落合順平 作品集

現代小説の部屋。

赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (64)

2017-03-28 17:44:10 | 現代小説
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (64)
 まるでミルクの水の底



 「お姉ちゃん。周りじゅうが真っ白です。
 宇宙空間に漂っているか、ミルクの水の底にいるような感じがします」


 自分の指先さえ見えなくなるほどの、濃密なガスの中。
清子が、自分に向ってつぶやく。
『ミルクの水の底か。とつぜん上手いことを言うね。清子も』
体を寄せた恭子が水滴が滑り落ちてくる帽子のひさしを、阿弥陀に持ち上げる。


 谷底から吹き上げてくる風が、きゅうに静かになって来た。
ヒメサユリの葉の揺れる音が消えた。
語らいの丘の斜面一帯に、物音ひとつ聞こえない静寂がやって来た。



 動きを止めたガスから、こまかいな水滴が舞い降りてくる。
まとわり続ける水滴は、寝袋の上に薄い水の膜を作る。
青いビニールシートから、時々、チロリと音を立てて水滴が滑り落ちてくる。

 「なんだか急に、ひっそりしてきました。
 物音が聞こえなくなりました。
 こういうのを、嵐の前の静けさと言うのでしょうか?」


 「不安かい、清子」


 「いいえ。お姉ちゃんと一緒にいれば平気です。
 昨夜、猛烈な雷に襲われたせいで、山の嵐に、すっかり慣れました」


 「慣れたか。それはよかった。
 でもね。残念ながら昨日とは、条件が決定的に違う。
 ここには嵐を遮ってくれる、壁も、屋根も無い。
 体を隠す場所さえない、急斜面の草の上だ。
 この霧が晴れてくれると移動できる。
 下の樹林帯まで移動できれば、なんとか助かるんだけどねぇ・・・・」

 
 「遭難したときに無駄に歩き回ると、さらに事態を悪くするそうです。
 夏山でも低体温症で遭難死してしまう例も、あると書いてあります。
 体温を奪う最大の要因が、『濡れ』と『風』だそうです。
 ずぶ濡れになり、強風にさらされると、体温が奪われて行動不能になる。
 その状態が悪化して、やがて遭難に至るそうです。
 それが遭難死の典型な例だと、市さんのメモに書いてあります。
 霧でもけっこう、濡れるものですねぇ」


 「そういうば、たまは大丈夫かい?。
 猫は、体毛や皮膚が濡れることを極端に嫌う生き物だ。
 猫の祖先は、リビアヤマネコ(アフリカヤマネコ)。
 昼と夜の寒暖差が激しい砂漠の出身だ。
 ずぶ濡れのまま寒い夜を迎えると、水が蒸発するときの気化熱で、
 体温を奪われて、やがて命を落とすことになる。
 そのため猫は本能的に、水に濡れることを嫌うようになった。
 シャンプーしようとすると、狂わんばかりの勢いで抵抗するのは、
 そのためと言われている。
 猫が迷子になったら、乾いていて濡れていない場所を探すと、
 見つかると言われているのもそのためだ。
 ほら。これ以上たまを濡らさないよう、新しいタオルで包んでおあげ」


 たまが上を向いたまま、鼻をヒクヒクさせている。
目はうつろ。
突然すぎる展開に、たまはただただ気持ちが動転している。
パニックにどっぷりと浸かったままの状態だ。



 『大丈夫だ、たま。
 霧は、間もなく晴れると思います。
 もう少し辛抱すれば、私たちはきっと、下に向かって歩き出せます。
 でもね。危ないから視界が晴れないうちは、ここで我慢しましょう。
 おとなしく言う事を聞いて、お前もその時がくるまで辛抱強く待つんだよ』


 『清子は平気なのかよ・・・・
 ほぼ遭難しているという事態だというのにさぁ。
 おいら。全身がずぶ濡れだ。
 あっ。ほらぁ、また遠くから、雷の音が聞こえてきたぜ』


 『あたしだってさっきから不安だよ。
 心臓がバックンバックン踊っているもの。
 でもさ。こんな時だからこそ、自分を見失ってはいけないの。
 お姉ちゃんだって必死なんだ。
 なんとかしてこのピンチから、抜け出す方法を考えています。
 あたしたちが不安な顔を見せたら、お姉ちゃんがもっと辛くなる。
 顔を拭いてあげるからこっちを向いて、たま』


 『清子よ。助かるのかなぁ、俺たちは・・・・』


 『別に遭難が決定したわけではありません。
 霧に閉ざされて、たまたま身動きができなくなっているだけのことです。
 通りがかりのヒメサユリが咲いている高台で、水滴に濡れながら
 少し休んでいるだけのことです』


 『オイラの耳には、確実に、雷の音が近づいているのが聞こえるぜ。
 身体を隠せない急斜面だ。雷の直撃を受けたらやばいだろう
 と、嘆いてみせたところで、これだけの濃い霧に囲まれていたんじゃ、
 身動きなんかとれないか。
 こういうのを絶対絶命の大ピンチと言うんだろうなぁ。世間では』



 『たしかにそういう言い方もある、たま。
 でもさ。99%のピンチでも1%の運が残っていれば、事態が変わることもある。
 9回の裏2アウトでも、逆転のサヨナラホームランが出る場合もある。
 結果は下駄を履くまでは、誰にもわかりません』

 
 『いったい誰が、この土壇場で、起死回生の逆転ホームランを打つんだよ。
 俺か、お前か、それともそこにいる10代目か?』


 『さぁて、いったい誰でしょう。
 私かもしれないし、10代目の恭子お姉ちゃんかもしれません。
 もしかしたら、たま。
 お前さまかもしれませんよ、うっふっふ・・・』


(65)へつづく


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