米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設を巡る最高裁判決で、沖縄県が敗訴した。移設を進める国に司法がお墨付きを与える効果を生む。国と県とは対等という地方自治の精神が、かすんでいくことを憂う。
県は二〇一三年、埋め立て工事を承認したものの、一八年に予定する海域に軟弱地盤が見つかったことなどから承認を撤回した。
しかし、防衛省沖縄防衛局が行政不服審査法に基づいて審査を請求。国土交通相は一九年、県の撤回を取り消す「裁決」をしたため県が訴え、裁判になっていた。
最高裁は「県には訴訟を起こす資格がない」として県の上告を退けた。埋め立ての可否は国が県に委ねた法定受託事務であり、「不服審査は国交相が担う」上に、訴訟資格を認めれば「紛争解決が困難になる」などの理由だ。
この判断には疑問を持つ。防衛局も国交相も、ともに国の機関として一体であり、国交相の裁決が適切か疑わしいからだ。
行政不服審査は国民の権利救済制度であり、防衛局が「私人」のように振る舞うことも制度の乱用が疑われる。それゆえ防衛局の審査請求と国交相による裁決の妥当性こそ、厳格な司法審査の対象とすべきだったと考える。
軟弱地盤であれば、液状化や沈下などが生じる可能性もある。大規模な地盤改良工事をすれば、生態系への悪影響が生じるのも必然だ。知事による埋め立て承認撤回には十分な理由がある。
埋め立てに関する法律が「知事の承認」を必要とするのも、地方の事情は地方が熟知しているためだ。憲法は「地方自治」に章を割き、地方分権改革で国と地方自治体を「対等な関係」としたのも、地方の自主性・自立性に配慮するためにほかならない。
国交相による裁決に対して、県が法的に対抗できず、救済手段がないなら、国はまるで県の「上級庁」として君臨する存在になる。対等な関係どころか、県は常に国に屈服することを強いられ、地方自治の精神は踏みにじられる。
沖縄県民は選挙などで辺野古移設に「ノー」の民意を示し、県も民意に沿うよう、埋め立て承認の撤回や訴訟の道を選んできた。
「辺野古が唯一の解決策」という政治的結論に、司法が思考停止のように形式的判断しかできないのなら、地方自治は死に至る。
旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の被害者救済に向けた法案が衆院を通過し、今国会で成立する見通しとなった。与野党協議で修正はしたが、実効性には疑問が残る。被害実態に即して法律を運用し、法律に不備が見つかれば法改正を躊躇(ちゅうちょ)すべきではない。
法案は霊感商法など六類型の行為で寄付者を困惑させることを禁止行為とし、国の勧告や命令、従わない場合の刑事罰導入、禁止行為による寄付を取り消しの対象とすることなどを定めている。
与野党協議では、信者らは多くの場合、洗脳(マインドコントロール)下で困惑せずに寄付しているとして、「自由な意思を抑圧しない」という配慮義務を、禁止行為とするか否かが争点となった。
結局、禁止行為とすることは見送られ、配慮義務に「十分に」との文言を加えるにとどまった。配慮を怠った際は行政が勧告し、無視した場合は法人名を公表することと、施行後三年の見直し規定を二年に短縮することで合意した。
ただ、これらの修正で実効性が担保されるのか、疑問は残る。
「十分に」との文言にどこまで法的効果があるのか不透明で、勧告にも強制力はない。社会で問題視されてきた教団には法人名公表も打撃にならないのではないか。
禁止行為とされなければ、寄付が取り消しできるのかは微妙だ。岸田文雄首相は洗脳下での寄付も「不安に乗じて勧誘されたものと言え、取り消し権の対象になる」と答弁したが、法律に効果を持たせるには明文化が不可欠だ。
子どもや配偶者が献金を取り戻す権利を巡っても、対象は養育費などに限られ、寄付者に資力がないなどの条件もある。被害救済の目的からかけ離れていないか。
救済法は、被害者の立場で運用することが必要だ。仮に法律に不備があれば、二年後の見直しを待たずに法改正の必要がある。
高額献金被害など旧統一教会を巡る問題は安倍晋三元首相銃撃事件を機に再燃した。岸田首相は教団との「関係を断つ」と言うだけで、自民党と教団との関係がどこまで被害拡大に影響したのか、検証はされていない。
解散命令請求に向けた調査は始まったばかりで「宗教二世」救済も手付かずだ。信者間の養子縁組を教団があっせんした疑惑も浮上する。救済法案の成立は問題解決に向けた一歩にすぎない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます