色々と書きたい記事もたまってるのだけど、微妙にストレスな一週間だったので八つ当たりしてみる。
先日友人からこう言われました。
友人:
「原発の汚染調査について、地上数メートルからの測定値ばかりで不十分だ」
「放射性物質は地表に集まるのだから、地上1メートルから測定しないと安心できない」
一見正しそうに見えるし、理屈も通って見える。
でも凄く危うい思考だと思う。
まず「何で1メートルからの測定ならOKなのか?」に根拠がありません。
「放射性物質は地表に集まるから」だというのなら、何で50cmとか地表面とかじゃないの?
「地表数メートルから計るよりも正確だ」という理屈も同じ。じゃあどうして、10cmや地面を削って測定するのではなく、1mなの?
(更に言うなら高い数値が検出されても、そもそも本当に危険なのか?現実に異変は起きていないのに?といった不明点もあるのですが、それは割愛)
誤解のないように強く書きますが、私は「汚染は軽微で何の影響もない」と言いたいわけではない。
本当に「1m」で測定しないといけないのかもしれない。
ただ、非常に気になるのが、この思考の背景にあるのが「今の測定結果で問題が判明しないのは、測定方法が悪いからだ」だと思われる点。
言うまでもなく、「問題がない」ことを証明するのは困難です。
「問題がある」ならできる。問題を見つければいいんだから。
でも「ない」ことを証明するには、「実際にあるという報告がないから、ない」としか言えない。
で、ここで落とし穴にハマってると思うのですよ。
「汚染を調査しないと安心できない!」
→「5mの位置の放射線量を測定しました。異常なし。だから問題は無い」
→「いいや1mで測定すべきだ!安心できない!」
→「1mでも測定しました。異常なし。だから問題は無い」
→「いいや50cmで測定すべきだ!安心できない!」
→「50cmでも測定しました。異常なし。だから問題は無い」
→「風向きや海抜も考慮すべきだ!安心できない!」
→「そんな複雑な要因までは考慮できな…」
→「やはり発表できないんだ!日本政府は結果を隠している!!」
こういう構造になるのがありありと予測できます。
「不安だ」「問題がある」という前提があるので、実際に「問題」が見つかるまでひたすら「不安」で探し続ける。
その内に「証明不能」か「何らかの問題」の類に必ずぶつかるので、「やはり問題があったのだ!」となる。
もしくはお馴染みの「○○は隠している」や「影響がないとは断言できないはずだ」と言い張る。
なんかもう、うんざりなわけですよ。
似たようなパターンは幾らでも思いつきます。
(例)
ある人が、最近わけもなく体がだるいので、何かの病気ではないかと心配になり、病院に行きました。
そこの医者からは、「何も異常なし。気のせいか疲れのせいだ」と診断されました。
だけど納得がいかない。不安なので、別の病院にも行ってみることに。
医者Bの診断:異常なし。病気ではない。→納得いかない!不安だ!
医者Cの診断:異常なし。病気ではない。→納得いかない!不安だ!
医者Dの診断:異常なし。病気ではない。→納得いかない!不安だ!
医者Eの診断:異常なし。病気ではない。→納得いかない!不安だ!
医者Fの診断:これは○○という病気だ。すぐに治療が必要だ。
そこでその人は、「ああやっと名医に出会えた」と満足して通院するようになりました。
…第三者の立場からすれば、すぐに不思議に思うはず。
他の大多数の医者の診断よりも、「病気だ」と診断した医者を信じる理由は何か?
もちろん、本当に名医だったとか、特殊な診療装置を持ってる病院だったとかで、真に病気だった可能性は当然あります。
ですが肝心な点として、「自分にとって望む結論」が出たというだけで信じるのは非常に危険です。
まさしく典型的な宗教のパターン。(注:宗教が悪い、と言いたいわけではない。実は根拠はないのに、筋が通っているように思うのは悪い)
なんなら人間関係の例でもいいです。
(例)
ある娘さんが、恋人さんと結婚するかどうか、このまま一緒に生活できるかと悩んでいました。
食べ物の好みはどうか?うん、大丈夫。でも問題が見つからないのは逆に不安だ。
服の好みは?うん、大丈夫。でも問題が見つからないのは逆に不安だ。
ご両親との相性は?うん、大丈夫。でも問題が見つからないのは逆に不安だ。
じゃあ健康は?たまにだるくて、休みの日は家にいたいことがある?私は遊びに行きたいのに?
…やっぱり問題はあったんだ!私達、上手くいかない!
みたいな。
アホくさいけれど、似たようなケースは本当に頻繁に出くわします。
仕事の成果物に本当に問題がないかとか、自分はダメ人間なんだとか、人生の意味だとか何だとか。
もううんざりだ。
しかも困ったことに、いざ「本当に問題がある」と分かった時に、そこで何故か安心しがちなんですよね。
例えばしばらく前に、新型インフルエンザが流行った時。(今でも「新型」と言うんだろうか…?)
あの時も実際に感染が表面化するまでは、海外とは交流を断てくらいの勢いで騒いだものですが、いざ流行し出したら逆にどうでもよいノリに移ったように思います。
今回の放射能騒ぎも、本当に危険な数値と結果が出たら、「それみたことか」と勝ち誇って満足しちゃう人たちが、結構いると思うんですよ。
本当はそこからが大事だし、異常を検出してる時点で「科学の敗北」的なことではないのに。
「問題がない方が不安で、表面化したほうが安心する」というのは恐らくホモサピエンスの本能なんだと思う。
ですので、理屈ではこうだ、と言っても納得はできないはず。私もそうですし。
でもトリックが分かってるのに、振りまわされるのも馬鹿馬鹿しい。
初めの放射能の話で言えば、「この基準での調査が行われれば納得する」という自分のラインを決めたら、そこで納得するしかない。
結果論として、その判断が正しいか間違っているかは、ここではあまり問題じゃない。後出しで条件を変えて不安がるのはおかしいという話。
多分この心理を前向きな方向に使うと、「大きな課題に取り組む時は、細かな小目標を立てよう(「敵」を明確化しよう)」とか、「内部で結束するには仮想敵を作るべし」とかにつながるんじゃないかな。
漠然とした不安があるのなら、どうせ後出しで不安を探し求めてしまうのだから、最初からはっきりと「敵」を想定して、それを克服することに全力を注げば、少しは軽減できるんじゃないかと思う。
まぁそれが出来たら苦労しないよというのが、私のこの一週間の感想だったりもするのですが。
【蛇足】
逆の発想はなかなかされない、というのは不思議。
「危険は絶対にない、とは言い切れないはずだ」と考えて不安がる人と比べ、
「安全は絶対にない、とは言い切れないはずだ」と楽観する人は少ないと思う。
不安がって問題を探し続ける人は多いけど、面白がって幸福を探し続ける人は少ない。
(理屈としては同じ構造なのだから、説得力も同程度にはあるはずなのに、後者の方が胡散臭く見える)
ホモサピエンスは面倒くさい…。
先日友人からこう言われました。
友人:
「原発の汚染調査について、地上数メートルからの測定値ばかりで不十分だ」
「放射性物質は地表に集まるのだから、地上1メートルから測定しないと安心できない」
一見正しそうに見えるし、理屈も通って見える。
でも凄く危うい思考だと思う。
まず「何で1メートルからの測定ならOKなのか?」に根拠がありません。
「放射性物質は地表に集まるから」だというのなら、何で50cmとか地表面とかじゃないの?
「地表数メートルから計るよりも正確だ」という理屈も同じ。じゃあどうして、10cmや地面を削って測定するのではなく、1mなの?
(更に言うなら高い数値が検出されても、そもそも本当に危険なのか?現実に異変は起きていないのに?といった不明点もあるのですが、それは割愛)
誤解のないように強く書きますが、私は「汚染は軽微で何の影響もない」と言いたいわけではない。
本当に「1m」で測定しないといけないのかもしれない。
ただ、非常に気になるのが、この思考の背景にあるのが「今の測定結果で問題が判明しないのは、測定方法が悪いからだ」だと思われる点。
言うまでもなく、「問題がない」ことを証明するのは困難です。
「問題がある」ならできる。問題を見つければいいんだから。
でも「ない」ことを証明するには、「実際にあるという報告がないから、ない」としか言えない。
で、ここで落とし穴にハマってると思うのですよ。
「汚染を調査しないと安心できない!」
→「5mの位置の放射線量を測定しました。異常なし。だから問題は無い」
→「いいや1mで測定すべきだ!安心できない!」
→「1mでも測定しました。異常なし。だから問題は無い」
→「いいや50cmで測定すべきだ!安心できない!」
→「50cmでも測定しました。異常なし。だから問題は無い」
→「風向きや海抜も考慮すべきだ!安心できない!」
→「そんな複雑な要因までは考慮できな…」
→「やはり発表できないんだ!日本政府は結果を隠している!!」
こういう構造になるのがありありと予測できます。
「不安だ」「問題がある」という前提があるので、実際に「問題」が見つかるまでひたすら「不安」で探し続ける。
その内に「証明不能」か「何らかの問題」の類に必ずぶつかるので、「やはり問題があったのだ!」となる。
もしくはお馴染みの「○○は隠している」や「影響がないとは断言できないはずだ」と言い張る。
なんかもう、うんざりなわけですよ。
似たようなパターンは幾らでも思いつきます。
(例)
ある人が、最近わけもなく体がだるいので、何かの病気ではないかと心配になり、病院に行きました。
そこの医者からは、「何も異常なし。気のせいか疲れのせいだ」と診断されました。
だけど納得がいかない。不安なので、別の病院にも行ってみることに。
医者Bの診断:異常なし。病気ではない。→納得いかない!不安だ!
医者Cの診断:異常なし。病気ではない。→納得いかない!不安だ!
医者Dの診断:異常なし。病気ではない。→納得いかない!不安だ!
医者Eの診断:異常なし。病気ではない。→納得いかない!不安だ!
医者Fの診断:これは○○という病気だ。すぐに治療が必要だ。
そこでその人は、「ああやっと名医に出会えた」と満足して通院するようになりました。
…第三者の立場からすれば、すぐに不思議に思うはず。
他の大多数の医者の診断よりも、「病気だ」と診断した医者を信じる理由は何か?
もちろん、本当に名医だったとか、特殊な診療装置を持ってる病院だったとかで、真に病気だった可能性は当然あります。
ですが肝心な点として、「自分にとって望む結論」が出たというだけで信じるのは非常に危険です。
まさしく典型的な宗教のパターン。(注:宗教が悪い、と言いたいわけではない。実は根拠はないのに、筋が通っているように思うのは悪い)
なんなら人間関係の例でもいいです。
(例)
ある娘さんが、恋人さんと結婚するかどうか、このまま一緒に生活できるかと悩んでいました。
食べ物の好みはどうか?うん、大丈夫。でも問題が見つからないのは逆に不安だ。
服の好みは?うん、大丈夫。でも問題が見つからないのは逆に不安だ。
ご両親との相性は?うん、大丈夫。でも問題が見つからないのは逆に不安だ。
じゃあ健康は?たまにだるくて、休みの日は家にいたいことがある?私は遊びに行きたいのに?
…やっぱり問題はあったんだ!私達、上手くいかない!
みたいな。
アホくさいけれど、似たようなケースは本当に頻繁に出くわします。
仕事の成果物に本当に問題がないかとか、自分はダメ人間なんだとか、人生の意味だとか何だとか。
もううんざりだ。
しかも困ったことに、いざ「本当に問題がある」と分かった時に、そこで何故か安心しがちなんですよね。
例えばしばらく前に、新型インフルエンザが流行った時。(今でも「新型」と言うんだろうか…?)
あの時も実際に感染が表面化するまでは、海外とは交流を断てくらいの勢いで騒いだものですが、いざ流行し出したら逆にどうでもよいノリに移ったように思います。
今回の放射能騒ぎも、本当に危険な数値と結果が出たら、「それみたことか」と勝ち誇って満足しちゃう人たちが、結構いると思うんですよ。
本当はそこからが大事だし、異常を検出してる時点で「科学の敗北」的なことではないのに。
「問題がない方が不安で、表面化したほうが安心する」というのは恐らくホモサピエンスの本能なんだと思う。
ですので、理屈ではこうだ、と言っても納得はできないはず。私もそうですし。
でもトリックが分かってるのに、振りまわされるのも馬鹿馬鹿しい。
初めの放射能の話で言えば、「この基準での調査が行われれば納得する」という自分のラインを決めたら、そこで納得するしかない。
結果論として、その判断が正しいか間違っているかは、ここではあまり問題じゃない。後出しで条件を変えて不安がるのはおかしいという話。
多分この心理を前向きな方向に使うと、「大きな課題に取り組む時は、細かな小目標を立てよう(「敵」を明確化しよう)」とか、「内部で結束するには仮想敵を作るべし」とかにつながるんじゃないかな。
漠然とした不安があるのなら、どうせ後出しで不安を探し求めてしまうのだから、最初からはっきりと「敵」を想定して、それを克服することに全力を注げば、少しは軽減できるんじゃないかと思う。
まぁそれが出来たら苦労しないよというのが、私のこの一週間の感想だったりもするのですが。
【蛇足】
逆の発想はなかなかされない、というのは不思議。
「危険は絶対にない、とは言い切れないはずだ」と考えて不安がる人と比べ、
「安全は絶対にない、とは言い切れないはずだ」と楽観する人は少ないと思う。
不安がって問題を探し続ける人は多いけど、面白がって幸福を探し続ける人は少ない。
(理屈としては同じ構造なのだから、説得力も同程度にはあるはずなのに、後者の方が胡散臭く見える)
ホモサピエンスは面倒くさい…。