私の父母は戦後すぐに滋賀県大津の「滋賀里」という所に移り住みました。当時大津の湖西地区には海軍航空隊があって、滋賀里にその官舎があり、そこに大阪豊中の母の実家から転居しました。そのあたりは当時「蟻の内」というちょっと変わった名前で呼ばれていた所でした。比叡山の麓に位置し、この辺りには昔の大津京があった地域で、古い文献では「荒の内」と呼ばれていたようです。庭に芋畑を作ろうとして掘り返すと、古い土器の破片が出てきたりして、いかにも古い土地だと言うことが分かりました。
両親はここに住み着いてしまい、父は私が就職してしばらくしてここで亡くなり、母はその後その家と土地を売り払って少し離れた住宅に移りましたから、「蟻の内」(「滋賀里」と改称されていましたが)とは縁がなくなりました。しかし私は結婚後も、子ども達が生まれて大きくなってからもたびたび帰省しましたから、私には思い出の多い懐かしい土地でした。比叡山にドライブした帰りに息子は、大津に行くのなら「滋賀里」に行ってみたいと言い出しました。息子にとっても思い出がある所だったらしいのですが、「蟻の内」という地名は記憶にないようでした。
車を北に向けて走らせると、息子はしきりに昔のことを思い出して楽しそうでしたが、やがて滋賀里に着きました。どの家も改装されたり新築されたりしていましたが、道筋は変わらず私たちの家のあった所に行きました。家があった所には今は2軒の家が建っていて、あの古い我が家も案外広かったのだと思いました。木造平屋建ての粗末な家でしたが、夏の夜などは庭に茣蓙を敷いて家族で涼んだものでした。あの頃は天の川が見事に天空を横切っていました。立ち上がって南東の方角を見ると、月の明るい夜には琵琶湖の湖面が美しく輝いていたものでした。初夏の麦畑にはヒバリが天高く囀り、夏には大きなゲンジボタルが飛び交うなど、家は粗末でも自然環境は今とは比べることができないほど豊かでした。
私達の家の前にはHさんという家族の家があって、両親はHさんのご夫婦と仲良くしていました。そのHさんのお宅はすっかり改築されていましたが、ありました。お年からしてもHさんご夫婦がまだ在世されているとは思えませんでしたが、挨拶だけはしておこうとインタホーンを押しました。応じて出てきたのは60代の婦人で、H家の長男のT君の奥さんでしたが、私が名乗ると「お母さんさんに似ておられるのですぐに分かりました」と言って、T君を呼び出してくれました。60余年ぶりに出会っても私にもT君の顔はすぐに分かり、互いに短い時間でしたが、楽しく昔話をしました。奥さんはSさんというのですが、私の母のことを話してくれ、その話から母の優しかった人柄が思い出されました。
思いがけない出会いを最後に、息子が願っていた「滋賀里」訪問を終えましたが、何とも懐かしさがいっぱいで、良い一日になったとしみじみ思いました。
次男は気さくな性格で、長男とは性格が少し違いますが、同じように私に良くしてくれます。今度のドライブでは、脚の悪い私のために車の乗り降りや延暦寺での階段、坂道などで絶えず手を貸して体を支えてくれましたが、私も遠慮なく「老父」の役割を楽しませてもらいました。いろいろと楽しく会話しましたので退屈することはまったくありませんでした。我が子ながら優しくて思い遣りのある良い気性だと思っています。もう46歳になりますから、管理職(教頭)の試験を受けてみないかと校長に最近勧められましたが断ったそうです。私も管理職では、教育委員会などとの関係で気に染まないこともしなければならないこともありますから、今のように楽しく子ども達と接する「ヒラ」の教師でいる方が息子には幸せなことだろうと思っています。
今日は楽しい充実した一日となり、息子に感謝しています。
「滋賀里」は妻の父親の里で、以前、何度か墓参りに行ったことがあります。
墓は少し高台にあったように記憶しています。
私は元琵琶湖ホテルの近くの二本松に長年住んでいます。この近辺は昔と変わったというものの、田舎で、静かで、時間が止まったようなところです。