フランク・パヴロフ著 藤本一勇訳『茶色の朝』(大月書店)という本を読みました。
これはB6版より少し小さなサイズの本で、本文は14ページしかありませんが、読後感は怖いものです。語り手の「俺」とその友人のシャルリーの2人について坦坦と話されますが、あらすじは次のようなものです。
シャルリーは飼い犬を安楽死させましたが、理由は茶色の犬ではなかったということでした。「俺」は白と黒のブチの猫を始末していて、やはり茶色でないという理由でした。なぜ「茶色」なのかというと、「茶色が都市生活にもっとも適していて、子どもも産みすぎず、えさもはるかに少なくてすむことがあらゆる選別テストによって証明されたらしい」からです。「俺」は「なに色だって猫にはかかわりがないのに、とは思うが、何とかして問題を解決しなきゃならんというなら、茶色以外の猫をとりのぞく制度にする法律だって仕方がない」と考えます。
それからしばらくしてシャルリーが毎朝読んでいた『街の日常』紙が廃刊になったことを「俺」は彼に教え、彼は腰を抜かします。廃刊の理由は、犬事件に関する法律を毎日たたかない日はなかったからです。「なんてこったい。競馬情報はどうすりゃいいんだ」「そりゃあ『茶色新報』を見るしかないだろう。それしかないのだから」というのが2人の会話です。
そのうちに、『街の日常』の系列の出版社が次々に裁判にかけられ、そこの書籍は全部、図書館や本屋の棚から強制撤去を命じられます。その後も茶色についての思想統制はどんどん進み、用心のために言葉や単語に茶色を付け加えるのが習慣となってしまい、そのうちに茶色に染まることにも違和感を感じなくなってしまいます。「俺」は言います。「少なくとも、まわりからよく思われていさえすれば、放っておいてもらえるし」
その後も幾つかのことがありますが省略します。そしてある日曜日に「俺」がシャルリーのアパートにトランプをしに行くと、彼のアパートのドアが茶色に身を包んだ自警団によって壊され、彼は逮捕されて連れ去られています。彼は今は茶色の犬を飼っていますが、前に、茶色ではない犬を飼っていて、それが犯罪とされたのです。「俺」は前に白黒の猫を飼っていたことは誰でも知っていますので冷や汗でシャツを濡らします。『茶色ラジオ』では500人が逮捕されたニュースを流し、シャルリーもその中の1人だろうと思われました。ラジオではアナウンサーが「時期はいつであれ、法律に合わない犬あるいは猫を飼った事実がある場合には違法となります」と言い、「国家反逆罪」とまで言います。アナウンサーは続けて「たとえ自分が法律に反する犬や猫を個人的に飼ったことがなかったとしても、家族のだれか、たとえば、親、きょうだい、いとこなどが、生涯でたった一度でも飼ったことがあれば、ひどく面倒なことになる」と言います。
この寓話は次のように終わります。
だれかがドアをたたいている。
こんな朝早くなんて初めてだ。
・・・・・
陽はまだ昇っていない。
外は茶色。
そんなに強くたたくのはやめてくれ。
いま行くから。
日本人にはちょっと分かりにくいのですが、茶色は前の大戦でヨーロッパを蹂躙したナチス党の色なのです。前大戦でナチスドイツに占領された経験があるフランスでは茶色はナチスを連想させます。そこにこの寓話の意味があります。この本が書かれた当時(1980年代末)のフランスでは極右政党・国民戦線が力を伸ばし、地方都市では市長の座を占めるようにもなっていて、1998年の統一地方選挙では躍進し、保守派の中にはこの極右と協力関係を結ぼうとする動きさえ出てきました。そのような情勢の中で、フランスとブルガリアの二重国籍を持つ著者が、危機感を持って印税を放棄して僅か1ユーロでこの作品を出版しました。そしてこの本はフランス社会に大きな影響を与え、極右を否定する運動が盛り上がり、大統領選挙の決選まで進んだ国民戦線の候補は敗退しました。著者のパヴロフはベストセラー作家になりました。
この作品は声を大きくして全体主義やファシズムを批判するのではなく、「俺」と友人の日常の不条理な変化とそれに押し流される様子を坦坦と綴っています。それだけに人々が極右的な思想にしだいに染め上げられていくことの恐ろしさを感じさせます。「寓話」と言うと少し理解されにくいかも知れませんが、この作品が今、多くの人達に読まれることを願っています。