日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

風呂場での思いつき

2016-06-26 18:45:34 | 日記
  人は、言葉でできている。実在が何かというのが、最近よく考えるテーマだが、実在という「もの」へ人は到達できない。実在が何かと、分かったとしても、もしくは自分が定義をしても、それは言葉だ。分かったというのも、言葉で分かったのであって、本当に分かることはない。
  どういうものが世界にあるか、それを考えてみても、そこに到達することはなく、どういう風に世界を自分が見ているか、そういうことの説明ができるだけだ。
  私も、結構良い歳になったのだが、色々な責任というか、しがらみみたいなものはある。そんなものはない。と言葉で考えても、目の前の木の葉一枚ほどの重さも、責任というものには重さはないのだが、その重さに人は時に命までもかける。そんなに重たいものがあるのだろうか。言葉でしかないと頭で分かっていても、心や体は自然にその言葉に動かされる。そういう意味では言葉で、言葉に重さがないと言っても、心では重さや、体でも重さを感じているだ。だからこそ、ストレスというものも、病気も存在するのだと思う。
  私自身、そういう重さから離れて生きたいと思うし、それは一つの理想なのだが、そういう生き方ができるかと言えば、できない。
  ひょうひょうと生きる人は、こんなことは考えないだろうと、勝手に思う。そういう人ほど、言葉を使わずとも、自然とそうしているように見える。
  世の中で大切なものはなんだろうと思う今日このごろ。
  

「もてる男」の実在論2

2016-06-19 07:35:27 | 日記
  「もてる男」が存在すると考えることは、一般的感覚に合致しているだろう。中学や高校のクラスには1人はそういう奴がいたものだ。
  もてる男は実在するのか、存在しているのは男であって、そこに「もてる」が加わっているのだが、端的に「もてる男」が存在しているのだろうか。C君がもてる男であるのか、もてない男であるのか、話を簡略にするためにC君が男であることに異論はないという前提にしよう。問題はもてるのか、もてないのか、さらに本質的なところだが「もてる男」や「もてない男」は、男に何らかの性質を加えた上での概念だが、この概念は存在する者と考えてよいのだろうか。
  背の高いは物理的な規約を作れば、人類を2分することも可能だろう。もてるも人数的規約何人以上の異性から好かれている(ここでは話の簡略化のために同性は含めない)とすれば、対応する人間を割り振ることが可能にはなる。この時に、好かれているという条件が実在する条件であるのか。ここに疑問が生じている。
  好かれているという、もてているということ、このことを含めて実在と考えなければ、もてる男はただの男に成り下がってしまう。もてているという性質は、その男自体に存在する性質ではない。周りの女性が持つ感情から見た、その男に対する評価である。この評価の存在を含めて存在するもの、実在と考えるのが適当なのか。この評価もその男に付加された性質と考えるのか。
  薔薇そのものが存在するかといえば、個物の薔薇が存在するだけで、薔薇という抽象的存在者そのものは存在しない。この薔薇という性質が、単なる名に過ぎないのか、この性質の実在を認めるのかで、普遍に対する考えが議論されてきた。(普遍論争)
  もてる男が存在すると考える時、もてる男とされる男は、個物として存在することを認めよう。この男に付加される「もてる」は、抽象的存在者、つまり実在ではないのではないか。もてるという評価なり付加される性質は単なる名に過ぎないのでは、という疑問が私の疑問なのだ。
  そんなことを言えば、もてる男は実在しないではないか、ということになるのだが、私の経験や感覚からすれば、もてる男は存在する。
  ただ、もてる男を実在だと考えると多くの存在者が許されることになる。実在とは、唯物論的に言うと物しかないのだが、もてる男という「物」も含めて実在と考えると、実在の範囲はとたんに大きくなろうだろう。様々な性質に分類された存在者が、この世界には実在することになる。
  人間には、男と女が存在する。その外に人間の中でも、経済学者やピザ配達人、歌手、いろんな存在者を認めるのか。歌手というのは、人に性質を加味した存在者は、実在なのだろうか。そこには、ただの音声を発している男か女しか存在しないのではないだろうか。このような世界観を認めると、AKB選挙第1位とかいう存在者も実在として認めなくてはならなくなるのでは。
  もてる男が実在するかしないかを考えると、その人が見ている世界、実在に対する考えたが見えてくるが、一方でもてる男は実在しないと言っても、それほどもてなかった自分からすると、やっぱりそういう人はいるよなとも思えてくる。
  何が実在すると考えるかで、世界を見る目が変わってくると思うのだが、いまだ何が実在しているのか、考えてもよく分からない。
  
  





「もてる男」の実在論

2016-06-18 07:40:15 | 日記
  高校生の子の教材の中に、以下のような話が載っていた。タイトルが面白いので、そんな秘訣があるなら知りたいと読んでみると、

  「もてる男」の秘訣とは、
  それほど男前でもない男が多くの女性と仲が良いのを不思議に思った友人が、「君は何故そんなにもてるのか」と訊いた。
  「たくさんの女性に声をかけるのさ、中にはデートしてくれる女性もいるからね。」という答えが返ってきた。
  
  というような話が載っていた。私としては、秘訣じゃないじゃないか、と子に言った。以下はそのやりとり

父  なんだ、秘訣になってないじゃないか。
子  見た目がよくなくても努力するのが秘訣なんだよ。
父  もてるということとは違うんじゃないか。もてるのは、受動的なことで自分が動くようなことじゃないと思う
  けど。
子  「もてる」の意味は、辞書では「異性からちやほやされること」だけど、自分で声をかけて好きになってもらっ
  たことももてるでいいんじゃないの。
父  A君がもてるというのは、10人つきあっている女性がいるとしても、9990人の女性に断られたとしたら、
  それでも、もてるというのかい。
子  10人の女性とつきあっているという現象があるならもてるでいいんじゃない。たくさんの女性とつきあって
  いるんだから。
父  B君がいて、彼は自分から女性に声をかける勇気がなかったけど、まわりの女性が皆、彼のことが好きだ
  った。てこともあるよ。同窓会に行って、クラスの女性の大半が彼のことが好きだったってことが後から分か
  ったというようなこと。
子  その事実は、当時だれにも分からないだろ。それは神の視点があれば、B君はもてると言えるけど、誰にも
  分からないもてるよりは、断られても努力を続けるA君の方がもてるんじゃない。
父  もてるというのは、好かれているという受動的な状態を指すのであって、多くの女性とつきあっているとい
  うこととは別だと思うよ。
子  見た目がいいとか、金持ちだとか、もてる人がいるけど、どうして努力はもてるの条件に入ったらおかし
  いの。努力も含めてもてるの意味だと考えたらいいと思うけど。
父  本当にA君はもてるのか、もてないのか。もてる男の集合を作るとしたら、A君はもてる男集合の要素に
  入るんだよね。もてる男集合を作る規約は、1人でも女性とつきあっている人だろうか、そうすると集合は巨
  大になりすぎるよね。10人の女性とつきあっている人ということだろうか。集合を作る規約にするには、何人
  とつきあっているというよりも、多くの人から好かれているという規約が必要じゃないかな。これも何人という
  ことはできないけど。
子  数学の集合のように考えるのは無理があるんじゃない。
父  じゃあ、タルスキという論理学者が考えたT規約という真理を作る文に代入してみるよ。
   「もてる男」が日本語において真であるのは、異性からちやほやされる人間の雄のとき、そのときに限る。
子  何も言ってないじゃないか。
父  ん。やってみたけどトートロジー、循環論法に過ぎないな。このT規約は、真理を定める規約とか、そうでな
  いという意見もあるんだ。やはり真理を定めることはできないのかな。後は、やはり集合の規約の線で考
  るしかないかな。国語の先生と数学の先生の共同でやってもらえば。
子  もてる男は、そのままの意味ではたくさんの異性からちやほやされているということだけど、次元を一つ
  上げて、努力も含めてもてる男でいいんじゃないかな。努力が入らないとか、起きている外見的な事実でなく
  て、誰にも分からない好かれていることのようなもてるより、起きている現象がもてるじゃないの。
父  そう言われると、そういう考えもありかなと思うけど、現象には意味があって、同じ現象でも違う意味があ
  る時、もてるというのは意味だと思うんだけど。
子  金を失くした。と言う時に、財布を落とした。ということと、一万円を使って買い物をしたという時のようなこ
  とだろ。
父  そう、そのとおり、現象だけでは意味が捉えられないから。もてる男の意味は、やはりキムタクとか長瀬君
  とかいうような。女性から好かれるような人の意味だと思うんだよ。
子  でも、それを努力でカバーするともてるでないというのも、納得できないよ。見た目はOKだけど、努力はダ
  メって。
父  それは、もてる人の条件であって、もてるの意味とは違うからね。でも、もてる男の外延(集合でいう要
  )は、もてるという内包(規約)と無関係と言えないし。もうこのあたりになると、もてるということから、世界を
  どう見てるのか、本当のもてる世界があるのか、外見的なもてる世界があるのか。どちらの世界を選択す
  るか、信じるのかという話になるかな。
子  僕は、努力を信じるよ。

 



教える人の権威

2016-06-13 09:48:31 | 日記
  川べりを自転車で走っていると、堤防敷きで野球、サッカー、ラグビーを少年達がやっている。時々、気になるのだが、野球を教える人のガラが悪い。子供に何を教えているのだろうと思う時がある。
  教えること自体に夢中になって、教える内容よりも教える構図、大人と子供、指導者と言う事をきく人、この構図が大好きになってしまっているのだろうと思う。自己充足感というのだろうか。偉い気持ちを自然と味わうことができるから、その上、子供や保護者から感謝されるのであれば天狗になるのも当然と言えば、当然。
  私が、ここで嫌な気持ちになるのは、権力性、公然とした権力というもの、子供に何かを教えることは権力の構図ではないと思う。良い先生と思える人ほど、権力性から離れている。嫌いな先生という人ほど、権力性の匂いがした。実力がないからこそ、先生という肩書き権力というものに依存する。 
  何かを人に教えることは、権力とは異なる。学問は、学生であれ、先生であれ、何らかの問題の解釈の地平に立てば、おなじ地平面に立っている。これはスポーツを教えるにしてもそうだと思う。先生の方が、経験的に正解を答えることが多い、だからと言って新解釈がないわけでもない。
  このことを真面目に考える人は、子供の意見であっても真剣に聴き、これを検討するだろう。