マイナ保険証の利用促進のため、政府は、薬局や病院への支援金に加え、薬剤師ら1万人を「デジタル推進委員」として大量動員した。推進委員はボランティアで患者に利用を勧めたり、機器の使い方の相談に応じたりする。
薬剤師まで普及に駆り立てる政府のやり方に、ある薬剤師は「私たちはマイナ保険証のセールスマンではない」と複雑な胸中を明かした。(戎野文菜)
取材に応じてくれたのは、関西の大手薬局チェーンで薬剤師として働く40代の女性。東京新聞に「職場で起こっているマイナ保険証に関するトラブルをお伝えします」とメールで情報を寄せていた。
◆声かけのマニュアル、本部に毎日実績報告
「今日からマイナンバーカードを利用するように呼びかけてください」
5月のゴールデンウィーク前、女性が働く薬局で、上司がスタッフ全員にこう告げた。「本部からの指示」とのことだった。
政府は、5月からマイナ保険証の利用者の増加数に応じ、薬局や病院に支援金を出す利用促進キャンペーンを強化していた。
女性の勤める薬局では、マイナ保険証を勧める声かけのマニュアルを渡され、マイナ保険証の利用者数を毎日、本部に報告することになった。
女性によると、マニュアルには、マイナンバーカードを持っていない人には、現行の健康保険証がなくなるのでカードの取得を急ぐように促す内容が書かれていたという。
12月で現行の健康保険証の新規発行はなくなるが、マイナ保険証を持っていない人は代わりに「資格確認書」が交付され、薬をもらえる。にもかかわらず、上司からは資格確認書への説明が一切なかった。
政府のマイナ保険証の普及策 厚生労働省は217億円を計上。利用者が増えた病院や薬局に見返りとして支援金を出す。支援金は当初、5~7月を対象に上限20万円だったが、6月に入って上限額を倍増した。窓口での声かけやチラシの配布などが支給の条件。厚労省は声かけを推奨しようと「台本」まで用意した。現行の保険証は、12月で新規発行がなくなっても最長1年間、有効期限までは使える。期限が切れてもマイナ保険証を持たない人には代わりに資格確認書が交付される。
◆「任意なのに…」訴えると上司から叱責
「資格確認書が発行されるので急ぐ必要はないし、任意のマイナンバーカードを薬局が押し付けるのは間違っている」
女性に意見すると、上司から「そんなこと言ったって、ゆくゆくはスマホにも搭載される。デジタル化に乗り遅れることは会社にとって大きな損失になる」と叱責された。
「国のやり方が一番正しいんだから、乗っかることが正解よ」。疑問も持たずに会社の指示をただ受け入れる同僚もいた。
職場では「保険の制度に興味がなく、資格確認書の存在すら知らない薬剤師もいる」のが現状だという。
ところが、いざ窓口で声かけを始めると業務が回らなくなった。
◆声かけが始まると窓口が大混乱
マイナ保険証の使い方が分からず「どうしたらいい?」と患者から尋ねられ、職員が説明に時間を取られるようになったからだ。他の患者への対応が遅れ、待ちきれずに帰ってしまう人もいた。
3週間が過ぎた頃から、声かけする職員は次第に減っていった。
「なるべく患者を待たせずに薬を渡して、早く家で休んでほしい」。病気でつらそうな患者を見ると、女性はそんな気持ちになる。
「手が震えてしまう高齢者にタッチパネルの操作をお願いするのは気が引ける」
「痛みが強くて前かがみになっている人に、顔認証のために顔を上げてとか、暗証番号を入力してとは言えない」
「車いすでカード読み取り機に届かない人に操作は頼めない」
「痛みが強くて前かがみになっている人に、顔認証のために顔を上げてとか、暗証番号を入力してとは言えない」
「車いすでカード読み取り機に届かない人に操作は頼めない」
◆高齢者や車いすの人にも勧めていいのか
こうしたマイナ保険証を勧めづらい人を女性はたくさん見てきた。女性は、患者の気持ちを考えると「マイナンバーカードをお持ちですか」とは言いづらいという。
政府のマイナ保険証の利用促進キャンペーンが始まっても、利用率は5月時点で7%台にとどまる。政府は6月になって、薬局や病院への支援金の上限額を40万円に倍増。デジタル推進委員の薬剤師を1万人まで増やして、さらに売り込みを強めようとしている。
薬局では、窓口での声かけを巡って「マイナ保険証がないと薬がもらいない」との誤解を生み、トラブルになるケースも。患者からは「ごり押しだ」「マイナ保険証を作れと強制されているよう」との反発も出ている。
◆「むしろ弱い人を切り捨てているよう」
政府は「誰一人取り残されない、人に優しいデジタル社会」を掲げる。
しかし、薬局で働いている女性の目からすると、マイナ保険証を巡る政府の対応は、むしろ弱い人を切り捨てているように映る。
薬剤師まで政府の普及策に駆り出されることに、女性は心を痛める。
「マイナ保険証のことで薬剤師の頭がいっぱいになったら、対応の質は保てない。強引な普及策のせいで、迷惑がかかるのは患者さんたち。私はデジタル推進委員にはなりたくない。利用促進よりも、患者さんの健康を考えることにもっと時間を割きたい」
女性は、政府の普及策への疑問をぬぐえぬまま、今日も窓口で患者と向き合っている。
デジタル推進委員 デジタル庁からの任命を受け、デジタルに不慣れな人のサポートをするボランティア。携帯電話会社の職員を中心に4万5000人が任命されており、新たに薬剤師ら1万人が加わった。薬局では、マイナ保険証の利用を支援したり、カード読み取り機の利用方法を案内したりする。委員になるには、支援に役立つ知識をまとめた3時間の動画視聴が条件となる。
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