日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

意味 3

2010-11-15 23:52:52 | 私とは何か
 意味は、人によって見出される。
 どのようなものでも、これに意味を与えているのは人だ。
 人がいようがいまいが、物は人に関係なく存在する。花は存在するが、人がはじめてこの花というものを見つけて意味を見出す。
 人がいなくては、花に意味をつけることができないが、花がなくては花に意味をつけることもできない。
 花は、私が滅んでもやはり存在し続けるが、この花を認識するものがいなくなる。  花の、物の存在は、意味とは別個にある。在ることと意味とは別だ。花は人が見ていようがいまいがある。
 よその庭にある花を見つけて、こんなところ花が咲いているのかと思うことがある。この花を見つけなければ、花の意味をつけることができないし、花があることも分からずじまいだ。
 生活で、世の中の多くの物に出会いその時々に、その物に意味を見つけ、印象の強い出来事は、記憶に残し、多くの物事はその時につけた意味を忘れていく。一度でも出会う出来事よりも、世界に広がる物事には、出会わないことの方が絶対的に多い。
 この出会わない出来事には、意味はない。テレビの世界であれ、一度でも出会わないことには、在ること自体が認識できない。
 そうすれば、意味の発生の原因は、私の出会いであり、出来事であり、その出来事に対する印象、印象から発した言葉が意味の内容だ。意味が生まれるには、出来事が必要だが、在ることだけでは意味とはならない。
 
 散歩で見つけたもの、喫茶店で見つけた漫画、どれも、たまたま見つけたものだ。この発見は不思議だ。見つけたから自分で意味を見出したが、見つけなくてもその喫茶店には、その漫画が存在する。多くのものごとを多くの人が発見し、その物事に次々と意味を与えている。
 私は、多くの出来事で他人がつけた意味を何も知らずに過ごしている。
 顕微鏡を覗けば、水滴の中にも多くの出来事が発見できるだろう。夜に空を見上げれば星を見つけることもできるし、天体望遠鏡があれば、より多くの星が見えるだろう。
 世の中の出来事の絶対多数が、私とは無縁に、私に観察されることなく、過ぎ去っていく。私の存在も、世の中の出来事の絶対多数からすれば、全く顧慮されるところなく、過ぎ去っていく。
 私の生活の中では、私が常に世界の中心に位置しているが、その私の存在も、世の中の出来事の絶対多数からみれば大海の泡沫、ミクロな場所でのミクロの時間での出来事にすぎない。
 自分の存在がミクロな事象であることを知りつつも、世界の中心が自分と言っている。私の世界では、私は、私の周辺に絶対的な影響を与え生活を続けている。
 私の頭を悩ますことが、私の問題が、世の中でいつも起こり続けている。それも、私の小さな世界の小さな出来事だ。
 何か滑稽で、さみしくもある。
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

フォルダの意味、私というフォルダ 

2010-11-14 08:04:47 | 私とは何か
 意味は、ものにあるのか。人がものに意味をつけているのか。
 人がいなければ、ものに意味はないのか。石ころに意味があるのか。花に意味があるのか。花自体に意味がないとしたら、人は花に何の意味をつけているのか。
 
 花というフォルダ(分類の意)は、花と呼べる性質を有するものを放り込んでおく便 利な架空のポケットみたいなものだ。
 フォルダは、名称とその規則(フォルダに集めるものを取捨選択する規則)から成立している。フォルダには名称がなければフォルダとしては成立しないし、フォルダに規則がなければ何が入っているか分からないフォルダとなってしまうので、フォルダとしては機能しない。
 花をフォルダの名称とすれば、花の意味はフォルダの規則ということとなる。花というフォルダは、花という名称と、この名称の元に集めるものを取捨選択するルールから成立している。人が花というフォルダの意味を問うときは、このルールを問うている。
 このフォルダの構造は面白い。花のフォルダの中には、バラ、タンポポ、ボタンなどのフォルダが無数にある。フォルダの中にフォルダがあってバラのフォルダには、またオールドローズイングリッシュローズ等々のフォルダが詰まっている。このフォルダは、人によって任意に分割され続々と増え、またそのフォルダがあったことが忘れさられていく。
 社会の構成にそっくりだ。世界があり、民族があり、国家があり、地域があり、会社があり、部があり、係があり、個人がいる。
 個人の中にも、日本人、男、会社員、父、ゲームオタク等々の構成がある。
 この構成は、フォルダという枠から色々なものを覗いてしまうと、フォルダの性質からこうなってしまう。
 そうとすれば、社会における色々な物事もフォルダに分類され、分類された物事の意味というものは、それぞれのフォルダのルールということになる。
 意味をこのフォルダの名称と規則により考えるなら、フォルダは人がつくるものだから、人が意味を作っていることになる。 
 ただフォルダを作っても、中に入れるものがなければ、そのフォルダは機能しない。だから中に入るものは、フォルダとは別に存在しなければいけない。この点で、フォルダの中に入るものは、それ自体で成立しているし、フォルダに入るものがないのなら、そのフォルダは成立していない。
 私というフォルダを作った時には、私というフォルダの名称と中に入るものを分別する規則が必要だ。私というフォルダの名称は、よく使っているが、私という規則は普段は使わない。
 私というフォルダは、成立がしているが、規則がよく理解できないフォルダだ。
 この規則は、フォルダを作るのが人である以上は、自分でこの規則を作らなければならない。フォルダは中にものを入れて初めて成立するのであるから、中にいれるものを何にするかは、自分で決めて、自分で集めなくてはならない。
 私が何者か分からないというのは、フォルダの規則が自分で自覚できないことだろう。
 生きる意味とかいうことを尋ねる人もいるが、同じフォルダの構造から考えれば自分でルールを決めて、自分で中身を集めなくてはならない。
 ことばの中には、私とか、生きる意味とかいう、名称はあるがその規則がはっきりと定まっていないフォルダがある。逆にこのフォルダの規則を明確に定められた社会は、全体主義的性格によって、個人が規定されたことになる。
 このよく分からない種類のフォルダは、規則を意味とすることができるのか。中身を意味とすべきか。もう少し考える必要がある。
 ものの中に見出される意味について、今度よく考えてみよう。何故ものの中に意味を人は見つけることができるのだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

私の二つの意味 8

2010-11-06 08:11:15 | 私とは何か
 私を意味と規定しようとする私がいる。私には私を規定しようとする私と、規定される側の私の2種類がいるように思う。今のところは、数えればまだいるかもしれないが。
 私を規定しようとしてる私は、私を構成してる枠であって、思考の方法であり、その思考の方法の裏づけとなる感情、倫理観、ルールだ。
 私の枠は、私の中の小さな社会、関係だ。底にあるのが、感情であり次に倫理観、ルールが積み重ねてあるように思う。倫理観や私が従っているルールは、ある感情から適用される倫理観、ルールが生まれ、逆にこのルールに反するようなことがあれば、ある感情が生まれるのかもしれない。
 一方の私、規定される側の私は、私の意味だ。規定する私が、私はこうでありたい。又は私の全てはこれだ。といえるもの。私からこれをとれば私ではない。というような表現をされている私が、規定される側の私だ。
 世の中には、私は社長だ。私には会社の成長、売り上げが全てだ。というような本当に純粋な人物がいるのかもしれない。音楽が私の全てだというような人物がいるのかもしれない。金と地位から得られる享楽が私の全てという人物は多いだろう。特に権威を恐れ、権威に自分がなりたいと思う気持ちはだれにもあると思う。
 私が何を大切にしているかを枠の私が決めれば、中身の私が決まってくる。
 中身の私を決めることができれば、私はたやすく規定できるし、私が何かを考えない人であれば、私はこれでしかない。私が大切にしているもの、私が何をこれから大切にしようとしているのか。これが定まらないと私が漂流してしまうのだろう。
 私がやりたいことを明確に持つ人物は、純粋な人物と評されても明確に幸せだと思う。これにまい進すれば、着実に幸せに近づくことを感じることができるのではないか。意地悪に言うと、「本当に幸せであるか」はその人が決めればよいのであれば、これでその人にとっての私が決まる。
 私は、枠としての私と、その中身である私の二つで一つの私となっている。普段は、意識をしていないが、二つの私をまとめて私と言っている。実際には枠の私は、私の経験、歴史を通して形成されるので、これまで私が何を中身としてきたかで、私の枠も変わってくるだろうが。
 ただ、枠としての私を強く意識する人は、私の中身が空疎に見え、中身としての私を強く意識する人は私を省みることができない。
 枠も中身もどちらか一方では、私のバランスが崩れてしまう。どんなに枠である私を覗きこんでも、枠は私の中身でないから、私の大切なものが見当たらない。また、私の中身も、もともとは私の外部のものを私としているのであるから、よく見てよく考えれば、これは私ではないと思ってしまう。
 枠の私を意識せずに、私の中身ばかり見ていれば、その中身が喪失した時に、私が無くなってしまう。その中身が本当に価値あるものか吟味する機会が少なければ、ある日に私の中身がつまらないものと思ってしまう。
 私の枠は、この自分自身の枠が正しいかどうかは完全には判別することができない。自分の目は自分では見えない。
 不完全ながらも、この判別をするために、私と他者との関係性を見つめなおすことが必要だ。これが反省という作業だろう。
 私は延々とこのサイクルを繰り返すことで、私を作りつづけているのだろう。
 私は、毎日が違う私へと変化している。進歩でも退化でもなく、少しづつ変化している。
 
 
 
 
   
 
 

私の中の社会 7

2010-11-03 17:10:36 | 私とは何か
 私の中の社会とは、私の価値観、倫理観、ルールの積み重ねだ。美術、音楽、これらの趣味もこれまでの経験から好みが作りだされている。
 私が満足するものが、私にとって最も大切なものと言えると思うが、この満足も私が決めているようで、やはり社会的な規定の作用を受けている。
 私は、社会の評価を受けたいと思うことは少ない。むしろ社会の評価から離れたところで一人整然としたような存在でありたいと思うが、このような心も隠遁者という価値観へのあこがれにすぎない。
 私を規定すること、私とは何かを説明しようとすれば、今のところは、私が受け入れた社会規範が私なのかと思う。
 推論は正しいように思うが、おもしろくない。
 
 私は、不満を見つけてはそれを解決しようとし、より新しい不満を見つけてはそれに飛びついているのか。日々の生活でも、同じ作業の繰り返し。色々なものに不満を見つけては、それを目標にしているのかもしれない。
 それであれば、不満でいること、不満であることに良い意味を与えてやれば、意味ある生活になるのかもしれない。
 
 

小さな社会 6

2010-11-03 08:04:06 | 私とは何か
 世界は広く、小さな社会が互いに重複し、小さな社会から構成された社会である。
 世界の大きさは、私が見る視点によってその広さが変化する。ミクロに顕微鏡を覗き込んでも世界は存在するし、会社に行っても世界は存在するし、テレビで見てもその先に世界は存在する。
 私を視る作業は、この視点を虫眼鏡で内側に覗き込むことだ。私は、これまでに自分が歩いてきた社会が反映されている。むしろ私の中には社会そのものが構成されているのかもしれない。
 私が、大事とするものは、これまでの社会的規範や価値が反映されているし、その逆で嫌悪するものにも社会的規範、価値が反映している。ただ人々は、これまでに歩いてきた、「私」が選択した方向によってその社会的規範、価値が個々に違いがあるのだと思う。似た方向性の選択をした人々は似た価値観、共感を持ちやすい。
 私の個性とは、つまるところ私の歴史の中でその時々の社会に参加し自分が受け入れた社会的規範、価値の積層だ。この積層を変化させることは難しい。今現在もこの積層をつんでいる最中であるし、変化させるにも変化を起こさせるのも私自身であるので、本当に変化を起こしているのかも分からない。というよりも変化させたつもりが、今受け入れた社会的規範を新たに積み重ねているだけだろう。
 これでは、社会から独立に存在する個人的な価値というものは存在しえない。
 
 朝食ができたので、これくらいにしよう。
 私の一部は朝食とそのおいしさかもしれない。