日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

存在について

2013-06-30 07:15:07 | 日記
存在するものは何か。これでは何を言っているのって感じだ。
では、正義は存在するか。数は存在するか。意味があるのか。歴史は存在するのか。
という具合に考えると、何を問いたいのか分かるだろうか。
例にした正義はどこにあるか。という問いはイデオロギー的には問いとして成立するが、正義は実在するのかという問いにすると意味を失ってしまう。正義は物として存在ではないので、概念として存在するとしか言えない。その上、この概念も人によって全く異なって受け止められているので共通の正義など存在しない。しかし、正義という言葉自体は、各言語に翻訳可能であるように、正義が指す内容は、ばらばらだが正義というフレーム、枠は共通するという具合。
存在と言っても、概念レベルと実在レベルの二つの次元で存在という言葉が使用されていると考える必要がある。
会社は存在するか。普通に考えると、毎日会社へ働きに行っているのだから、存在するに決まっている。という所だが、実在レベルで考えると会社などという物はない。会社の社屋はあっても、これは木材や金属、コンクリで作られた建築物に過ぎない。会社というものは、法人という人が作りあげた概念、リアリティでしかない。法人は人間ではないのだから、そのような人を本当に見ることはない。
こう考えると、世の中にあると思っているもののほとんどは実在レベルでは存在しない。特に重要だと思っているものほど実在レベルでは存在しない。お金なんかは、特に信用=お金という関係性なのだが、信用無しに貨幣システムなど存在しないくらい想念のレベルで成立している。関係性などは実在は無いと言ってしまえば、愛もなければ価値というものも存在はしない。
実在レベルでは存在するものは、価値として存在するのでなく、ただ存在するだけだ。食料が重要だと実在レベルで思うかもしれないが、食料が重要なのは生きるために重要だと思う訳で、パンや米が物理的に重いわけではない。
では、存在するものは実在だけなのだろうか。実在を確認している私は何者か。実在を確認している私は、どうやって実在するものと実在しないものを区別しているのだろうか。正義が実在しないことは、まあ分かる。ただの言葉だものね。ではこのパソコンが実在するのは何故分かる。今、こうしてキーボードを叩いているじゃないか。蹴り飛ばして壊れるものや、足のほうが怪我するものは実在。これは分かりやすい。が、壊れたからと言ってそれを確認しているのはあなたの目だけじゃないかと、考え始めると、実は認識したら実在と考えているだけじゃないか。
認識と実在との区別は、映画のマトリックスが代表だが、実在を錯覚している可能性、夢を見ていることと、現実を見ていることは区別ができない。という邯鄲の夢に行き着いてしまう。
実在も認識することができなければ、実在と言えないのでは、素粒子レベルの実在を主張されても、普通の人はそんなものが実在しているのか、空想の世界なのか正直分からない。専門家が確認したなら実在でしょうと言うくらい。
こうなると実在も、認識に依存しているではないか。認識していないものは実在ではないとすれば、認識=実在となってしまい、概念、言葉に頼らない実在という存在もあやしくなってしまう。
結局、存在するものは認識なのか、実在なのか。認識の外にある実在というのは、実は自分の世界の一枚外の世界、結局は到達できない世界になってしまう。
では、言葉だけが、感覚を含む観念だけが、自分の世界だけが存在するのか。
結局、何が存在すると言っていいのか良く分からないのがいつもの結論だ。私がよく思うのは、在るのは言葉だけ。もちろん言葉には対象があるように、対象の存在は否定しないのだが、人が生きているのは実在のレベルではなくて、言葉のレベルで生きているような気がする。言葉で問いを作って遊んでいる訳だが何が存在するかというのも言葉のレベルで推し量るしかない。では結局のところ、存在するのは言葉しかないのではないかという気がしてくる。こうなると、正義もやっぱりあるんじゃないかという地点に帰ってくる。

監視の社会

2013-06-23 10:24:49 | 日記
給食の余りを調理員は食べてだめか。
こんなことが、ニュースになるのかと思う。給食の調理員が余った給食を食べていたので、これを市長が叱責したという内容だ。
余り物は全て捨てろということだが、食べ物である以上、捨てること自体に問題があるのだが、この点についてはなんら観点がない。

市民の目があるから、役得は許されないという判断、調理員が自分が作ったものを毎回食べるのは、それだけ料理がおいしかったかどうか確認することになるのだからむしろ当人分くらいは食べる方が望ましい。自分が食べないものを人に提供するよりも毎回自分が食べている方が美味しいものができるのは当たり前だと思う。わざと余らせる必要は無いが、余りは調理で必然的に生じるのだからこれを、そのまま捨てるよりも調理員が食べることには意義があると思う。
問題は、これが調理員だけの話というよりも、社会全体が他人の目を気にして暮らさざるを得ない。密告社会化しているのではないかと点だ。
教員が夏休みに仕事をしていないという批判も以前に行われたが、あなたは余裕のある教員に子を教えてもらいたいだろうか。それともかつかつの時間でしか授業が用意できない教員とどちらがよいだろうか。
我々は、他人への視線を厳しくするあまり、これが自らに跳ね返ってくることを忘れていないだろうか。過剰なサービスを要求する客ばかり増えている。これがクレーマーでありモンスター何とかと言われる存在になっている。社会の多くが労働者で構成されている以上、他の労働者への要求を高めることは、結局は自分がそのようなサービスの提供を求められるということになる。