落合順平 作品集

現代小説の部屋。

オヤジ達の白球(24)千両役者

2017-08-13 18:32:13 | 現代小説
オヤジ達の白球(24)千両役者



 「詳しいねぇ。もと文学少女は。
 江戸庶民の暮らしぶりが目に浮かぶようだぜ。実に博学だ」


 「食品の値段も書いてあった。お豆腐は1丁12文で、390円。
 お味噌は量によってさまざま。12文から~100文くらいまで差が有る。
 いまよりもずいぶん高い。390円から~3250円もするんだから。
 お蕎麦は1杯、16文で520円。
 お酒はお銚子1本、12文。390円。
 そんな中、鰻丼は、1杯が100文で、なんと3250円。
 お寿司はひとつ60文。1950円もするから、庶民には手が届かなかった。
 銭湯の入浴料は5~12文。160~390円。
 床屋・髪結床は30文ぐらいで、1000円程度だった」


 「江戸時代。たしか歌舞伎役者の中に、千両役者なんて呼ばれたやつらがいたなぁ。
 ということは、そいつらはべらぼうに稼いでいたことになるのか?」


 
 「江戸時代。歌舞伎を中心とする娯楽は盛んだった。良い席は大変に高価だ。
 銀25~35匁というから、5万4000円~7万5000円。
 庶民が座る「切り落とし」という狭い土間の席でも、1人あたり132文。4290円。
 それでも千両役者と呼ばれる人気役者のお芝居は、いつも賑わった。
 「千両役者」と呼ばれるスターたちは、文字通り年俸1000両を得ていた役者のことで、
 現在のお金に換算すると1億3000万円くらいになる。
 「1億円プレーヤー」と言われている、今の一流プロスポーツ選手と同じだね。
 高収入の人たちが江戸時代にもいたことになる」

 「ということは当時の1両は、13万円前後。
 内済金の金額七両二分は、100万円の示談金ということになる。
 なるほどねぇ。男と女の火遊びの精算は、今も昔もけっこう高くつくんだな」


 「『剣客商売シリーズ』に、さまざまな江戸市民たちが登場する。
 老中・田沼意次の絶頂期、武士たちが官僚化していく。
 そんな中。あえて剣の世界を生きていく親子のこだわりを描いた作品、それが『剣客商売シリーズ』さ。
 池上の三大作品のひとつとして、たかい評価を受けている」


 「おう。それなら見た見た!。
 藤田まことが演じた3代目『剣客商売』の秋山小兵衛は面白かったし、渋かった。
 片田舎に住みながら、おはるという40歳も年下の女に手をつける。
 この若い娘がのちに小兵衛の妻になる。なんともけっこうな果報者だ。
 必殺シリーズとはまた一味違う役柄だったなぁ、あのときの藤田まことの演技は。
 ひょうひょうとした演技に、妙に迫力と説得力があった・・・」


 「あら。話が噛み合ってきたわねぇ。
 あんたは、ギャング映画か、スポーツ番組しか見ないと思い込んでいたけど」


 うふふとカウンターで、陽子が笑う。



 「失礼だな。お前さんと違って俺は本はあまり読まない。
 しかし。たまには本格的な時代劇も、出てくる俳優しだいでしっかりと見る」


 恐れ入ったかと祐介が、鼻を鳴らす。
せっかくだから一杯飲むかと祐介が、ビール瓶とグラスを片手に厨房から出てくる。
「悪くないね」陽子が、もういちど笑顔を返す。
じゃ乾杯しょうと祐介が、ドカリと陽子の隣に腰をおろす。


 「あら。何の乾杯?。
 いまのところ、お祝いされることなんか、全く思い当たらないけどなぁ・・・・」

 「お前さんの、そのそそっかしさに乾杯しょう。
 ガラクタだらけの路地道でドジを踏み、痛めちまったおまえさんの足に乾杯だ。
 大丈夫か?。痛むようなら、帰り道は俺が背負ってやるぜ」


 「湿布が効いてきたから、なんとか歩けると思う。
 駄目ならそのときは言葉に甘えて、あんたの背中を借りる。
 そのかわり、はっきり言うけど見返りはないよ。
 身体で払えと言われたって、もう、とっくに賞味期限は切れてる。
 昔はけっこう濡れたけど、今はまったく濡れないよ。
 いまはオシッコするだけの道具だ。
 あら・・・色気がないなぁ。
 こんな夜更けに、初恋の男と二人きりだというのに・・・・」


 「そんな風におまえさんは、燃え上がった火をサラリと消すのが上手だ。
 おお昔から・・・・」


 一杯いけと、祐介がビール瓶を持ち上げる。
「それよりさ。さっきの剣客商売シリーズの続きを教えろ。
なんだか面白そうだ。ひよっとしたら酒の肴になるかもしれん。興味が出てきた」
カチリとビールグラスを鳴らし、祐介が、陽子の顔をのぞきこむ。


(25)へつづく

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オヤジ達の白球(23)もと文学少女

2017-08-10 18:44:17 | 現代小説
オヤジ達の白球(23)もと文学少女



 湿布薬を貼り終えた祐介が、「さっきの話だが」と
陽子の顔を見上げる。


 「さっきの話?。ああ、男と出て行ったあの主婦のことかい。
 旦那は普通のサラリーマン。子どもはいない。
 旦那さんは真面目な人だけど、どういう仕事なのか、とにかく出張がおおい。
 ながいときは、2週間も留守になる」

 それが不倫に走った原因なのかなぁ、と陽子が声をひそめる。


 「そういえば最近、奥さんの生活パタンも、変って来たような気がする。
 着飾って外出する機会がおおくなったし、夜の遅い時間でも、
 人目を忍ぶような雰囲気で、こそこそ出かけることがある。
 変だとは思っていたんだ。
 だけど今夜、そこでばったりと出くわして、すべての事態を了解した」

 やっぱり不倫していたんだあの人妻は、と陽子が言葉を締めくくる。


 「堅物で通っている柊が、おまえの知っている主婦と不倫しているのか?。
 俺はそんな風には思えないが・・・」


 「何言ってんのさ。よく言うよ。
 論より証拠、あんたもその眼でしっかりみただろう。
 2人がここでこっそり会って、最後は仲良く身体を寄せて、出ていくところを。
 堅物だろうがエッチはするさ。
 女から誘惑されればほとんどの男は落ちる。
 ましてあの主婦は若いし、誰が見てもあの美貌だ。
 ほとんどの男が、コロコロ落ちるさ」

 「主婦の方から誘惑したのか?。
 柊の奴。俺の方から電話して、呼びだしたと言っていたぜ」


 「そうだろうね。忘れられないんだろうさ、女房以外の女の味が。
 不倫は現代の文化だなんて開き直っていた、どこかの芸能人が居たもの。
 なにが現代の文化だ。
 これが江戸時代なら死罪にあたる、不義密通の大罪だ」



 「よく言うぜ。
 そういうお前さんだって長年にわたり、総長の愛人として生きてきたくせに。
 そんな人間がさらりと言うようなことでは無いと思うけどな」


 「それはそれ。これはこれ!。うっふふ・・・・
 姦淫が重罪だった江戸時代でも、地位と金のある男たちには抜け道があったのさ。
 封建時代でも重婚は禁止だ。妻は1人だけ。
 でもね。金の力で、側室や妾を置くことは許されていた。
 そのくせ男女の道を外れた庶民の性交に関しては、厳しい姦通罪が適用されていたんだ。
 モラルとしては江戸時代の方が、はるかに上だったと私は思う」


 「詳しいな。そういえばお前、昔は文学少女だったよなぁ。
 作家になると思っていたら、いつの間にかのまったく別世界の愛人暮らしだ。
 わかんねぇもんだな。人生なんて、どんな風になるのか」


 「2言目には愛人、愛人て。私の前で大きな声で、はっきり言わないで頂戴。
 ひっぱたくよ、本気で。
 江戸時代の姦通罪は、被害者が訴え出ない限り表沙汰にならないの。
 また訴え出ても、動かない証拠を掴まないかぎり、奉行所が2人の姦通の事実を見極めるのは、
 とても難しい。
 感情のもつれでいちいち奉行所に訴えられたら、きりがないもの。
 だから奉行所は、当事者同士や、双方の家主や地主などの土地の顔役が
 話し合う『内済』を命じるの」


 「内済?。示談交渉みたいなものか?」



 「そう。第三者を入れて冷静に話し合うの。
 『内済』の結果、金を支払って解決することが多かった。
 この金のことを「首代」と言うの。江戸の相場は、七両二分。
 経済状態に応じて値段が変動するけど、これが金で片づける相場だった」

 

 「示談のための金額が七両二分?。今の値段に換算するといくらだ?」


 「一概に言えないねぇ。時代によって差が有るもの。
 「文政年間漫録」という文献に、大工さんの収入と生活費が事細かに記録されている。
 日当は銀5匁4分。今のお金にして、1万2000円。
 年間の労働日数が294日で、年収は、銀1貫587匁6分。今風に言えば343万円
 四畳半2間の住まいは、家賃が年間で銀120匁。26万円で、1月当たり2万1000円。
 家族3人(夫婦と子ども1人)のお米代も同じぐらいだ。年間で銀120匁。
 調味料代や光熱費にあたる「調味・薪炭代」の割合が結構高い。
 年間でおよそ700匁(151万円)もかかった。
 年収の半分近くをこうした雑費が占めている。
 だから、庶民が贅沢品や娯楽などに使えたお金は、決して多くはなかったと思う」


(24)へつづく


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オヤジ達の白球(22)深夜のネズミ

2017-08-08 18:23:21 | 現代小説
オヤジ達の白球(22)深夜のネズミ



 女の肩を抱き寄せた柊が、闇の中へ消えていく。

 「ふん。なんでぇ。見せつけやがってあの野郎。どういうつもりだ一体全体。
めずらしく顔を見せたと思ったら、密会の場を堂々と俺に見せつけるなんて・・・
どういう神経をしているんだ、あいつは。
不倫のせいで家庭が崩壊したって知るもんか。好きにしやがれ!」


 毒づいている祐介に耳へ、ガタンと路地から物音が響いてきた。


 (なんだ、いまのは?。変な物音がしたな。
 いまの時間になると、まったく人が通らないはずの横の路地からだ。
 ネズミにしては、大きすぎる音だ・・・・)

 怪しい気配を感じ取った祐介が、思わず手元の包丁を握りしめる。
さらにもういちど、ガタンと大きな音がした。
誰かが何かにつまづいたようだ。
横の路地も、店の裏側も、足元などまったく見えない真っ暗闇だ。
それでも誰かが確実にうごめいている。



 物音が、店の裏口へ向かってそろそろと移動していく。
(泥棒か?。最近、怪しい輩(やから)が徘徊してるというからな。油断できねぇぞ)
祐介が手にした包丁を、ぐっと握り直す。


 裏口を探しているのだろうか。手探りの気配がつづく。
のろのろと移動していく物音が、とぎれとぎれにここまで聞こえてくる。
やがて、まったく使われていない勝手口のガラス戸が、2度3度、遠慮がちにノックされる。


 「あたしだよ、祐介。
 慌てて路地に駆け込んだものだから、足をくじいたようだ。
 開けておくれ。あたしだよ。陽子だよ」
  

 「陽子?。ホントに陽子か・・・いったい何してんだお前。
 こんな時間に、そんな真っ暗な場所で、いったいぜんたい何をやってんだぁ?」

 「何もしてないさ。いつも通りの散歩だよ」


 「散歩?。正気かお前。
 真っ暗闇の露地と、足元の悪い裏道を歩くのが、お前さんの散歩なのか?」


 「バカ言わないの。そんなはずないだろう。
 たったいま、お前さんの店から、肩を組んだ男と女が出てきただろう。
 男の顔は知らないけど、女は、近所に住んでいる顔見知りの主婦だ」

 「何。柊の連れの女を知っているのか、お前は!」


 「びっくりしたよ。
 慌てて身を隠そうとしたけど、逃げる場所なんかどこにもないじゃないの。
 有るのは、あんたのところの路地だけだ。
 なんであんな狭い場所に、あんなにたくさん、ガラクタばかり置いておくんだよ。
 運動神経が良いから、辛うじて踏みとどまった。
 だけどさ、運が悪けりゃいまごろは、もっとおおきくこけて救急病院行きだ。
 とにかく、ここを開けておくれ。
 喉がカラカラだ。足も痛いし。とにかく冷たい水を一杯飲みたいな・・・」

 「しょうがねぇなぁ」祐介が裏口の鍵を開ける。
真っ赤なジョギングシューズを履いた陽子が、片足をかばうような態勢で、
もうだめだとばかり、座り込んでいる。


(座り込んでいるのか。大丈夫か?、お前・・・・)


 心配して覗き込む祐介に、
「鈍感。痛みに耐えてうずくまっている女に、大丈夫かはないだろう。ふん!。
デリカシーに欠けているんだから、まったくもう・・・・」
陽子の怒りに燃えた目が、下から見上げる。


 「悪かったな。手を貸してやる。どうだ、これなら立ち上げれるか?」

 「イタタ。無理無理。どうやら本格的に足をくじいたらしい」


 「運動神経の良い奴が、足をくじいたのか?。
 そいつはさらに気の毒だ。
 横の路地に、ガラクタを積み上げた俺のせいだな。
 ほら、抱き上げてやるから両手を広げて、俺の肩へぶらさがれ」

 「いいねぇ、ひさしぶりのお姫様抱っこだ。
 なんならこのままベッドへ直行してもいいよ、あんたとなら」


 「馬鹿言ってんじゃねぇ。そんなことより、痛めた足の治療が先だろう。
 出してみろ。俺がみてやる」


 陽子がジョギングシューズと、靴下を脱ぐ。
何かに強くぶつけたらしい。まくり上げた裾から赤い擦り傷が出てきた。
「ここはどうだ?」くるぶしのあたりを、祐介がそっと押す。
その瞬間。陽子がけたたましい悲鳴を上げる。


 「馬鹿やろう。
 なんて声をあげるんだ。隣近所が驚いて、目を覚ますだろう!」


 「目の前は一面の田圃だ。
 裏は河原だ。どこに驚く人が住んでいるのさ。
 半径50m以内に住んでいるものといえば、田圃のカエルと、渡良瀬川の鮎くらいだ。
 あ・・・あと、足をくじいた美人のネズミさんがここに居るか・・・」
 

(23)へつづく

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オヤジ達の白球(21)薄化粧の女

2017-08-07 17:10:15 | 現代小説
オヤジ達の白球(21)薄化粧の女



 それから10分が経過した。人がやって来た気配がする。
柊の約束の人だろう。
遠慮気味に、カラカラとガラス戸が開く。
30代半ばと思われる女性が、不安そうな顔で店の中を覗き込む。
 

 「よう。来たな。こっちだ。
 悪かったな。こんな汚い居酒屋なんかへ呼び出して。
 心配するな。遠慮することはねぇ。無理を言って閉店間際に入れてもらった。
 誰もいないから安心して入ってこい」

 女の顔を見た瞬間。総合土木職が声をかける。
ガラス戸に手をおいたまま、不安そうに視線を走らせていた女の顔に、
ようやく安堵の色が浮かぶ。


 「悪かったなぁ。急に俺のほうから呼びだしたりして。
 めずらしく早めに仕事が終わったんだ。こんな時にしか行きあえないからな。
 そうだ。店主を紹介しておこう。
 こいつは俺の昔からの友達で、祐介という。
 無愛想な顔をしているが、口は固い。信用できる男だ。
 祐介。もうすこし飲んだら河岸を変える。
 とりあえずこいつに、生ビールを一杯出してやってくれ」


 女がスカートをひるがえし、柊の隣りへチョコンと座る。
まったく初めて見る顔だ。



 (何者だ、この女は?。何処にでもいそうな主婦という感じがする。
 しかし。この時間に呼び出されて、出かけてくることができるということは、
 柊とただの関係じゃないんだろうな。おそらく・・・)


 祐介が女の前へ生ビールのグラスを置く。
グラスを置くまでのほんの短い時間。
さらに細心の観察眼で、なめるように女を観察していく。

 (濃い化粧をしているわけじゃねぇ。だがスッピンでもねぇな。薄化粧だ。
 ということは素顔を許せる相手という意味になる。
 それとも、化粧する暇がないほど慌てて、ここへ駆けつけてきたということか?
 柊の不倫の相手かな?。
 それにしちゃ清楚な感じが漂っているから、どこか違和感が有る・・・・)



 柊の妻も同じ公務員。隣町の高校で音楽を教えている。
休日の日、2人で仲良く散歩している姿を、たびたび祐介も目にしている。


 「娘が3人。ばあちゃんもいまだに元気だ。
 女ばっかり5人もいるんだぜ、我が家には。
 女があふれていて羨ましいと他人はいうが、家中にあふれる化粧の匂いには閉口だ。
 一人暮らしも寂しいだろうが、女ばかりあふれている家の中も逃げ場所がねぇ。
 苦労するなぁ、お互いに、この歳になってからよ」

 いつだったか朝の散歩で出くわしたとき。柊はそんな風に愚痴を言っていた。
「アマゾネスの巣だぜ。俺んちは」と手を振り、女房のあとを追っていったことがある。


 (柊は、俺が知っている限り、昔から真面目で固い男で通っていた。
 そんな男がいつのまにか、どこかの見知らぬ主婦と『不義密通』の関係か。
 ううん・・・まったくもって一寸先が分からないものだな。人生は・・・・)


 祐介が2人から目を離す。
カウンターに背を向ける。ぼつぼつと厨房の片付けを始める。
2人はぼそぼそと、会話をつづけている。
洗い物が一段落した頃。
柊が『また来るぜ』と女を促して立ち上がる。
5千円札を1枚カウンターへ置いて、女の腰へ手を回す。


 「釣りはいい。口止め料だ。
 少ないが、チップと思って取っておいてくれ。
 ソフトボールのチームがまとまることを祈っている。
 この体型だ。健康のために、俺も運動をやりたいと思っているが、
 仕事に追われて、帰ってくるのがいつもこんな時間になる。
 たまにはお前の顔を見に来ないと、道で行きあっても無視されるからなぁ。
 悪かったな。閉店間際に、すっかり邪魔しちまって・・・」


 立ち上がった柊が、馴れた様子で女の身体を引き寄せる。
女もまったく嫌がる様子を見せない。
それどころか。いつものようにとばかり、男の肩へ細い体を傾ける。


(22)へつづく

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オヤジ達の白球(20)総合木土職

2017-08-06 19:05:07 | 現代小説
オヤジ達の白球(20)総合木土職



 
 閉店間際、珍しい男が姿を見せた。
アイロンの効いたYシャツに、青いストライプのネクタイを締めている。
ただし上着は、背広ではない。見るからにアイロンの効いた土木の作業着を着ている。

「よう。すこしいいか?」

 祐介の返事も待たず、男は勝手に椅子を引きカウンターへ腰を下ろす。

 「待ち合わせの約束をした。
 そういうわけだ。邪険な顔をしないで、たまには飲ませてくれ」


 男は祐介の同級生。秀才のひとりで、県庁へ勤めている柊(ひいらぎ)洋一。
某国立大学をトップクラスの成績で卒業している。
卒業後。超難関と言われている地方上級公務員の試験を一発で突破した。

 地方上級公務員の試験は、3段階ある公務員試験のうち最上級にあたる超難関。
これに合格すると畏敬を込めて「キャリア」と呼ばれる。
別の言い方をすれば、エスカレ―タ式に将来、県庁のトップまで上り詰めていく人間、
あるいは人種ということになる。


 「お前。また物好きをはじめたんだって?。
 酔っぱらいどもを集めて、ど素人どものソフトボールチームを作るため、
 奔走しているという話を聞いたぜ?。」
 

 「監督をやってくれと頼まれた。
 なんだ。お前もソフトボールをやる気になったのか。やるのならいつでも大歓迎だ。
 肥満体型の改善のためにも、運動は必要だろう」

 「笑わせるな。一般の俗人どもと、俺さまを一緒にしないでくれ。
 官僚を夢見て、出世街道を突っ走った身だぜ。
 可笑しくていまさら、庶民どもと、ソフトボールなんか出来るもんか」


 「よく言うぜ。その恰好は、官僚を夢見た男のなれの果ての姿だろう。
 それとも今のキャリアは、そんな風に、Yシャツとネクタイの上に土木の作業着を着るのか?」

 
 「競争に負けると、本庁からの都落ちが待っている。
 いまじゃ出先機関で所長をしている。
 総合土木職という現場だ。
 ここがまた、年中休みなしという忙しすぎる場所だ。
 公務員といえばみんな暇を持て余し、遊んでいるように見られている。
 だがどっこい、現場はすこぶる忙しい。
 予定は毎日すし詰めだ。決められたスケジュールをこなすだけでクタクタだ。
 今日は運がいい。22時前に帰ってくることができたからな。
 いつもから見れば、ずいぶん早い帰宅だぜ」


 「そんなに忙しいのか、外部で仕事する総合木土職ってのは。
 公務員は、急がず、慌てず、仕事せずの3拍子が揃っているとばかり思っていた。
 お前さんのような例外もあるんだな。
 仕事に追われる公務員も居るのか。
 へぇぇ・・・初めて知ったぜ。衝撃の事実というやつを」


 「国道と県道を維持して、修繕するのが俺たちの仕事だ。
 植樹帯の管理や舗装の修繕、交差点の整備、橋梁の耐震補強工事なども担当する。
 ゲリラ豪雨の対策もやっているぞ。
 アンダーパス部(交差する鉄道や道路の下をくぐる部分)の冠水を、
 瞬時に察知するための「冠水感知システム」を設置している。
 整備の終わった交差点で渋滞が減ったり、歩行者が安全に歩いている姿を
 目にすると、けっこうなやりがいを感じる。
 捨てたもんじゃねぇなぁこの仕事もと、そんな風に感じている今日この頃さ」


 「落ち武者にしては、殊勝なこころがけだ」


 「聞き捨てならねぇな。誰が落ち武者だ!」



 「出世レースに敗れ、出先機関へ飛ばされれば、誰が見ても立派な落ち武者だろう。
 それともなにか?、まだ懲りずに、復活のための野心でも温めているのか?」

 
 「いや。いまのままで充分だ。
 と言うより俺も充分に疲れてきた。
 そろそろ早期退職をしてもいいな、なんて、ふと考え始めてきた」


 「早期退職する?。
 民間の企業じゃあるまいし、50歳になったばかりでやめちまうのか。県庁を。
 それじゃあまりにも勿体ねぇ話だろう」


 「そうでもない。定年まで居るよりはるかに条件がいい。
 お前。公務員の世界に、早期退職の制度があるなんて聞いたことがないだろう。
 もちろん。自分から辞めたのでは一文の得にもならない。
 50歳以上の職員が退職勧奨を受けた場合、残りの年数に20%を掛けて、
 割増の退職金を受け取ることができる。
 いますすめられている改正案では、退職勧奨の年齢を45歳まで引き下げる予定だ。
 見返りとして、40%の割増をおこなうという。
 だが問題がある。
 退職勧奨というハードルが有る。
 自分から勝手に応募することができないという、厳しい制約がついている。
 それが民間企業と大きく異なる点だ。
 勝手に辞めることができない。そいつが公僕という、公務員の身分の哀しさだ。
 早期退職制度をあてにして、好き勝手に辞めることができないようになっているんだ。
 通常の定年退職や、自己都合による退職には、割増の退職金制度は適用されない。
 だから45歳以上になった公務員は、自分がいつ退職勧奨の身になるのか、楽しみにしている。
 そんな連中が、本庁内にはけっこう大勢居るんだぜ」


(21)へつづく


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