落合順平 作品集

現代小説の部屋。

赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (62)

2017-03-25 18:31:21 | 現代小説
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (62)
もしかしたら遭難?



 それから15分が過ぎた。
2人の周囲にたちこめたガスは、一向に晴れない。
それどころか時間とともに、ますます濃密になっていく。


 冷たい風に乗り、次から次へ谷底から湧きあがってくるガスの流れは、
まるで無限に続くような勢いを持っている。


 「♪~涙果てなし、雪より白い・・・花より白い 君故かなし・・・・」


 「なんなの清子。とつぜん歌なんか歌い始めて?」


 「これです。
 市さんが、『もしもの時のアイテム集』というのを入れておいてくれました。
 取り出しやすいように、リュックの脇ポケットに入っておりました。
 久保浩という歌手が唄った、霧の中の少女という歌詞です」


 「市さんという人は、なんとも気の付くお方だね
 わたしたちが語らいの丘で、霧に囲まれることも想定済みということか。
 それにしてもお前、昭和の匂いのするずいぶんと古めかしいメロディを、
 よく知っているねぇ」



 「市さんのメモによれば、登山中、進退きわまることは珍しくないそうです。
 身を守るための持久戦も、そのひとつです。
 辛抱強く待つことは、登山において大切なことだそうです。
 ただしその場合は、おおいに時間を持て余すことになり、たいへん辛いそうです。
 ということで退屈しのぎになるようなアイテムが、ぎっしりと入っています」


 「本当だ。布施明の霧の摩周湖なんて楽譜まで入ってる。
 でもさ。全部、わたしたちが生まれる前の歌謡曲ばかりじゃないか。
 楽譜を見ただけで歌えるなんて、お前、すごい才能をもっているんだねぇ」


 「三味線や長唄は、昔から伝わる独特の符牒で書かれています。
 でも分かりにくいということで、最近は、西洋風の楽譜に書き直されています。
 音の高低や長さは音符を見れば、だいたいわかります」


 「霧の中の少女に、霧の摩周湖。
 大川栄策の霧にむせぶ夜、なんていう楽譜まで入っている。
 霧に関する楽譜ばかりが入っているということは、市さんは私たちが
 この状態になることを、やっぱり、最初から想定していたんだ・・・」



 「梅雨入り前の今の時期は、とくに霧が発生しやすいそうです。
 ヒメサユリの群生地は、霧が出やすい場所です。
 霧の水分が群生地の花を育てていると、市さんが言っていました。
 この景色を見ているとまさに市さんの言葉が、そのまま、実感できます」


 「なるほどねぇ。
 喜多方で育った市さんは、飯豊山のことをよく知り尽くしています。
 それにしてもこの事態は、楽観できないようだ。
 ますます霧が濃くなってきた。
 どうにも視界が悪すぎる。動くことはあきらめましょう。
 少し不安だけど、このままじっと待機して、霧が晴れていくのを待ちましょう」


 「他にも何か入っているのかい?」
恭子が、清子のリュックサックの中を興味深そうに覗き込む。
そのとき。かすかな物音を聞きつけて恭子が、ふと不安そうな顔をあげる。
かすかに鳴る雷鳴の音を、遠くに聞いたような気がする。
何も見えない白いガスの彼方に向かって、もういちど、最大限の注意で
耳を澄ましていく。


 「どうかしたのお姉ちゃん。突然、耳なんかすまして?」


 「しっ。清子。
 いま、かすかにだけど、遠くに雷鳴が聞こえたような気がしたんだ。
 空耳かしら。まだ、お昼にもならない時間だというのに・・・・」


 「山のお天気が崩れるのは、午後からというのが相場なのですか?」


 「たいていは、午後から崩れる。 
 でも山のお天気というものは、変わりやすいのが一般的だ。
 よく晴れていても風の影響を受けて、とつぜん、変わってしまうこともある。
 あ・・・やっぱり間違いじゃないな。
 やっぱり遠くで、雷が鳴り始めている。
 空耳じゃなかったようようだ。
 さあて、困りましたねぇ。
 濃密なこの霧に続いて、さらにもうひとつのピンチが山の彼方から、
 まもなくここへやってきそうです」


 「え・・・・ということは、お姉ちゃん。
 私たちは今、ここで遭難寸前になっているという意味ですか?」


 「安心しな。まだ遭難したわけじゃない。
 正しく言えば、この場所から、身動きがとれないだけの状態だ。
 霧さえ晴れてくれれば、安全に移動できるだろう。
 雷も進路が外れれば、無事に済むことだろう」


 「霧が晴れなければ、このままわたしたちは、ずっと移動はできない。
 雷も、わたしたちを直撃する可能性が有る。
 そんな風に聞こえました。
 ということは絶対絶命の大ピンチですねぇ。ホント、困りましたねぇ・・・」


 「ピンチだけど、困難が来ると決まったわけではない。
 それよりも、なんだか少し肌寒くなってきた。
 体を冷やすと大変だ。お前、着るものは充分に持っているかい。
 大丈夫かい?、身体を冷やしたら大変なことになるよ」


 「それなら市さんのメモの中に、良いアイデァが書いてあります。
 身体が冷えてきたときや、雨に降られそうになったら、寝袋に入れと書いてあります。
 頭からビニールシートをかぶり、2人で身体を寄せ合えと書いてあります。
 無駄な体力の消耗を抑えて、救助を待つのが一番だそうです。
 なんだかまるで、これって、遭難時の心構えのようですねぇ・・・」


 「なんとも、恐るべき洞察力だ。市さんの見通し通りの展開になりそうです。
 万が一ということもある。
 市さんの指示通り、寝袋とビニールシートを取り出して雨と雷の襲撃に備えよう。
 この霧はたぶん、簡単に晴れそうもない。
 雷も、確実に近づいてくるようだ。
 清子。想定以上の大ピンチが、やってくるかもしれないね。
 私たちのすぐそばへ、まもなく・・・・」


(63)へつづく

 落合順平 作品館はこちら