前回は頭の中であーだこーだ考えてもいいことなんてないのだから
その、ノイズとすら言える「思考」をやめましょう。
そんなことを書きました。
「えーじゃあ何にも考えないでアホみたいにボーっとしてればいいの?」と
疑問がわいてくるでしょう。
やめるべきは、雑念です。
例えば、今日一日の仕事のスケジュールを頭の中で組み立て、効率よく
こなす準備をするのは雑念ではないです。
ただ、その際に「これは明日納期だから最優先だな」まではいいのですが
「そもそも、こんなギリッギリの仕事を営業が取ってきやがったせいで
こっちは死ぬ思いしてんのに、空気も読まねーあいつらがエラソーに
してんのがマジムカツクよな~」なんて考え始めたらそれは雑念。
そこからは営業の人への怒りがフツフツと燃え出し、納期を明日に控えた
目の前の仕事に取り組んでる最中も、頭の中は営業への怒りで一杯に
なっているかもしれません。
何度も何度もリフレインしてね。
忘年会の幹事を任されたら、日程決め、参加者集め、会場設定、予算設定
案内状作り、そういったやることのリストをすぐ作り、リストの上から淡々と
こなして消していけばいいのですが、「つーか、俺、幹事2回目なんですけどっ!」
「俺が2回目なのにまだ1回も幹事をやったことがない奴がいるって、
マジ意味わかんねーんスけど」とか考え始めるともう、ノイズが止まらない・・
納期を明日に控えた仕事に取り組む、忘年会の幹事の仕事をこなす、
そこに余計な思考のノイズが混じってしまっては、その作業の疲労度は
恐らく数倍にもなるでしょう。
こういった怒りのノイズはとても刺激的であるので、それが本人にとって
いかに邪魔で毒なものであっても、心が勝手に求めてしまうのです。
困りますね~
もうそれは、そういう流れが出来てしまっているのです。
日常に溢れる理不尽で不愉快なことを探しては
その不愉快な出来事を何度も反芻し、心にビリビリと
刺激を与え続けてしまう。
それが心にとっては心地よいからです。
不愉快でも刺激は刺激。
心は我々が不幸か否かは問題にせず、ただ刺激を求める。
まずはそう理解するのがファーストステップです。
でも日常で不愉快な、理不尽なことにその都度、反応を示すのが
人が人らしく生きる姿勢じゃないの!?
「あーーイラつくーー!!」とか
「くっっやしーーーーッ!」とか
「さびしいよーーー!」とか
「ーーぃよっっしゃーーーっ!」とか
そういう、情動の触れ幅があるからこそ「今、生きているっ!」と
実感出来るので、それを求めてしまうし、そういう情動の波が
無くなって人形みたいになったら、それは人としては「死」なんじゃないか。
少なくても院長はそう思いました。
でも同時に、自分の情動の触れ幅の大きさに手を焼いていたのも
事実だし、それにより疲れきって様々な問題を抱え、
困っていたというのも、このあいだ書きました。
そういう時にこういった仏道的取り組みを知り、時期的にも
タケコツが10月のあたまに遅めの夏休みを取り、奈良旅行へ行くのと
ちょうど重なりました。
その、ノイズとすら言える「思考」をやめましょう。
そんなことを書きました。
「えーじゃあ何にも考えないでアホみたいにボーっとしてればいいの?」と
疑問がわいてくるでしょう。
やめるべきは、雑念です。
例えば、今日一日の仕事のスケジュールを頭の中で組み立て、効率よく
こなす準備をするのは雑念ではないです。
ただ、その際に「これは明日納期だから最優先だな」まではいいのですが
「そもそも、こんなギリッギリの仕事を営業が取ってきやがったせいで
こっちは死ぬ思いしてんのに、空気も読まねーあいつらがエラソーに
してんのがマジムカツクよな~」なんて考え始めたらそれは雑念。
そこからは営業の人への怒りがフツフツと燃え出し、納期を明日に控えた
目の前の仕事に取り組んでる最中も、頭の中は営業への怒りで一杯に
なっているかもしれません。
何度も何度もリフレインしてね。
忘年会の幹事を任されたら、日程決め、参加者集め、会場設定、予算設定
案内状作り、そういったやることのリストをすぐ作り、リストの上から淡々と
こなして消していけばいいのですが、「つーか、俺、幹事2回目なんですけどっ!」
「俺が2回目なのにまだ1回も幹事をやったことがない奴がいるって、
マジ意味わかんねーんスけど」とか考え始めるともう、ノイズが止まらない・・
納期を明日に控えた仕事に取り組む、忘年会の幹事の仕事をこなす、
そこに余計な思考のノイズが混じってしまっては、その作業の疲労度は
恐らく数倍にもなるでしょう。
こういった怒りのノイズはとても刺激的であるので、それが本人にとって
いかに邪魔で毒なものであっても、心が勝手に求めてしまうのです。
困りますね~
もうそれは、そういう流れが出来てしまっているのです。
日常に溢れる理不尽で不愉快なことを探しては
その不愉快な出来事を何度も反芻し、心にビリビリと
刺激を与え続けてしまう。
それが心にとっては心地よいからです。
不愉快でも刺激は刺激。
心は我々が不幸か否かは問題にせず、ただ刺激を求める。
まずはそう理解するのがファーストステップです。
でも日常で不愉快な、理不尽なことにその都度、反応を示すのが
人が人らしく生きる姿勢じゃないの!?
「あーーイラつくーー!!」とか
「くっっやしーーーーッ!」とか
「さびしいよーーー!」とか
「ーーぃよっっしゃーーーっ!」とか
そういう、情動の触れ幅があるからこそ「今、生きているっ!」と
実感出来るので、それを求めてしまうし、そういう情動の波が
無くなって人形みたいになったら、それは人としては「死」なんじゃないか。
少なくても院長はそう思いました。
でも同時に、自分の情動の触れ幅の大きさに手を焼いていたのも
事実だし、それにより疲れきって様々な問題を抱え、
困っていたというのも、このあいだ書きました。
そういう時にこういった仏道的取り組みを知り、時期的にも
タケコツが10月のあたまに遅めの夏休みを取り、奈良旅行へ行くのと
ちょうど重なりました。