私の昔からの友人であり、大変尊敬している黒岩秩子さん、現在も大活躍
しています。その彼女の息子さんの黒岩揺光さんの手記を紹介します。
私は大変感動しました。
少し長文になりますが、お時間のある方はお読みください。
人に助けを求めることは、その人に迷惑をかけることではなく、幸せを与える行為です
投稿日: 2016年12月14日 10時16分
過労、介護、育児、いじめ、災害、失業。様々な理由で自らの命を絶つ人をメディアが
取り上げる際、よく「見過ごされたSOSのサイン」という見出しの記事を見かける。
一方、どうやって見過ごされないSOSを出せばいいのか、書かれたものは少ない。
私は、中東ヨルダンで妻を亡くした。9月6日に長男の千汪(せお)が生まれ、その翌日、
大量出血で亡くなった。計り知れない精神的ダメージを被りながら、私は、3500グラム
の新たな生命の存続を託された。
当初、妻の母乳に頼るつもりだったため、粉ミルクの作り方すら知らなかった。
まず、生後5ヶ月の赤ちゃんがいるイギリス人の友人夫婦に電話をかけ、そこに泊めてもらい、
要らなくなった赤ちゃんグッズをもらい、粉ミルクの作り方などを教えてもらった。そして、
小さな子どもがいる日本人の友人に電話をし、「私のアパートに行って、赤ちゃんグッズがすべて
あるのか確認し、ないものをすべて買い揃えてもらえませんか?」とお願いをした。
そしたら、その友人が「わかった。ありがとう」と言ったのだ。私は一瞬、自分の耳を疑った。
なぜ、頼みごとをしている私が感謝されるのだろう。
次の日、日本から母と姉がやってきた。無論、千汪がいるため、私は空港へ迎えに行くことはできない。
別の日本の友人にお願いしたら、再び、「ありがとうございます!嬉しいです!」と言うのだ。
私は迷惑をかけているはずなのに、なぜ感謝されなければならないのだろう。その友人に聞くと、
「こういう時って、どう声をかけたらいいのかもわからないじゃないですか。
でも、何か役に立ちたい。だけどどうしたらいいのかわからない。
そんな時に具体的なお願いされたから、『ああ、今、黒岩さんはこういう支援が必要なんだ』
ってわかって、嬉しかったです」と言う。
「迷惑をかけるな」「他人様の時間を無駄にするな」そういう考えに縛られてきた社会で育った
私にとって人に助けを求めることが、喜びを与える行為になりうるということが、とても新鮮だった。
妻は国連職員で、妻の配偶者としてヨルダンにいた私は、新潟の実家へ戻ることにした。
しかし、妻の葬儀や引越しの準備や病院とのやり取りなどのため、1ヶ月以上、ヨルダンで千汪と過ご
さなければならなかった。新生児を抱えながら、様々な諸手続きを1人ですべてやることは、
精神的にも肉体的にも不可能だ。
私はフェースブックで呼びかけた。「私が日本へ発つまでの間、どなたか、ヨルダンに来て、
住み込みで育児支援をしていただけませんか?ベビーシッターを雇うより、私の友人に世話してもらったほうが、
妻も喜ぶと思います」。そしたら、数日以内に、10人もの友人から承諾を得た。
9月16-23日にアメリカから、23-27日にスイスから、27日ー10月2日にオランダから、
2日ー8日にタイから、8日-11日にフランスから、11日ー18日にアゼルバイジャンから、
18-23日にインドネシアから、それぞれリレー方式で友人が住み込み、育児と家事を手伝ってくれた。
そして、彼らは口を揃えてこういった。「ここに来れて幸せ」と。
最も印象的だったのは、友人の一人が言ったこと「ヨルダンでの葬儀に行くことも考えたけど、
葬儀でヨーコーと話す時間なんてないだろ。だったら、自分たちが一番必要とされている時に
ヨルダンに行こうと思った」。
ヨルダンにいる友人からも「何かできないか」とメッセージをたくさん頂き、私は「時間があれば、
レストランから料理をテイクアウトして家に持って来て、私と一緒に食べてください」とお願いした。
そしたら、毎晩のように、誰かが料理をもって来てくれた。そのうち、私とテニスをしてくれる友人や、
ボードゲームをしてくれる友人、要らなくなった家具を売りさばく友人などが現れ、支援の輪が広がっていった。
妻が亡くなって3ヶ月たつが、まだ一晩も、一つ屋根の下で千汪と2人だけで過ごしたことはない。
いまだに、一人で車を運転中に突然、涙が吹き出てきたりするが、ほとんどの時間、誰かが傍にいてくれる
おかげで、何とか持ち直すことができている。ヨルダンから日本へ飛ぶ時も、母と友人が付き添ってくれ、
千汪も私も、これまで一度も体調を崩していない。
「これだけ多くの人がヨルダンに来たのは、2人の人柄あってのことだよ」とたくさんの人から言われた。
確かにそれも一因なのかもしれないが、私は、もっと大事な要素が二つあると思う。
第一に、人間関係の濃密度や人柄とは全く別の次元で、人間の情は突き動かされることがある。
実際、駆けつけてくれた友人の中には、プライベートで数回お会いしただけの友人もいた。
「私も出産のとき、大変な想いをしたから、どうしても何かしたかった」と、生後10ヶ月の息子を
アゼルバイジャンに残し、ヨルダンに来てくれた友人は言った。
第二に、私が明確なSOSを発信したことだ。いくら私たちの人柄が良くても、私がどんな支援を必要と
しているのか伝えない限り、助けを得ることは難しい。だから、皆さんにお伝えしたい。困った時、
「私を助けてくれる友人などいない」と決め付けず、「こうしてほしい」という具体的なSOSを出し
続けてください。たった1度しかお会いしていない方が、あなたのメッセージに突き動かされ、
救世主となって現れる可能性は十分にある。もちろん、中には「そんなことくらい自分でやれよ」
と冷ややかな目を向ける人もいるかもしれないけど、100人に発信して1人でも助けの手を差し伸べて
くれるなら、それはあなたにとってだけでなく、相手にとっても、とても大きな財産になりうる。
多くの人がSOSを出せない中、なぜ私は出せたのか。
それは千汪がいてくれたということに尽きる。
彼を守るためには、どうすれば良いのかを第一に考え、そのためには、まず自分が健康でなくては
いけないと言い聞かせた。妻が命をかけて残してくれた最高のプレゼントのおかげで、
人生最大の危機を私は生き延びることができた。妻から学ばせてもらったことを、
一人でも多くの人に伝え続け、天国にいる妻を少しでも喜ばすことができたらと思う。
しています。その彼女の息子さんの黒岩揺光さんの手記を紹介します。
私は大変感動しました。
少し長文になりますが、お時間のある方はお読みください。
人に助けを求めることは、その人に迷惑をかけることではなく、幸せを与える行為です
投稿日: 2016年12月14日 10時16分
過労、介護、育児、いじめ、災害、失業。様々な理由で自らの命を絶つ人をメディアが
取り上げる際、よく「見過ごされたSOSのサイン」という見出しの記事を見かける。
一方、どうやって見過ごされないSOSを出せばいいのか、書かれたものは少ない。
私は、中東ヨルダンで妻を亡くした。9月6日に長男の千汪(せお)が生まれ、その翌日、
大量出血で亡くなった。計り知れない精神的ダメージを被りながら、私は、3500グラム
の新たな生命の存続を託された。
当初、妻の母乳に頼るつもりだったため、粉ミルクの作り方すら知らなかった。
まず、生後5ヶ月の赤ちゃんがいるイギリス人の友人夫婦に電話をかけ、そこに泊めてもらい、
要らなくなった赤ちゃんグッズをもらい、粉ミルクの作り方などを教えてもらった。そして、
小さな子どもがいる日本人の友人に電話をし、「私のアパートに行って、赤ちゃんグッズがすべて
あるのか確認し、ないものをすべて買い揃えてもらえませんか?」とお願いをした。
そしたら、その友人が「わかった。ありがとう」と言ったのだ。私は一瞬、自分の耳を疑った。
なぜ、頼みごとをしている私が感謝されるのだろう。
次の日、日本から母と姉がやってきた。無論、千汪がいるため、私は空港へ迎えに行くことはできない。
別の日本の友人にお願いしたら、再び、「ありがとうございます!嬉しいです!」と言うのだ。
私は迷惑をかけているはずなのに、なぜ感謝されなければならないのだろう。その友人に聞くと、
「こういう時って、どう声をかけたらいいのかもわからないじゃないですか。
でも、何か役に立ちたい。だけどどうしたらいいのかわからない。
そんな時に具体的なお願いされたから、『ああ、今、黒岩さんはこういう支援が必要なんだ』
ってわかって、嬉しかったです」と言う。
「迷惑をかけるな」「他人様の時間を無駄にするな」そういう考えに縛られてきた社会で育った
私にとって人に助けを求めることが、喜びを与える行為になりうるということが、とても新鮮だった。
妻は国連職員で、妻の配偶者としてヨルダンにいた私は、新潟の実家へ戻ることにした。
しかし、妻の葬儀や引越しの準備や病院とのやり取りなどのため、1ヶ月以上、ヨルダンで千汪と過ご
さなければならなかった。新生児を抱えながら、様々な諸手続きを1人ですべてやることは、
精神的にも肉体的にも不可能だ。
私はフェースブックで呼びかけた。「私が日本へ発つまでの間、どなたか、ヨルダンに来て、
住み込みで育児支援をしていただけませんか?ベビーシッターを雇うより、私の友人に世話してもらったほうが、
妻も喜ぶと思います」。そしたら、数日以内に、10人もの友人から承諾を得た。
9月16-23日にアメリカから、23-27日にスイスから、27日ー10月2日にオランダから、
2日ー8日にタイから、8日-11日にフランスから、11日ー18日にアゼルバイジャンから、
18-23日にインドネシアから、それぞれリレー方式で友人が住み込み、育児と家事を手伝ってくれた。
そして、彼らは口を揃えてこういった。「ここに来れて幸せ」と。
最も印象的だったのは、友人の一人が言ったこと「ヨルダンでの葬儀に行くことも考えたけど、
葬儀でヨーコーと話す時間なんてないだろ。だったら、自分たちが一番必要とされている時に
ヨルダンに行こうと思った」。
ヨルダンにいる友人からも「何かできないか」とメッセージをたくさん頂き、私は「時間があれば、
レストランから料理をテイクアウトして家に持って来て、私と一緒に食べてください」とお願いした。
そしたら、毎晩のように、誰かが料理をもって来てくれた。そのうち、私とテニスをしてくれる友人や、
ボードゲームをしてくれる友人、要らなくなった家具を売りさばく友人などが現れ、支援の輪が広がっていった。
妻が亡くなって3ヶ月たつが、まだ一晩も、一つ屋根の下で千汪と2人だけで過ごしたことはない。
いまだに、一人で車を運転中に突然、涙が吹き出てきたりするが、ほとんどの時間、誰かが傍にいてくれる
おかげで、何とか持ち直すことができている。ヨルダンから日本へ飛ぶ時も、母と友人が付き添ってくれ、
千汪も私も、これまで一度も体調を崩していない。
「これだけ多くの人がヨルダンに来たのは、2人の人柄あってのことだよ」とたくさんの人から言われた。
確かにそれも一因なのかもしれないが、私は、もっと大事な要素が二つあると思う。
第一に、人間関係の濃密度や人柄とは全く別の次元で、人間の情は突き動かされることがある。
実際、駆けつけてくれた友人の中には、プライベートで数回お会いしただけの友人もいた。
「私も出産のとき、大変な想いをしたから、どうしても何かしたかった」と、生後10ヶ月の息子を
アゼルバイジャンに残し、ヨルダンに来てくれた友人は言った。
第二に、私が明確なSOSを発信したことだ。いくら私たちの人柄が良くても、私がどんな支援を必要と
しているのか伝えない限り、助けを得ることは難しい。だから、皆さんにお伝えしたい。困った時、
「私を助けてくれる友人などいない」と決め付けず、「こうしてほしい」という具体的なSOSを出し
続けてください。たった1度しかお会いしていない方が、あなたのメッセージに突き動かされ、
救世主となって現れる可能性は十分にある。もちろん、中には「そんなことくらい自分でやれよ」
と冷ややかな目を向ける人もいるかもしれないけど、100人に発信して1人でも助けの手を差し伸べて
くれるなら、それはあなたにとってだけでなく、相手にとっても、とても大きな財産になりうる。
多くの人がSOSを出せない中、なぜ私は出せたのか。
それは千汪がいてくれたということに尽きる。
彼を守るためには、どうすれば良いのかを第一に考え、そのためには、まず自分が健康でなくては
いけないと言い聞かせた。妻が命をかけて残してくれた最高のプレゼントのおかげで、
人生最大の危機を私は生き延びることができた。妻から学ばせてもらったことを、
一人でも多くの人に伝え続け、天国にいる妻を少しでも喜ばすことができたらと思う。