からっ風と、繭の郷の子守唄(93)
「実は、心身ともに疲れきっていた貞園を襲う、過呼吸症の嵐」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/21/9c805386b0d34bb4022292adcea554c0.jpg)
その後の事態は、世間の噂が事実であったことを証明しました。
貞園と会話を交わしたそのわずか数日後に、光太郎の再婚話が正式に決定をしました。
その衝撃は、呑竜マーケットの狭い路地道を『やっぱり!』という感想を伴ないながら、
あっというまに、凄まじい勢いで駆け抜けていきます。
空調設備会社の社長で貞園のパパでもある、林光太郎氏は、
躍進中の家電量販店一族の身内で、長いあいだバツイチ独身を貫いてきた同級生の
女性との再婚を、正式に発表しました。
お互いに離婚経験者同士の再婚ということもあり、式や披露宴は限られた範囲の人を招待し、
質素に執り行うというおまけ話まで、噂の尾ひれとしてついてきました。
空調設備会社を設立する前の光太郎氏は、大手家電メーカの一介の社員です。
当時、群馬県東部の特産品のひとつで、滋味と滋養と美味を誇っていた『大和芋(やまといも)』の
冷蔵保存のために、画期的なアイデアを実施したことが、今日の転身のきっかけを作りました。
大和芋の収穫期は、12月からはじまり冬季の2月末までとされています。
従って次の収穫期がやってくる12月までは、芋の鮮度と味を落とさずに、
安全に保存し続けるという事が、これのみで暮らす大和芋農家にとっての生命線になります。
4トンから5トンを超える大和芋を、一年間も保存するための大型冷蔵庫は、
当時はきわめて高価で、とても一介の農家が手を出せるという代物ではありません。
そこに目をつけたのが、当時、冷凍機部門に籍を置いていた光太郎氏です。
光太郎氏が産みだしたアイデアは、エアコンを取り付けたプレハブ部屋を設置して、
24時間にわたって連続運転をすることで、3°での低温保存を可能にしました。
このアイデアは大和芋農家からの大絶賛を受け、またたくまに、この一帯での普及を遂げます。
こうして事業の基礎を築いた光太郎氏は、ここから、大手家電メーカーの下請け業者たちを
統括するための『下請け協力会』組織の、会長役にまで登りつめていきます。
温和な雰囲気にもかかわらず、光太郎氏は従来からの『やり手』です。
常にトップクラスという受注能力を支えているものは、金と労力を惜しまない
日頃からの、まめなほどの接待攻勢とその手腕のおかげです。
『英雄色を好む』『女遊びは男の甲斐性』を地で行く光太郎氏に、常に女の噂は尽きません。
貞園と長年の愛人関係にありながらも、第2夫人や第3夫人の噂があとを絶ちません。
一筋縄ではいかない光太郎氏との愛人関係が続く中、いつしか貞園自身もがんじがらめとなり、
身動きもままにならないうちに、不自由きわまる立場に置かれるように変わっています。
「康平くん」
入口から千尋が、店を覗きこんでいます。
「貞ちゃんに呼ばれてこれから、スナック『由多加』へ行ってきます。帰りに寄るわね」と、
小声で囁いてから、そのまま戸口でバイバイの手を振っています。
「おう。気をつけて行っておいで。
と言ってもここから5~6軒の先の店だ。大騒ぎをするとここまで筒抜けだぜ」
「それがねぇ。少し元気がないのよ貞ちゃんが。電話の声でも。
不思議な胸さわぎも感じるし、わざわざ『由多加』で飲むというのもやっぱり変でしょう」
「元気がない?」ふと康平が胸騒ぎを感じます。
「なるべく早めに戻ってきますから」と笑顔を見せ、千尋が路地の奥へ消えていきます。
戸口へ立ち、千尋の背中を見送っている康平の胸にも何故か嫌な予感が走ります。
(いつも快活に、鷹揚に振舞っているから周りは明るい人だと誤解をしているが
貞園はもともと、ガラスのように壊れやすい心を持つ、とても繊細な女の子だ。
自分の本音と本当の姿を、表面に出せずに我慢していることが、
いつだって貞園の泣き所だ。今夜あたり、何か起こらなきゃいいが・・・・)
不安を感じたまま、康平が入口を閉めてカウンター内へ戻ります。
しかしこの時の康平の不安な予感は、ものの見事に的中をしてしまいます。
それから30分も経たないうちに、呑竜マーケットの路地道で一瞬にしての大騒動が始まります。
激しい足音とともに最初に姿を見せたのは、あわてふためいている千尋でした。
「康平くん。貞ちゃんが大変!助けて。早く来て、お願い!」
青ざめた顔が、事態の深刻さをあからさまに物語っています。
「助ける?。どう言う意味だ」自問する暇もなく、咄嗟に康平が前掛けを外しています。
「真っ青になって、突然、倒れちゃったの。
呼吸も荒いし、意識も朦朧としていて、はっきりとしないの。
ママが急いで救急車を呼んだけど、お願い。康平くんも急いで応援に来て!」
急かされるまでもなく、康平が脱兎のごとく飛び出していきます。
開け放たれているスナック『由多加』のドアからは、救急車の到着の気配をひたすら待つ
常連客たちの、緊迫しきった顔が並んでいます。
『由多加』の店内では、陽子ママに抱かれながら荒い呼吸だけを繰り返している、
青い顔のままの貞園の姿が見えます。
由多加のママの手には紙袋が用意されています。
有効な手段のひとつとされている、ペーパーバッグ法の準備中です。
「たぶん、突発性の過呼吸だと思う。
紙袋を使って呼吸を繰り返させるという、従来の処置方法は間違っていると、
このあいだのテレビで反論があったけど、他に有効と思える手立てが見当たらないもの、
とりあえず紙袋で対応中よ」
「・・・・過呼吸か。大丈夫か、貞園!」
「激しい過呼吸と、無呼吸を交互にくり返しているために、
意識がモウロウとしているようだけど、たぶん大丈夫だと思う。
念のために救急車を呼んでおいたから、早めに病院で見てもらったほうがいいわね。
過呼吸発作は常習化をすると、あとで厄介だから。
安心をしな。過呼吸は、若い女性には特に多いとされている発作だ。
後遺症や死ぬ心配まではないけれど、心の病と一緒で、
なかなか完治しないこともあるそうだ」
長年にわたり数々の修羅場をくぐり抜けてきた経験を持つ、陽子ママは
さすがにこの場においても冷静です。
紙袋を千尋に手渡すと、すぐさま立ち尽くしている康平へ指示を出してきます。
「救急車は、狭すぎるからここの路地までは入って来れないよ。
隊員がここまで駆けつけてくる前に、途中までこちらから運んだほうが早くなる。
どうだいみんな。救急車のサイレンは聞こえてきたかい?」
「聞こえてきた。たぶん、あれはアーケード通りの北方向の入口だ」
「北の入口だね。じゃあ早速、貞ちゃんを運んでおくれ、康平。
この期におよんで、なにを赤くなって躊躇っているんだよ、あんたという人は。
別にラブシーンを始めるわけでもあるまいし、ただ病人を運ぶだけの話だろう。
だいいち此処に集まっているのは年寄りばっかりで、口は達者だが、いざという時には
なんの役に立たない、ポンコツばっかりの役立たずばかりだ。
恥ずかしがらずにお姫様抱っこでも、背中へ背負うのでもどっちでもいいから、
さっさと貞ちゃんを運ぶんだよ。
ほら、千尋ちゃんも、ボヤボヤしないで、二人を手伝って!」
テキパキとした陽子ママの指示のもと、紙袋を持った千尋が傍らへ寄り添い、
貞園を背負った康平が、サイレンの音が鳴り響いている弁天通りのアーケード北の出口へ
向かって、小走りで駆け出していきます。
「康平。
お前のお店は、あとであたしが閉めておくから、介抱を頼んだよ。
あのドスケベの光太郎へ連絡をしたところで、根っからの遊び人のアイツのことだ。
何処で何をしているもんだかわかったもんじゃない。こんな時こそお前さんだけが頼りだ。
たまには男らしいところも、ドンと見せてやれ。
わかったね。康平。頑張るんだよ、頼んだよ!」
アーケード通りにその姿が消えるまで、路地道の真ん中で仁王立ちしたままの陽子ママが、
救急車のサイレンより遥かに大きな声で、康平にいつまでも
応援のエールなどを送り続けています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/cf/05f5828bc2ae15b42de4d22bd08ece94.jpg)
・「新田さらだ館」は、
日本の食と、農業の安心と安全な未来を語るホームページです。
多くの情報とともに、歴史ある郷土の文化と多彩な創作活動も発信します。
詳しくはこちら
「実は、心身ともに疲れきっていた貞園を襲う、過呼吸症の嵐」
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その後の事態は、世間の噂が事実であったことを証明しました。
貞園と会話を交わしたそのわずか数日後に、光太郎の再婚話が正式に決定をしました。
その衝撃は、呑竜マーケットの狭い路地道を『やっぱり!』という感想を伴ないながら、
あっというまに、凄まじい勢いで駆け抜けていきます。
空調設備会社の社長で貞園のパパでもある、林光太郎氏は、
躍進中の家電量販店一族の身内で、長いあいだバツイチ独身を貫いてきた同級生の
女性との再婚を、正式に発表しました。
お互いに離婚経験者同士の再婚ということもあり、式や披露宴は限られた範囲の人を招待し、
質素に執り行うというおまけ話まで、噂の尾ひれとしてついてきました。
空調設備会社を設立する前の光太郎氏は、大手家電メーカの一介の社員です。
当時、群馬県東部の特産品のひとつで、滋味と滋養と美味を誇っていた『大和芋(やまといも)』の
冷蔵保存のために、画期的なアイデアを実施したことが、今日の転身のきっかけを作りました。
大和芋の収穫期は、12月からはじまり冬季の2月末までとされています。
従って次の収穫期がやってくる12月までは、芋の鮮度と味を落とさずに、
安全に保存し続けるという事が、これのみで暮らす大和芋農家にとっての生命線になります。
4トンから5トンを超える大和芋を、一年間も保存するための大型冷蔵庫は、
当時はきわめて高価で、とても一介の農家が手を出せるという代物ではありません。
そこに目をつけたのが、当時、冷凍機部門に籍を置いていた光太郎氏です。
光太郎氏が産みだしたアイデアは、エアコンを取り付けたプレハブ部屋を設置して、
24時間にわたって連続運転をすることで、3°での低温保存を可能にしました。
このアイデアは大和芋農家からの大絶賛を受け、またたくまに、この一帯での普及を遂げます。
こうして事業の基礎を築いた光太郎氏は、ここから、大手家電メーカーの下請け業者たちを
統括するための『下請け協力会』組織の、会長役にまで登りつめていきます。
温和な雰囲気にもかかわらず、光太郎氏は従来からの『やり手』です。
常にトップクラスという受注能力を支えているものは、金と労力を惜しまない
日頃からの、まめなほどの接待攻勢とその手腕のおかげです。
『英雄色を好む』『女遊びは男の甲斐性』を地で行く光太郎氏に、常に女の噂は尽きません。
貞園と長年の愛人関係にありながらも、第2夫人や第3夫人の噂があとを絶ちません。
一筋縄ではいかない光太郎氏との愛人関係が続く中、いつしか貞園自身もがんじがらめとなり、
身動きもままにならないうちに、不自由きわまる立場に置かれるように変わっています。
「康平くん」
入口から千尋が、店を覗きこんでいます。
「貞ちゃんに呼ばれてこれから、スナック『由多加』へ行ってきます。帰りに寄るわね」と、
小声で囁いてから、そのまま戸口でバイバイの手を振っています。
「おう。気をつけて行っておいで。
と言ってもここから5~6軒の先の店だ。大騒ぎをするとここまで筒抜けだぜ」
「それがねぇ。少し元気がないのよ貞ちゃんが。電話の声でも。
不思議な胸さわぎも感じるし、わざわざ『由多加』で飲むというのもやっぱり変でしょう」
「元気がない?」ふと康平が胸騒ぎを感じます。
「なるべく早めに戻ってきますから」と笑顔を見せ、千尋が路地の奥へ消えていきます。
戸口へ立ち、千尋の背中を見送っている康平の胸にも何故か嫌な予感が走ります。
(いつも快活に、鷹揚に振舞っているから周りは明るい人だと誤解をしているが
貞園はもともと、ガラスのように壊れやすい心を持つ、とても繊細な女の子だ。
自分の本音と本当の姿を、表面に出せずに我慢していることが、
いつだって貞園の泣き所だ。今夜あたり、何か起こらなきゃいいが・・・・)
不安を感じたまま、康平が入口を閉めてカウンター内へ戻ります。
しかしこの時の康平の不安な予感は、ものの見事に的中をしてしまいます。
それから30分も経たないうちに、呑竜マーケットの路地道で一瞬にしての大騒動が始まります。
激しい足音とともに最初に姿を見せたのは、あわてふためいている千尋でした。
「康平くん。貞ちゃんが大変!助けて。早く来て、お願い!」
青ざめた顔が、事態の深刻さをあからさまに物語っています。
「助ける?。どう言う意味だ」自問する暇もなく、咄嗟に康平が前掛けを外しています。
「真っ青になって、突然、倒れちゃったの。
呼吸も荒いし、意識も朦朧としていて、はっきりとしないの。
ママが急いで救急車を呼んだけど、お願い。康平くんも急いで応援に来て!」
急かされるまでもなく、康平が脱兎のごとく飛び出していきます。
開け放たれているスナック『由多加』のドアからは、救急車の到着の気配をひたすら待つ
常連客たちの、緊迫しきった顔が並んでいます。
『由多加』の店内では、陽子ママに抱かれながら荒い呼吸だけを繰り返している、
青い顔のままの貞園の姿が見えます。
由多加のママの手には紙袋が用意されています。
有効な手段のひとつとされている、ペーパーバッグ法の準備中です。
「たぶん、突発性の過呼吸だと思う。
紙袋を使って呼吸を繰り返させるという、従来の処置方法は間違っていると、
このあいだのテレビで反論があったけど、他に有効と思える手立てが見当たらないもの、
とりあえず紙袋で対応中よ」
「・・・・過呼吸か。大丈夫か、貞園!」
「激しい過呼吸と、無呼吸を交互にくり返しているために、
意識がモウロウとしているようだけど、たぶん大丈夫だと思う。
念のために救急車を呼んでおいたから、早めに病院で見てもらったほうがいいわね。
過呼吸発作は常習化をすると、あとで厄介だから。
安心をしな。過呼吸は、若い女性には特に多いとされている発作だ。
後遺症や死ぬ心配まではないけれど、心の病と一緒で、
なかなか完治しないこともあるそうだ」
長年にわたり数々の修羅場をくぐり抜けてきた経験を持つ、陽子ママは
さすがにこの場においても冷静です。
紙袋を千尋に手渡すと、すぐさま立ち尽くしている康平へ指示を出してきます。
「救急車は、狭すぎるからここの路地までは入って来れないよ。
隊員がここまで駆けつけてくる前に、途中までこちらから運んだほうが早くなる。
どうだいみんな。救急車のサイレンは聞こえてきたかい?」
「聞こえてきた。たぶん、あれはアーケード通りの北方向の入口だ」
「北の入口だね。じゃあ早速、貞ちゃんを運んでおくれ、康平。
この期におよんで、なにを赤くなって躊躇っているんだよ、あんたという人は。
別にラブシーンを始めるわけでもあるまいし、ただ病人を運ぶだけの話だろう。
だいいち此処に集まっているのは年寄りばっかりで、口は達者だが、いざという時には
なんの役に立たない、ポンコツばっかりの役立たずばかりだ。
恥ずかしがらずにお姫様抱っこでも、背中へ背負うのでもどっちでもいいから、
さっさと貞ちゃんを運ぶんだよ。
ほら、千尋ちゃんも、ボヤボヤしないで、二人を手伝って!」
テキパキとした陽子ママの指示のもと、紙袋を持った千尋が傍らへ寄り添い、
貞園を背負った康平が、サイレンの音が鳴り響いている弁天通りのアーケード北の出口へ
向かって、小走りで駆け出していきます。
「康平。
お前のお店は、あとであたしが閉めておくから、介抱を頼んだよ。
あのドスケベの光太郎へ連絡をしたところで、根っからの遊び人のアイツのことだ。
何処で何をしているもんだかわかったもんじゃない。こんな時こそお前さんだけが頼りだ。
たまには男らしいところも、ドンと見せてやれ。
わかったね。康平。頑張るんだよ、頼んだよ!」
アーケード通りにその姿が消えるまで、路地道の真ん中で仁王立ちしたままの陽子ママが、
救急車のサイレンより遥かに大きな声で、康平にいつまでも
応援のエールなどを送り続けています。
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