写真は、ニュースステーションより写メる。
何回も言ってるように、早く天皇の命によりA級戦犯を分祀?????して、堂々と天皇に靖国参拝してもらいたい。明確なる昭和天皇の意思を知っても参拝するのは、一国のリーダーたるものがとるべき態度ではない。
それまで、一国の宰相たるものは公式に参拝すべきではない。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/koushitsu/news/20070426k0000e040054000c.html
毎日新聞より・・・
晩年の昭和天皇に仕えた卜部亮吾(うらべりょうご)元侍従(故人)の日記に、自らが亡くなる直前の01年に昭和天皇の靖国神社参拝取りやめについて、「A級戦犯合祀(ごうし)が御意に召さず」と記していたことが分かった。日記には、昨年7月に判明した故富田朝彦・元宮内庁長官の昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示したことを示すメモの日付と同じ日に、昭和天皇から卜部侍従に靖国神社の戦犯合祀に関する話があったことを示す記述もあった。昭和天皇のA級戦犯合祀への気持ちが改めて浮き彫りになった。
日記は卜部さんが侍従になった69年から亡くなる直前までの32年間、市販の日記帳33冊に書かれていた。靖国神社に関しては88年4月28日の日付で、「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁(はいえつ)のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」とあり、「靖国」以降は赤線が引かれている。
この日付は、昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀に関して、「私は 或(あ)る時に、A級が合祀され その上 松岡、白鳥までもが(中略)それが私の心だ」などとつづった富田元長官のメモと同じ日だ。富田元長官と前後して卜部さんが戦犯合祀についての気持ちを聞いたことになる。
この時は、昭和天皇のこの問題への気持ちについての記述はないが、01年7月31日の日記には、「靖国神社の御参拝をお取り止(や)めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」と記し、天皇が合祀に不快感を持っていたことをつづっている。
日記は、昭和天皇の闘病についても詳しく記されている。昭和天皇が腸の手術を受けるため沖縄訪問を取りやめた際の87年9月14日には「ついに来るべきものがきたということだが、暗雲たれこめうつうつとして楽しまず 今後の諸問題のことが頭をよぎる」と不安をつづっている。
また、2・26事件から41年たった77年2月26日に「御就寝前 治安は何もないかとのお尋ね」など戦中の記憶が消えない様子がうかがえる。石油危機では専用車の使用をためらったり、財政難を気にして小旅行を取りやめるなど、国民感情に気配りする姿も記されている。
卜部さんは京大卒業後に人事院に入り、宮内庁に移って69年から約20年間昭和天皇の侍従を務めた。91年4月から皇太后宮職御用掛として香淳皇后に仕え、00年の香淳皇后死去に伴う大喪儀では、祭官長を務めた。02年3月に78歳で死去した。
日記は、卜部さんが亡くなる約1カ月前に朝日新聞の記者に託し、遺志に基づいて朝日新聞が公開した。【桐野耕一】
国会開会式から帰路につく昭和天皇、後列左から富田朝彦宮内庁長官、卜部亮吾侍従、右端は入江相政侍従長=82年2月、国会 (岐阜新聞)