恐怖を生み出している。
  恐怖を失くす努力が、恐怖を起こしている。
  比較、優越、劣等感、再現性、継続性、そういうものに私達は、愛着をもっている。体、心に染み付いていると言えよう。
  これらのことを、ただ比較を止めるだけで、恐怖を止めることができる。比較への愛着、それを止め得たら、真理的な、恐怖と名づけているものの多くは止むだろう。
  それは、明日でなく、今、止めなければならない。それを止めることができるだろうか。努力する。そうすると、それは明日になり、いつか止めることができるようになると思う。その構図は、出来ない。今が明日になることを理解すれば、今でなければ止まないだろう。
  そのことまでは分かる。
  今、止めたと思う。その今は、ある一つの日時を指すのではない。それは毎、次々の瞬間に止めなければならない。
  ただ、私は、ここまで分かっても、次々の瞬間に比較をしている。その思考を愛しているかのように、この思考パターンが定着している。そのことに気がついた時に、また、元に戻っていると思い。本当に、こんなことができるのだろうかと疑いを持つ。
  20年ほど前に、このように思い、あきらめていた。もう一度、頑張って、比較しないことを努力しよう。そうすると、そこには努力、時間、今でなくいつかできるようになろうというパターンがしのび込んで来る。これでは、又、スタートに、循環に戻っているのだ。
  だから、今に、止める。変わるしかないのだが。。。。
  それも、仕方ないことと、諦めを持つ。この諦めは、人は変わらないという諦観だ。
  これが、20年前に、私が考えた、感じたことだろうと思う。
  それを、今、改めて考えている。
  



クリシュナムルティ感想5

2019-01-01 08:46:31 | 日記
  今日は、元旦だが、昨年から続けているクリシュナムルティについてまとめを書いておこう。内容的には、彼が言っていると勝手に私が思っていること、を書いているので、相違が多く、誤解も多いだろうと思う。
  彼は、人は自由になるべきだと言う。この自由は、他人に配慮なく自分が好きなことをする自由ではない。人を条件付けるものからの自由、そういう自由を持つように言う。
  人は、自由意志で行為をしていると一般に考えられているが、事実はそうでもない。人の行為や、考え、思考を条件付けるのは、伝統、宗教、愛国心、政治的イデオロギー、部族主義、等々。何らかの伝統や主義、信念に従って考えている。
  また、人は、不安におびえ、恐怖を受容して暮らしている。仕事を失う恐怖や、もっと根源的には、自分がなりたいものになれない、ひとかどの人物たりえないことの恐怖、誰かと比較して、自分が劣っている。勝っている。   常に、あるべき偉大な自分と、現実のそうでない自分、金銭的、社会的、精神的に。そういうものと比較をしている自分。ここに自由があるだろうか。
  恐怖や不安、比較、そういうものが人を大きく縛っており、そのもとに思考をしている。今の自分と比較して、明日は自分は暴力的にならないようにしよう。人にやさしくしようとか。今、暴力的な人間が明日非暴力になることはないにも関わらず。
  これらは、現にそこにある恐怖、狂犬が目の前にいるような。そういう事実としての恐怖ではない。恐怖している時は、そこに恐怖と名づける時間はない。恐怖して、それを恐怖と名づけた後に、事実と別に、心理的な恐怖が、事実を対象とした記号、言語化した恐怖が継続する。もう、そういう目に会わない様にしよう。
  この心理的に継続する恐怖は、事実として恐怖ではない。事実としての恐怖、そこに狂犬がいれば、毛が逆立つような感覚を得るだろう。それが恐怖、驚いている瞬間は叫び声はあげても、驚いたというのはその後、それは否定しない。事実としての恐怖には対処がある。
  一方で、心理的な継続した恐怖は、思考が生み出したもの。そこには、比較があるのだろう。あるがままの事実と、こうでありたい、こうであってほしいこと。その差異が恐怖を継続して生み出している。
  事実をあるがままに、見るだけでは、そこに恐怖はない。その事実が、自分の信念や理想と違う時に、恐怖がうまれる。そして、その恐怖から、暴力が生まれる。
  心理的に、恐怖していると自分が考える時、そこに何があるのか、それを見よう。比較している自分は、比較されている自分と同じだ。比較されている自分が卑小であれば、そうであってはならないと思っている自分は、事実、そのまま卑小であること、それが他人ではない自分自身。そういう構造を、そのまま観察しよう。
  事実をそのまま、比較なく見ることができる時、その時に、伝統、宗教、愛国心、信念、恐怖や不安、そういうものから離れることができる。
  そこにあるのが、自由。だと思う。