日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

買い物の感想

2015-11-07 18:06:18 | 日記
  ブルックナーの第8番、ヴァント指揮北ドイツ放送響のSACD(今年の10月に出たやつ)を買った。ベルリンやミュンヘンフィルも所有しているのだが、今のお気に入りになっている。従前の北ドイツ放送響の8番も持っているのだが、録音はこちらの方がだいぶ良い。
  音がベルリン、ミュンヘンに比べて優しい感じがあり、演奏もゆるやかな印象がある。ラッパが朗々と響く感が他のオケよりある。別に音楽マニアではないので、細かいところは気にしていないのだが、何度か聴くうちにこのアルバムがなじんできた。
  以前に、大フィルの8番を聴きに行ったことがあるが、がっかりした。家でCDを聴いている方が良かったと思うくらいだったと思うのだが、拍手が一杯で不思議で仕方がなかった。CDにしても、ときおりがっかりするようなものもあるが、これもあたりはずれがあって楽しみだろう。
  次の、コンサートはベートーベンの第9なので、まあ外れはないだろうと思うがこれも楽しみ。
  今の、悩みは同シリーズで出ている第5番、第4番を買うべきか否かだ。欲しい時には無くなることが多いので、購入したいと思うが、高い買い物なので検討中だ。これがまあ楽しみなのだが。

  

勤労感謝について

2015-11-05 22:11:21 | 日記
  仕事をしていると、一日が長い。朝でかけて、夕方に帰る。私の仕事自体は、私には個人的な興味がない。
  一生の仕事をやっているひとがうらやましい時がある。そういう仕事についている人は、非正規雇用が4割を超える社会になった現在では、そうそういないのだろうが。
  現代は、そういう意味では人間の労働からの疎外ということがますます進んでいるのだろうと思う。労働は、ある意味、苦役である。むしろ、本質的なところでは苦役。作品という意味でのワークと労働は異なる。この作品という意味がある仕事をしている人がどれだけいるのであろうか。
  自分でそういう仕事を選ばなかったのは、私の責任である。誰の責任でもなく、私の責任だ。これを引き受けるのも私、何か自分を投影することができる仕事、そういうものにあこがれるのだが、今、私が置かれている状況で、自分のなすべきことをなすしかない。
  労働に、自分が反映されない、もしくは反映することが幻想であると考えている人間にとって、労働を続けることは苦役である。60歳定年から、65歳までの間、賃金が半額になっても年金がでるまで働くことができるだろうか。。
  もう、今の仕事を続ける気力はないだろうと思う。労働と作品の関係は基本的な労働の問題だろう。私に限らないが、世の人々はどう折り合いをつけているのだろうか。




年末の第九のチケット購入

2015-11-04 18:22:55 | 日記
  今日、年末の第九のチケットを購入した。妻と上の子と私の3人分だ。下の子は高校生で、年末色々あるので行かないそうだ。去年もそうだった。
  クラシックのコンサートは、私の他は第九以外は家族は行かない。けど、第九は好きなようだ。何か年末の雰囲気に、少し新しさ、新しい年の到来を感じる第九ならではのものがあるのだろう。曲自体は、私も好きなのだが、1年に1回以上は聴くことがない。いくつかCDを持っているが、あの楽観的な最後の雰囲気がどうも、普段聴く気にならない原因だろうか。
  クラシックは、CDもいいのだが、やはり生で聴いた時の高揚感、特に第九はよく練習しているせいか、まあ外れがない。以前に行った大植英次の第九は面白かった。彼が今、一番面白い日本の指揮者だと思う。毎回、聴いて驚きがあるのは彼くらい。今年は、彼ではないが、行ったらまた発見があるかもしれない。
  今、クラシックの楽団はどこでも運営が大変なようだ。寄付するほど、余裕はないが、公演を聴きに行くことはできる。今年も、公演に行けることに感謝。

めも

2015-11-03 16:53:04 | 日記
  最近、体調が良くない。体がだるいのと、腰が痛い。もうそれなりに齢なんだと思う。
  家の前に畑があるのだが、そこも宅地になり家が建つ。もう数ヶ月で新しい住人が住んでいることだろう。できれば、畑のままが良かったが、時の変化は仕方がない。何もかもが変わろうとしているのだろう。ここに住むのもいつまでになるかも分からない。今、ここにあるのは、貴重な偶然の産物であり、そしてそこに住んでいる家族というものも、いつまでも一緒にいるわけではない。そういう意味で貴重な時間を過ごしているんだと思う。この過ぎ去る時間というものは、若い時は気にしていないが、人生も半分を過ぎればもう後、これだけかという気になってくる。
  皆、別れがある。これまでにも出会った人と別れてきたが、そのことも忘れたことが多い。この先は、忘却の中に私自身も含まれる。  
  人は、永続や安定を求め、そのために必死になっているのだが、そのようなものは本当はない。子に残してやるものも、それは私ではないし、私が永続するわけでもない。子は私より長生きしてもらいたいが、子に私を写しても、
子は私ではない。
  全てが、行き去っていくことに変わりはない。この中で暮らしていることに感謝して暮らす。そんなに贅沢な暮らしはできないが、特別に貧しいわけでもない。移り行く、世界を見ながら、その中に、ここに生きることに感謝しなくてはならない。ただ、健康があればそれでいいのだが、完全な健康というものもない。どこか体の調子が悪いところがありながら、それをだましながら、暮らしていこう。