物に対して、執着は無いと思っていたのだが、20年来の車を手放そうかどうか、とても考えこんでしまった。もったいない。そういう心情が正しいのかどうか分からない。機械だけど、苦楽を共にした記憶を捨てるそういう気持ちになる。
新しい物が欲しい訳ではない。ただ、これまでの日常を変えるそのことに抵抗があるのだと思う。毎日は、同じことの繰り返しだが、少しずつ、全てが老化の方向にある。これは、物についての普遍的な宿命なのだろう。いつかは、何かを失くし、代わりが要るのであれば、それがとって変わる。
シジフォスの神話のように、毎日、仕事を終え、1日が終わり、また明日が来る。それは繰り返しなのだが、少しずつ滅びへと向かっている。生き物であれば、生まれた時から、そうなのだから、今さら特別のことではないのだが、様々なものといつか別れがある。それがいつなのかははっきりとは分からない。
毎日に、死があり、様々な物と、別れることを覚悟する。頭でそう思っても、実際に車一つで、その覚悟がないことが分かる。
物に執着し、それを手放すとき、そこに悲しみを見る。それが、悲しみの原因と知っても、その物を簡単に捨てることよりも、その悲しみも受け入れる。そういうことも、大切なのだと思う。
執着の原因を捨てる。それも一つの方法、執着を受け入れて、悲しみも受け入れる。私がある限り執着はなくならない。私、そのものが執着だろう。私という意識、そこにこそ、執着があるのだろう。私と、あなた、そこには、完全な断絶があり、私という意識は、私の思考の基底を成している。
私という経験の集大成、その経験からの判断、そこには限界があることを、客観性の視点からの私を見、主観を見直す。
執着も受け入れて、そういうことが必要なのだろう。