毎日、生きているのだが、いつも今しかない。日々に、日は暮れて、新しい日になるのだが、それでも、毎日が今なのだ。これを何十年と繰り返して、今、この歳になっている。
後、何年かで子が大学を卒業して、後、何年かで仕事を卒業して、とか考える。何年後とか考えているけど、いつも今しかない。でも、その何年後かは、結局やってきて、その時には今になる。
仕事に行って、早く5時にならんかなと思って、その時はやってきて今になる。
私には、今しかないのだが、その今は、将来のことを考えて過ごし、過去を思い出したりして過ごしている。
今しかないのだが、その今は次々と違う今となっている。違う今という表現をしたが、今自体は、常に今なのだろう。今の私の環境、状態が変化しているだけで、今というものが変わっているわけでもない。
この変化は何なんだろうと思う。私が子供だった頃、その時も常に「今」だったわけだが、その今は、過ぎ去って、今でなくなり、残された記憶しかない。
そう思うと、自分が居なくなる今も予想できるわけだが、そういうものも必ず「今」になる。常に今しかないのに、新しい今がやってくる。
ある意味、今は、常に消し飛んでいっている。異なる場面へと移りすぎていく。映画のフィルムのコマが再生される度に次々に消し飛んでいくそういう気分がするのだが。
この次々と消え去るリアルな映画の中に生きているだろうか、自分が居なくなる時というのは、フィルムの最後のコマが終わるときなのだろうか。
こう連続する今を考えると、子供の頃から今まで、連続したフィルムができるわけだが、そうすると私は、何一つとして、違うことはできなかったのだろうと思う。一つとして、違っていれば今は存在しないというか、今現在のこの環境はないだろうと思う。違っていればと考えても、私には、今から一つとして変えようがないことしか、過去にはない。
考えると、私には、色んな選択肢があったように思うのだが、今、という視点に立ち過去を見ると、今に至る選択肢は他にない。未来、これからを見ると選択肢があるように思うのだが、常に今に立ち、選択をしているのだが、その選択も、後から見るとこれしかないということになる。
最終的に、私が居なくなる時、私が過去を振り返ると、これしかないという道筋というか、選択肢の連続ができているのだろうと思う。どのような選択をしていこうと、最終的には「これ」しかなくなるわけだ。
その時に、ああしていれば、こうしていればと考えても、変わらない。こうするしかなかった、もしくはこうなることしかなかったということになる。
変わらない過去を受け止めて、今を過ごすしかないのだろう。そういう意味では、選択肢があるように見える今、この「選択」しかできないわけだ。
この選択が、毎日であり、今であるわけだが、そう観るとフィルムのコマは選択肢の連続なのだろう。
どういうコマが次に来るかは、今のコマにかかっているわけでもある。そう考えると、コマの連続性を考えると、今のコマから次のコマへの変化というものは制限、物理的連続性、何らかの連続性があるわけだ。このコマは、子供の頃からずっと続いているわけだが、常にその物理的連続性なり、何らかの連続性の制限の基にある。
そう考えると、私が今こうなるのは子供の頃からある程度決まっていたのだろうかという気もする。神様が敷いたレール上にあるような。