明治4年11月12日、アメリカの大平洋郵船会社の
外輪蒸気船アメリカ号が横浜港を出発した。
この船に岩倉具視を正使とする岩倉使節団に、
日本最初の女子留学生5人が乗っていました。
私の教科書から写真を拝借しました。
左から、
永井繁子・上田悌子・吉益亮子・津田梅子・山川捨松
このうち、吉益と上田は、病気などの理由で帰国しました。
年長組の二人は異国での生活に適応できなかったようです。
津田梅子はランマン家で7歳から17歳までの10年間を過ごしました。
ランマン家は梅子を実の子どものように惜しみなく愛情を注いで育てました。
梅子が日本に帰国してからも、手紙を書き続け、実母と同様の存在だったと
思われます。
明治22年に梅子は、再度アメリカに留学しています。
高等教育を受けるため、ブリンマー大学で生物学を専攻し
3年後に帰国しました。
自らの意思で突き進む女性です。
明治33年、女子英学塾(津田塾大学の前身)を創立して、
女子教育に力を注ぎました。
左から
津田梅子 アリス・ベーコン
瓜生(永井)繁子 大山(山川)捨松
生涯の友となり、帰国後もお互い助け合っていくことになりました。
明治期において、自らの意思を貫き、女子教育に貢献して、
近代的な生き方をした女性たちがいたことに感銘をうけます。
それぞれの家庭環境もめぐまれ、留学に後押しした形でした。