赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (61)
ガスは谷底から湧いてくる
歩くこと20分あまり。「語らいの丘」のふもとへ2人が到着する。
このあたりから、ようやく、ヒメサユリの花街道らしさが幕をあける。
茎の上に無事に残った蕾の数が多くなる。
急な斜面が近づくにつれ、満開のヒメサユリの花が増えてくる。
こんもりとした丘を通過したあたりから、群生が見えてきた。
歩くにつれ、進むにつれて、ハクサンチドリやシラネアオイ、ムラサキヤシオツツジ、
ツマトリソウ、サラサドウダンツツジなどの花が混じってくる。
「お姉ちゃん。足元に薄紫色のオダマキが咲いているのを見つけました!。
蝶ちょのようで、とても可憐な花です」
「えっ?。オダマキが咲いている?。変だねぇ・・・・。
あっ、よく似ているけどこれは、ハクサントリカブトという猛毒の花だ。
お前。手で触れるんじゃないよ。
簡単に人を殺すほどの猛毒を持っているんだからね、この花は」
「えっ。猛毒の花なのですか・・・・うわ~、危機一髪でしたぁ。
よかったねぇ、たま。可愛さにつられて、思わず頬ずりなんかしなくてさ」
『ふん。俺さまはそんなチンケな花に、まったく興味はない。
そんなことより、周りをよく見てみろよ清子。
ここから見渡すかぎり、全方位がすべて、飯豊山の絶景じゃねぇか!」
ふと目を上げた清子が、自分の目に飛び込んで来た景色に、思わず息を呑む。
斜面の先。足元から一気に落ち込んでいく深い谷がある。
さらにその先。谷を越えた向こう側に、たくさんの雪渓を抱いた青い山肌が、
ドンと壁のように空に向かってそびえていく。
巨大な山容は、北に向かって、どこまでも果てしなく連なっていく。
『ホントです。飯豊連山が一望できます。たまが言う通りの、絶景が見えます・・・』
清子の頬を、谷底からのつめたい風がすり抜けていく。
「そうだよ清子。
ここは飯豊連峰の全部の景色を、独り占めできる場所さ。
斜面には見渡す限り、薄いピンク色のヒメサユリの花が群生している。
黄色いニッコウキスゲの花も、負けじと咲きほこっている。
これが清子に見せたかった、飯豊山の素晴らしさだ。
すごいだろう、ここは。
ここにこうして腰を下ろして見つめていると、時間が経つのを忘れるよ」
「ホントです。だから、ここについた名前が、語らいの丘ですか。
ドンピタリのネーミングだと思います。納得です」
「清子。向こう側の山肌に、登山道が見えるだろう。
リュックを背負った登山者が、アリのように歩いているのが見える。
ここは山登りのための登山道だけではなく、散策するための小道が整備されている。
みんな山小屋や避難小屋に連泊しながら、あんなふうに、思い思いに足を伸ばしていく。
それがこの山、飯豊山の楽しみ方なのさ」
2人の頭上は相変わらず、雲ひとつなく晴れ渡っている。
しかし谷から吹き上げてくる風に、いつしか肌寒さがこもって来た。
風の洗礼を受けてたまがまた、顔を洗いはじめた。
『たまがまた、顔を洗い始めました。
こんなに良いお天気だよ。
雨が降る気配なんて、これっぽっちも感じないし、見えないよ。
それなのに、何がそんなに心配なのさ、お前は』
しきりに顔を洗っているたまを、清子が不思議そうに覗き込む。
「谷底から少しガスが湧いてきたねぇ・・・・」
恭子が、切り立った谷を指さす。
谷底から湧きだしたガスが、煙突から出る煙のように、ゆるく立ち上ってきた。
山肌に点在する雪渓をゆるゆると漂いながら、覆い隠しはじめる。
時刻は正午すこし前。雨雲が出て来たわけではない。
語らいの丘周辺の谷は、とりわけ切り立った崖が多い。
切り立った深い谷は、冷たい空気のかたまりを夜間の内にたくわえる。
充満した冷たい空気が、夏の太陽に温められて、谷底で水蒸気にかわる。
そのためここは昔から、ガスが湧き出しやすい場所とされている。
ただし。午後から稜線などで発生するガスとは異なる。
そのうち晴れてくるだろうと恭子も、悠然と斜面に腰を下ろしたまま、
谷間を漂うガスの流れを見つめている。
谷底から上昇を続けるガスが、すこしづつ風に乗りはじめた。
2人のいる語らいの丘の高みまで、ガスが登ってきた。
あっというまに2人を取り囲んだガスが、さらに上空へ向かって立ち上っていく。
時間とともにガスが、濃密な状態へ変わっていく。
「お姉ちゃん。ミルクを流したような、ガスになってきました。
油断していたら周りがぜんぶ真っ白で、何も見えなくなってしまいました」
「動くんじゃないよ、清子。
斜面の先には、急激に落ち込んでいる断崖があるからね。
足を滑らせたら、一巻の終わりだ。
一時的なガスだと思うから、動かず、このままじっと待ってやり過ごそう。
下手に動くとかえって危険なことになる。
あたしはここに居るよ。ほら、手を伸ばして、清子」
恭子の手が、濃密なガスの向こうから清子の手元へ伸びてくる。
清子があわててその手を握りかえす。
その清子の胸元で、たまがしきりに顔を洗っている。
猛烈な勢いを保ったまま、頭や耳の後ろなどを、たまが洗い続けている。
(62)へつづく
落合順平 作品館はこちら
ガスは谷底から湧いてくる
歩くこと20分あまり。「語らいの丘」のふもとへ2人が到着する。
このあたりから、ようやく、ヒメサユリの花街道らしさが幕をあける。
茎の上に無事に残った蕾の数が多くなる。
急な斜面が近づくにつれ、満開のヒメサユリの花が増えてくる。
こんもりとした丘を通過したあたりから、群生が見えてきた。
歩くにつれ、進むにつれて、ハクサンチドリやシラネアオイ、ムラサキヤシオツツジ、
ツマトリソウ、サラサドウダンツツジなどの花が混じってくる。
「お姉ちゃん。足元に薄紫色のオダマキが咲いているのを見つけました!。
蝶ちょのようで、とても可憐な花です」
「えっ?。オダマキが咲いている?。変だねぇ・・・・。
あっ、よく似ているけどこれは、ハクサントリカブトという猛毒の花だ。
お前。手で触れるんじゃないよ。
簡単に人を殺すほどの猛毒を持っているんだからね、この花は」
「えっ。猛毒の花なのですか・・・・うわ~、危機一髪でしたぁ。
よかったねぇ、たま。可愛さにつられて、思わず頬ずりなんかしなくてさ」
『ふん。俺さまはそんなチンケな花に、まったく興味はない。
そんなことより、周りをよく見てみろよ清子。
ここから見渡すかぎり、全方位がすべて、飯豊山の絶景じゃねぇか!」
ふと目を上げた清子が、自分の目に飛び込んで来た景色に、思わず息を呑む。
斜面の先。足元から一気に落ち込んでいく深い谷がある。
さらにその先。谷を越えた向こう側に、たくさんの雪渓を抱いた青い山肌が、
ドンと壁のように空に向かってそびえていく。
巨大な山容は、北に向かって、どこまでも果てしなく連なっていく。
『ホントです。飯豊連山が一望できます。たまが言う通りの、絶景が見えます・・・』
清子の頬を、谷底からのつめたい風がすり抜けていく。
「そうだよ清子。
ここは飯豊連峰の全部の景色を、独り占めできる場所さ。
斜面には見渡す限り、薄いピンク色のヒメサユリの花が群生している。
黄色いニッコウキスゲの花も、負けじと咲きほこっている。
これが清子に見せたかった、飯豊山の素晴らしさだ。
すごいだろう、ここは。
ここにこうして腰を下ろして見つめていると、時間が経つのを忘れるよ」
「ホントです。だから、ここについた名前が、語らいの丘ですか。
ドンピタリのネーミングだと思います。納得です」
「清子。向こう側の山肌に、登山道が見えるだろう。
リュックを背負った登山者が、アリのように歩いているのが見える。
ここは山登りのための登山道だけではなく、散策するための小道が整備されている。
みんな山小屋や避難小屋に連泊しながら、あんなふうに、思い思いに足を伸ばしていく。
それがこの山、飯豊山の楽しみ方なのさ」
2人の頭上は相変わらず、雲ひとつなく晴れ渡っている。
しかし谷から吹き上げてくる風に、いつしか肌寒さがこもって来た。
風の洗礼を受けてたまがまた、顔を洗いはじめた。
『たまがまた、顔を洗い始めました。
こんなに良いお天気だよ。
雨が降る気配なんて、これっぽっちも感じないし、見えないよ。
それなのに、何がそんなに心配なのさ、お前は』
しきりに顔を洗っているたまを、清子が不思議そうに覗き込む。
「谷底から少しガスが湧いてきたねぇ・・・・」
恭子が、切り立った谷を指さす。
谷底から湧きだしたガスが、煙突から出る煙のように、ゆるく立ち上ってきた。
山肌に点在する雪渓をゆるゆると漂いながら、覆い隠しはじめる。
時刻は正午すこし前。雨雲が出て来たわけではない。
語らいの丘周辺の谷は、とりわけ切り立った崖が多い。
切り立った深い谷は、冷たい空気のかたまりを夜間の内にたくわえる。
充満した冷たい空気が、夏の太陽に温められて、谷底で水蒸気にかわる。
そのためここは昔から、ガスが湧き出しやすい場所とされている。
ただし。午後から稜線などで発生するガスとは異なる。
そのうち晴れてくるだろうと恭子も、悠然と斜面に腰を下ろしたまま、
谷間を漂うガスの流れを見つめている。
谷底から上昇を続けるガスが、すこしづつ風に乗りはじめた。
2人のいる語らいの丘の高みまで、ガスが登ってきた。
あっというまに2人を取り囲んだガスが、さらに上空へ向かって立ち上っていく。
時間とともにガスが、濃密な状態へ変わっていく。
「お姉ちゃん。ミルクを流したような、ガスになってきました。
油断していたら周りがぜんぶ真っ白で、何も見えなくなってしまいました」
「動くんじゃないよ、清子。
斜面の先には、急激に落ち込んでいる断崖があるからね。
足を滑らせたら、一巻の終わりだ。
一時的なガスだと思うから、動かず、このままじっと待ってやり過ごそう。
下手に動くとかえって危険なことになる。
あたしはここに居るよ。ほら、手を伸ばして、清子」
恭子の手が、濃密なガスの向こうから清子の手元へ伸びてくる。
清子があわててその手を握りかえす。
その清子の胸元で、たまがしきりに顔を洗っている。
猛烈な勢いを保ったまま、頭や耳の後ろなどを、たまが洗い続けている。
(62)へつづく
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