日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

人生ゲーム論 2

2011-01-08 17:44:49 | 私とは何か
 人生ゲームの作り手は私であり、私がゲームのフィールドと枠となる規則、目的を決めている。ゲームのフィールドとは、私が生活している場所だ。ゲームの規則と目的は、私がこれまでに受け入れてきた言語や、この言語に基づく世界観から構成されている。
 私は、日本語を使用しているので、日本語に基づいて発想し思考しているし、価値観も、西洋的思想を受け入れつつも、意識しなくとも日本社会のものだ。権利や義務などは、もとは日本語になかった言葉だが、日本語に翻訳された意味で、日本社会での使用の仕方を受け入れている。
 私は、日本社会で、日本語によって人生ゲームを繰り広げている。
 私が、人生ゲームを作っているのだから、私が自由にゲームの枠とルールを変更できるのだが、そうも簡単にはいかない。
 このゲームのフィールドは、私が生まれた時に初期値として決められ、使用するルールも生まれた時から、与え続けられている。もちろん初期値が与えられただけであるので、これまでにゲームで築きあげた装備類と経験値を失う勇気があれば、リセットすること、準備すればフィールドとルールを変えていくことができるだろう。(フィールドとルールの変更は、生存自体を危険にするものだ。)
 仮にこれらの条件を変更しても、依然としてフィールドとルールは存在する。いかに自分がフィールドとルールを変更したと思っても、変更しただけだ。私は、このゲームから飛び出すことができない。私は変更したフィールドとルールを支配をするが、またこれらに私は支配されることとなる。
 どうしても私は、このゲームから抜け出すことはできない。
 
 このゲームの輪廻から抜けることは難しい。私は、このゲームから抜けることはできないだろうが、私が解釈したゲームであることは分かっている。このフィールドもルールも私が選び続けた結果であるし、部分的には変更することも可能ではあることも分かった。その上で、生活している。
私のゲームの解釈は決まったものではない。この解釈はいつも変更する危機にさらされていると言っても良いのかもしれない。
 私のゲームの目的は、ゲームの目的を探し、解釈を続けることかもしれない。これも私のゲームの解釈だ。
  日々、言葉のゲームに囚われながらも、言葉のゲームを超える可能性はあると思う。言葉でない喜びのある生活をする人は、その時このゲームを越えているのだと思う。
 私は山を歩いたり、川辺を自転車で走ることが好きだ。この時は、少しでも言葉のゲームを忘れているのかもしれない。
 私は、日々が言葉のゲームであることを知りつつ生活している。
 日々が言葉のゲームであると考えると空しくなることもあるが、つまらない出来事に囚われている自分に気がつくこともある。気がついてもどうにも考えが止まらないこともあるが、ゲームであればこのゲームを楽しむこともできる。
 このゲームに疲れたら、休息をとればいい。
 

言葉と人生ゲーム

2011-01-03 11:18:17 | 私とは何か
 人生が、言語による壮大なゲームに思えるときがある。子供の頃は感じなかったことだが。昨日は、ドラマで信長が滅してしまった。こんなのを見るとそう思ってしまう。
 
 言語は、パズルゲームに近い、単語と単語を組み合わせると、文が生じ、文を有機的に構成してやると物語になる。
 会話の構成は、推論を相手方に投げかけ、相手は投げかけられた言葉に対し、自分の推論から返答を行う。互いに投げかけている時は、自分の視点からの風景を、言葉にし伝えているに過ぎない。私は、他人の視点からの風景が分からないので、それを相手に聞く、互い見ているものの風景の確認作業が会話である。面白い会話は、相手の推論と自分の推論との間に大きな差が生じた時に生まれるのだと思う。
 一人でもの事を考えるときも、自分の中に会話が生じている。考える作業は、基本的に、自分の中の会話だ。常に会話をしている自分は、言語によるパズルを組み立てるプレイヤーだ。
 生を言葉によって語り始めるとゲームとなる。人生を物語として面白く語ることもできるし、目的として面白く語ることもできる。前者は伝記で、後者は人生論となる。生を考えれば、どうしても言語のパズルゲームの中に組み込まれてしまう。考える行為が言語に頼っている以上は、必然そうなる。
 私の目の前にあるこの世界は自分以外のプレイヤーが存在し、皆が、それぞれが自分のゲームを、「億万長者の土地」を目指している。しかし、必然だれもそこには到着できない。
 ボードゲームではそこが終着だが、現実の生に、そんな終着点はない。現実では、そこで生が終わるという出来事が待ち受けているだけだ。人生自体は、ゲームではない。事実としての生存があるだけだ。
 この言葉のゲームは、現実の生に、どのような意味、面白みを見つけるのか。
 一つの生であっても解釈があり、解釈によって様々な物語を作ることができるだろう。人それぞれが、解釈を持つことができる。
 人の生は、その人だけが知る物語であり、連綿としたエピソードで構成されている。ただ、この物語は言語で全てを語ることはできない。自分の生についても、その人が言葉で表現できるのは全体の一部にすぎない。第三者は、この物語の一部を切り取る。ある方角から見た一面を物語るだけだ。
 一方で、この一面的な物語を、またその物語の解釈たる教条、言葉に、人はしがみつき、心に、この教条に従って、営々と城を築いている。
 そして現実の世界で、このゲームの延長と拡大、実現化をしている。
 生は、言葉のゲームではない。生のために言葉を使用すべきであるのに。言葉で作られたもののため、言葉に規定されたものに生を費やしている。言葉で生を解釈すべきであるのに、解釈から生が規定されている。両者は営々としたサイクルとして、解釈し、規定され、またそれを解釈し、規定する。この営みが止まったところが、教条主義に陥るのだろう。
 では、どうすれば良いのか。
 私は、言葉のゲームプレイヤーだ。私の言葉による人生ゲームは、私が解釈しなければならない。また私の解釈でしかないこと。私は人生ゲームのプレイヤーであると同時に、私が当のゲームの作り手であることを認識することだ。
 こうすれば正しいということは、言葉で説明することはできないだろう。正しい解釈というものを自分で作ったり、人に教えてもらっても、違う教条を知ることになるだけだろう。
 
 散歩にでも行こう。
 
 

「べき」の思考と限界

2011-01-01 21:04:17 | 日記
 英語を勉強し始めた子に、「父さんは、べきmustが多いよ。しようwillが少ないよ。世の中は、良い悪いの2択でないよ。」と言われた。
 私は、とくに「べき」について考えていた直後なので驚いてしまった。「本当にそのとおりだ。気をつけるよ。」と答えた。
 子供の指摘はするどい。
 指摘されたとおり、私の思考はどうも「べき」の思考、義務の有無、良い悪いの二元論に導かれやすい。また、傍観者的なところもwillが少ない原因かもしれない。
 これを回避するのが、「しよう」の思考か。そこに良い悪いの価値判断がない。意思と力があれば行為が成立する。
 ではこの意思をどのようにコントロールしたらいい。「しよう」の思考があれば何でもできる訳でもない。
 「しよう」の思考をコントロールをするのが、「べき」の思考か。
 「べき」の思考が多いのがよくないことは、直感的には理解できるが、理屈の上で何がよくないかを考えたくなってしまう。
 もっと軽くいこうよと言えばいいのだろうか。
 「べき」の思考の場合、問い尋ねれば、出てきた回答が正しいか再度問い直すという際限がない行為をしなければいけない。新喜劇では寛平ちゃんが「何がじゃ、どうしてじゃ、」とこの台詞を繰り返す。この台詞は、際限のない問いに笑いがあることを指摘している。私が考える内容は、この台詞と同じかもしれない。考えて何になるのだろう。
 今は、子が言うことに気をつけて、「しよう」が多くなるよう心がけよう。