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書籍、映画、旅、最新技術から選んだ心に残るもの。速読者向けは、青文字表示。内容は小学生でも理解できる表現使用

恩義と人の平等を貫く『夜明けの雷鳴』

2025-02-18 07:41:32 | 歴史から学ぶ
幕末の医師高松凌雲はパリでの最新医術の取得で戊辰戦争、東京の大洪水で負傷、被災した多くの人々を救ったことは、徳川への恩返しであり幕府側で戦死した凌雲の兄弟含め勇気を持って意志を貫いた抜いた事は人間として素晴らしい人だったと感銘する。また敵である薩摩藩士村橋氏、池田氏の姿勢も病人、負傷者には危害を加えず薬、食料などで支援した事は人間の道徳さの高さに感動する。文中での言葉「世の儚さを思ってさすらいの旅に出て客死した」(戊辰戦争での人間同士の悲惨な死闘の有り様を経験し孤独死した村橋への言葉)
『夜明けの雷鳴』吉村昭
「概要」医療は平等なり。近代医療の父の高潔な生涯。パリで神聖なる医学の精神を学んだ医師・高松凌雲は、帰国後、旧幕臣として箱館戦争に参加する。近代医療の父を描いた幕末歴史長篇
時代は幕末、徳川慶喜の弟、徳川昭武がパリ万博開催と勉学の為に同伴で渡航した一人の医師高松凌雲の生涯を物語った小説である。船には渋沢栄一などの他通訳(シーボルト)、大工、水戸藩からの監視役、江戸商人と芸妓三人も同船しており49日間の日程でマルセーユに入港(10万両で出典物を収集・漆器・陶器・金工芸品、和紙など)、パリ万博では薩摩藩が独自に琉球王国での出展もしていた。和紙、蒔絵、伊万里焼などの高い評価を得た。また、江戸商人と芸妓による水茶屋の日本家屋と茶道具なども高い興味を持たせた。
ー凌雲は「神の館」と言われる病院での麻酔薬を使い「外科手術」(日本では切開手術などない時代)を学ぶ
ー戊辰戦争勃発した最中に帰国、徳川への恩義もあり幕府側での医療専念、榎本と共に蝦夷へ旅立つ。箱館での病院を任され、敵味方区別なく治療し多くの負傷者を救った。官軍が病院に攻め入っても「負傷者たちと生死を共にする決意あるのみです」と守り抜く。だが、榎本軍(3千人近い兵士)は敗戦し投降する(凌雲が投降するように手紙で促す、3日遅れれば全滅していた)箱館病院では延べ負傷者は1338人(内34人死亡)となった。敵側医師として徳島藩の預かりを受け厳しい生活を余儀なくする。
ー政府からの赦免で凌雲は水戸藩の徳川昭武と共に蝦夷での開拓へ随行、その後東京へ戻り水戸藩での処遇を機に亡くなった兄家族を呼び寄せ個人病院を開業する。その後兄嫁の妹を貰い受け夫婦になる。「神の館」を学んで貧困で治療できない人々を助けるべく基金を募り、明治天皇、渋沢栄一などから支援をもらい「同愛社」を設立、患者は1万2952人に膨れ上がり寄付金も増えた。延べ患者は68万7千余人に及んだ。また、東京での大洪水でも治療に励み1万3838名の患者を診たとある。
ー凌雲の講演では官軍であった薩摩藩士の村橋直衛、池田次郎衛(改名貞賢)らが箱館病院での争いを避け救護したことへの感謝など榎本も赦免後は政府の軍部の総裁となった。
ー薩摩藩村橋を思い発した言葉「世の儚さを思ってさすらいの旅に出て客死した」(戊辰戦争での悲惨な人間同士の死闘の有り様を経験した村橋)


人権無視の世はあらゆる場所で存在した『忘れられた日本史の現場を歩く』

2025-02-04 07:44:48 | 歴史から学ぶ
@歴史を振り返りその遺跡などを旅するのは新たな史実を発見することにもつながる。特に社会的に悪行行為、人権的な事件事故など、庶民を犠牲に革命した独裁者の史実では知ることができない。この書で知ったことは多くの地域で昔の女性へ人権は「モノ」扱いが多く悲惨な歴史があったことで、現代では秘話として実在していることだ。
『忘れられた日本史の現場を歩く』八木澤高明
「概要」北海道から九州まで全国19ヵ所…
気鋭のノンフィクション作家が、自らの足で日本の“裏面史”を歩いた記録的一冊!私が好んで歩いてきたのは、アイヌの人々の歴史であったり、東北の蝦夷、江戸時代の大飢饉の記憶、悪所と呼ばれた色街、明治時代に海を渡った日本人の娼婦からゆきさん歴史的に弾圧されてきたキリシタンなど、どちらかというと、由緒正しきものではなく、悲劇や血に彩られた哀しい歴史であった。
●独自の呪術信仰“いざなぎ流”/拝み屋が暮らす集落(高知県香美市)
    「医者にかかっても治らないものが祈祷で治る」と言われた場所
    人間の心の裏も面も美しさも見つめ続けて言えることは「人間が一番難しいぞよ」
●パンデミックの悲劇/面谷村(福井県大野市)
    銅山で賑わった村がパンデミックで壊滅
インドから帰ってきた女性/からゆきさんがいた村(山口県岩国市)
    からゆきさんは中国等から、あめゆきさんは米国等からの娼婦
    貧しい村での生き残りさくは娘を働き口に出すこと    
かつて栄えた風待ちの港/大崎下島(広島県呉市)
    遊女たちの色街
●『遠野物語』に記された“デンデラ野”/姥捨山(岩手県遠野市)
    飢餓に耐える工夫で60歳を超えたら昼は農作業、夜は山に籠る生活
海外への出稼ぎ者が多かった土地/北米大陸に繋がっていた村(静岡県沼津市) 
    米国カナダへ遊女として出稼ぎの街(人身売買の拠点)
●国家に背を向けた人々の“聖域”/無戸籍者たちの谷(埼玉県秩父市ほか)
    1920年国勢調査が始まって分かった無戸籍村、200余人
●潜伏キリシタンが建てた教会/中通島(長崎県南松浦郡新上五島町)
    3千人が移った五島列島(信仰の自由を求めて)
●難破船と“波切騒動”/大王崎(三重県志摩市)
    難破船多発場所(江戸ー紀伊)飢餓で難破船の荷を盗む)
古より遊女が集まる場所/青墓宿(岐阜県大垣市)
    古代から中世にかけて傀儡女と呼ばれた遊女の拠点
●江戸時代の大阪にあった墓地群/大阪七墓(大阪府大阪市)
    梅田は田を埋めた墓地帯・大阪駅近辺
●自由に立ち入れない場所/津島村(福島県双葉郡浪江町)


「所有欲」の終末は皆同じ『独裁者たちの最期の日々(上)』

2025-01-22 07:55:16 | 歴史から学ぶ
「独裁は、個人崇拝が血の犠牲を生み、拷問するものは狂信者となり、叛徒が略奪に走り、知性は恐怖のうちに幕を閉じる」本書に記載された独裁者は誰もが同じ道を辿った。末期になると孤独と病魔に侵されると独裁者の側近ですら、犠牲者(家族を含めた拷問)にはなりたくない状況に追い込まれ、独裁者の意味不明の言葉でも「YES MAN」に徹したと、ある。現代、ロシアのプーチン、イスラエルのネタニアフも同じような足取りを取る感がする。気になる言葉は:「所有欲と強欲は自我の肥大化である誇大妄想と切っても切れない関係になる」
『独裁者たちの最期の日々(上)』ディアンヌ・デュクレ
22人の専門家が、それぞれ20世紀の独裁者24人の失墜後の最後の日々について、おおよそ年代順に1人あたり十数ページで簡潔に記したもの。
1 ドゥーチェの二度目の死(ベイニート・ムッソリーニ)
    ムッソリーニの娘婿の裏切りをヒトラーは許さなかった(チャーノを犠牲にする選択)
    愛人クララと共に逃亡先で銃弾に会う(最後まで信頼し合えるのは愛人しかいなかった)
    会議で権力から降ろされた後、1年半移動する逃亡を続けた
2 ヒトラーの自殺(1945年4月30日地下壕で妻となったエヴァ・ブラウンと自殺その後焼却)
    後任をゲーリングを決めていたがゲーリングとヒムラーの独断な動きに罵り激怒
    ムッソリーニとの温情をかけすぎたと反省(ソ連への防御力不足となる)
    ユダヤ問題が徹底不十分だった「結局、人が良すぎて後悔するわけだ」と嘆息した
    「利益に資したユダヤ人政治家、人種法を守りユダヤ人を断固対抗する」
    地下壕でゲッベルスの家族子供含め6人は睡眠薬を投与後毒殺
    「恥辱と嘲笑の中で生きるより死んだ方がまし、戦後のドイツの子供達の居場所はない」
3 ペタン元帥は四度死ぬ
    ドイツが占領後、フランスでの元首となり88歳、4年間の政権を取る
    裁判で無期禁固刑にされ妻に「お前さえいてくれれば心が安まる」と手紙を送っている
    ドゴールからの恩赦で収監先で90歳まで生き延びた    
4 魔のソファ スターリン断末魔の五日間(1953年3月5日73歳で死亡)
    死ぬまで仕事をやり遂げた指導者、独裁者で最後は妄想病で
    側近者ですら人を寄り付かせない冷たく仕事に集中、外へは何人もの護衛を連れていた
    敵と見做したものはたとえ側近でも家族含め拘束処刑にし集団殺人で2千万人を数えた    
    寝室で見つかった倒れたスターリンは48時間医者に見せることもなく放置された
5 トゥルヒーリョ、熱帯のカエサル(ドミニカ共和国大統領18年間・1961年5月30日暗殺)
    米国の支援を受けて共和国の軍将軍に任命、大統領はバスケス
    クーデターでバスケスが失脚し大統領に、個人資産はドミニカの国家予算を上回った
    米国からのテロ支援を受けた反政府四人組の襲撃を受け暗殺される
6 ゴ・ディン・ジエム、「自己流愛国」大統領の死(南ベトナムの大統領:1963年暗殺)
    米国の支援を受けて初代大統領となるが僧侶、反政府、北ベトナムの勢力争いで内乱
    カトリックを重視、仏僧への弾圧で米国への不信から兄弟(大統領・軍事)を暗殺
7 パパ・ドクの静かな死(ハイチ大統領:14年間の制圧で1971年死亡)
    「黒人主義」とブードウ宗教を重視し、人種迫害を強制、弾圧、殺戮(20万人)
    「唯一の真の友は銃だ」と吹聴、妄想症で執念深く家族をも殺害
8 フランコの果てなき苦しみ(スペイン将軍36年間統制・国王的権威確立)
    国政を担い36年間死ぬまで統治、多くの犠牲者を出し、死刑とした
    1969年病気で倒れるが統制し続け内乱を収めた(1975年11月死亡)
    1969年ファン・カルロスを後継者として国王に迎えたが、全権を剥奪し統治する
9 毛沢東の長い死(1974年病床には入りALSと診断1976年9月死亡83歳)
    1966年から文化大革命を推進、1千万人の虐殺、2千万人収容所死者、飢餓43百万人
    最後まで党派の対立を煽り、分裂によってを支配力を高めた(周鄧小平派と夫人江青)
    毛沢東の病床での言葉「風は常に木の一番か高いところに吹く」周への期待
    周恩来は1976年1月に毛沢東より先に亡くなり、華国鋒が首相に就任
    1976年4月天安門事件後、鄧小平は投獄され、毛沢東は冷酷で残虐だった
10 フワーリ・ブーメディエンの最期の日々(アルジェリア大統領1978年48歳没)
    軍人からクーデターでベン・ベラ大統領を逮捕、実権を握る
11 ポル・ポトは六度死ぬ(1979年まで44ヶ月の政権、逮捕隔離1997年死亡)
    カンボジア領を守るためにベトナム等戦闘人口の5分の1、150万人虐殺
    米国支援を受けたベトナム、中国との抗戦、フン・セン政権の揺らぎが混乱
    「カンボジアが頭部と共に再び統一されることを願っている」を提言
12 パフラヴィー二世、最後の皇帝(イラン皇帝7年間ののち亡命1980年没)
    石油権益・米国ソ連・英国などと覇権争い、ペルシア文化と宗教弾圧・民衆暴発
    フランスに保護されていたシーア派最高指導者ホメイニ師の革命で亡命



敗戦要因は「官僚化」と「机上学」『決断の太平洋戦史』

2025-01-06 07:46:25 | 歴史から学ぶ
日米英の様々な軍人の生き様を綴った本書。戦略戦術で成功、失敗など記述があるが、特に日本の敗戦の要因が気になる。それは「情報収集・解析力不足」及び「人事権・官僚化」だという。
太平洋戦争では日本の暗号が完全解読され、古い体質の戦略(対米英の最新鋭の武器・船隊対航空隊、レーダー、長距離大砲、燃料・物資輸送確保)のまま、机上学と学歴重視の上から目線、さらに人事にコネ・先輩後輩序列が何よりの組織で「否定できない組織」となった事だ。現代日本の政治家組織も多くが自民党の年功序列に従うだけで規制改革・変化は政治家自身の為のものが多く、国民の立場のものはほとんど無くなった。例:人口減・少子化対策など殆ど効果なしで先延ばしの対策しかできない、10年後20年後の日本を背負う世代に「多額の負債」を残し、国家予算を右肩上がりに国会議員はいつまで使い続けるだろうか
『決断の太平洋戦史』大木巌
「概要」「人材養成哲学」が勝敗を分けた――。日米英12人の人物像と戦歴を再検証。参戦各国の指揮官や参謀たちは、いかなるエリート教育を受けたのか。どの国も腐心したリーダーシップ醸成の方策とは何なのか――。「指揮統帥文化」という新たな視座から、日米英12人の個性豊かな人物像と戦歴を再検証。組織と個人のせめぎ合いの果てに現れる勝利と敗北の定理を探り、従来の軍人論に革新を迫る野心的列伝。
ー大東亜戦争・15年戦争・太平洋戦争・アジア太平洋戦争での軍人の行動や逸話
・アーサー・パーシャバル名誉中将(イギリス陸軍)1970年マレー戦役での敗北
    防戦体制の準備未成・質的劣勢・イギリス本土での軍部分散理由(北アフリカ・中東)
    シンガポール陥落の責任を一人で背負った
・三川軍一中将(日本海軍)真珠湾攻撃に参加 ガダルカナル
    連合艦隊山本五十六からの承諾書を得ず攻撃(作戦を認可したが承諾書を出さなかった)
    輸送船団を攻撃する目的がぶれた(現状把握で判断)帰還した
・神重徳少将(日本海軍)戦争の諸階層の必要性を訴えた
    日本海軍のコマンドカルチャー(現場の指揮官たちに自主独立の柔軟な指揮の欠如)
・A・ヴェンデグリフト大将(米国杯兵隊)日本軍伝説を粉砕
    米国海兵隊の存在意義を証明する(ガダルカナル上陸戦)
・北條圓了軍医大佐(細菌戦での研究・参謀)
    生物兵器開発への研究(ドイツ留学)・ソ連はすでにハルビンでの利用
    ヒトラーの反対で生理的な嫌悪から細菌・毒ガスは禁止(ヒムラーは使用賛成派)
・C・シェンノート名誉中将(米国空軍)義勇兵を雇用した軍隊(フライングタイガース結成)
    義勇兵パイロットで中国を保守(カーチスH-75戦闘機)
    300機とパイロット養成(敵1機で5百ドルのボーナス)
・小沢治三郎中将(海軍)3本の指となる軍人・山本五十六・山口多聞
    教科書に捉われず先頭計画(真珠湾への空母機動部隊編成)
・W・ハルゼー・ジュニア元帥(米国海軍)ヒット&ラン (とにかく叩け・怯むな)
    戦艦ミズーリでの魚雷(水雷屋)からホーネット・ワシントンでの猛将
    台風の進路予測で誤り味方が全滅(航空機146機・駆逐艦3隻)
・酒井鋼次中将(陸軍)東條英機と対立 近衛文麿との接点
    傭兵思想や戦争指導を研究内閣との対立(三国同盟への解決)
・山下奉文大将(陸軍)フィリッピン・マレーの虎
    昭和天皇の不興を買われ、2・26事件での関与
    前線での優れた戦略眼、終戦まで統率に優れた大将
・O・ウインゲート少将(イギリス陸軍)インドでのゲリラ部隊
    チンデッツでジャングル作戦
・カーティス・ルメイ大将(米国空軍)爆撃機
    東京等大都市での空襲計画(焼夷弾で焼き払う計画)
    B-29 300機での都市壊滅、無差別爆撃作戦・原爆投下
日本の指揮統師文化
    形骸化・官僚化した軍隊は軍隊の弱体化を招いた
    戦争指導の閑視(戦術次元の知識や理解もなく)
    人事システムの硬直(官僚化した組織・コネと学歴)


薩摩藩の財政難を越える知恵者『島津氏』

2024-12-27 07:43:13 | 歴史から学ぶ
薩摩藩、島津家の歴史を知る。室町時代から約700年続いた島津家、著名な藩主は光久(2代目)、斉彬(11代目)、久光(12代目)となるが、密貿易、贋金(藩札)等で薩摩の500万両の負債を50万両の利益に変えた調所広郷による財政難を乗り越えることができた。更にその収益で幕末への武器、兵士(軍隊)などを他藩より先駆けて調達できたと言える。だが、密貿易での責任を一身に受けて服毒自殺してのは残念だ。知恵者と言われた調所広郷の存在がなかったら倒幕はなかったかもしれない。
『島津氏』新名一仁
「概要」鎌倉時代から幕末まで九州南部を支配し、今なお続く武家の名門「島津氏」。その歴史は、安定していたとは言い難い。 東アジア海域の流通を抑え、中央(京都・江戸の朝廷・幕府)から一目置かれていたものの、南北朝期から室町・戦国期にかけては常に反島津方に晒され、兄弟間、一族間抗争が頻発。近世初頭には豊臣秀吉による軍事討伐の対象となり、関ヶ原での敗戦により改易の危機を迎える。さらに、江戸時代には外様大名として厳しい藩経営を強いられた。
それでも、島津氏は滅びなかった。いったい、なぜなのか?本書は、鎌倉時代から幕末まで島津家歴代当主の政策に焦点を当て、700年の歴史を紡いできた島津氏の「生存戦略」に迫る。巧みな交渉術、政権との距離感、敗北後の危機回避能力――、隠れた名家・島津氏に学ぶ「外交の神髄」に迫る!
ー島津家は室町時代からの遣使として明との交易があった。特に琉球との貿易から中国への輸出輸入の窓口とさえなった。
ー島津光久(19代当主・薩摩藩2代目)は幕府の鎖国政策により収入に北できなくなり、金山開発、新田開発、洪水対策などでの浪費を琉球貿易で賄っていた。琉球口から東南アジアでの貿易は幕府は公認したが、公的には長崎口が主な主港となった。島津重豪8代藩主の時の浪費で5百万両の借金を抱えていた。そこで登場したのが家老の調所広郷で密貿易を開始、結果的に50万両の利益を残した。その手口は自藩での船で藩営商船団を持ち収益を上げた。船主には返済を黒砂糖での運搬で4~5年で藩が利用、運搬できるように示唆した。また、密貿易で琉球口を通じて北前船によって俵物、昆布、越中薬などを中国へも輸出し稼いだ。その結果幕府に密告されその責を一身に受け服毒自殺した。
ー島津斉彬(11代藩主)はわずか7年で逝去するが篤姫との幕府との関係改善、西郷隆盛などを起用した開明藩主となる。集成館事業での人材育成(外国語・通詞役を主に軍事関係)を軍事防備体制などを構築、幕閣阿部からの信頼を得た。家臣の上海へに密航などもキャ化した。
ー島津久光(12代藩主)幕府による安政の大獄事件など下級武士が京都に集まったことで「寺田屋事件」で鎮圧、「生麦事件」で幕府に大きな損害を与えた。琉球とは偽金作りを企て「琉球通宝」を鋳造するなど5万8691両資金を得た。 だが、久光が反対したが廃藩置県により琉球藩は沖縄県となり久光は隠居する。


歴史の裏表・逸話も多い歴史『沖田総司は黒猫を見たか』

2024-12-09 08:08:41 | 歴史から学ぶ
岩倉具視は蟄居中に賭博で生活費を稼ぎ、品川弥二郎が錦の旗を偽造、奥羽鎮撫総督軍下参謀世羅修蔵は旅籠に19日間滞在し好色振りを軍務であるしたことなど歴史の裏側(勝者と敗者)には多くの秘め事、また、非戦争論者としての中国・満州等を収めようと張作霖と協調した町野竹馬、徳島のドイツ俘虜収容所で「武士の情け」から捕虜を大切に軍楽隊まで作り上げ市民との交流を盛んにした松江豊寿など世の中に人々のために貢献した人物もいた事など歴史的人物の逸話がまだまだあることに興味を抱かせた
『沖田総司は黒猫を見たか』中村彰彦
「概要」徳川将軍、異色の大名、江戸を騒がせた盗賊、新選組、そして戊辰戦争を潜り抜けた明治・大正期の軍人たち――。奇譚とエピソード満載。歴史を読み解く愉しみを堪能させる最新エッセイを収録。
ー不倫は江戸時代には密通、昭和22年以降は姦通という。江戸時代、裁きは密通した妻も男も死罪、夫はお構いなしとした。
田沼時代の贈収賄では、奉行になりたいなら2千両、目付で千両等相場があった
ー密告者扱い、水野忠邦では目付の鳥居耀蔵がその名を挙げ渡辺崋山、高野長英などを捕縛、南町奉行の矢部定謙を失脚させ餓死させ非道な男とされた。水野忠邦の後丸亀藩で蟄居となる。その後医者として民衆に親しくされる。
鼠小僧、博打打であり遊女買いで散財、の盗んだ総額は1万2千両
ー岩倉具視は岩倉村に蟄居した時賭博を開き寺銭で暮らしていた
ー遠山金四郎、奉行は昔吉原の遊郭に代理し放蕩していた
ー青木弥太郎、盗賊は「死んでも白状せず」と18回の拷問に耐え勝海舟の放免となった
ー戦国時代から貴重なものは土の中に隠す習慣あり、戦争が終われば掘り起こして生き延びた
ー徳川家茂と和宮は心から愛情を持っていた(将軍出征時には御百度参りを何度かする)その家茂の遺言は「後めには田安亀之助を立てたいと妻和宮と天璋院に伝えた。その和宮は麻布の屋敷で脚気で32歳で亡くなる(家茂と同じ病)
ー長州藩は坂本龍馬からの武器ゲーベル銃3千挺、ミニエー銃4千挺を得たことで幕府の第二次長州追討戦に打ち勝てた(家茂の死による退散もある)
ー寺田屋事件・坂本龍馬と中岡慎太郎は幕臣今井信郎と渡辺吉太郎に切られた 京都見廻組の六人はその後の鳥羽・伏見の戦いで亡くなる
尊王攘夷運動で岩倉具視に出入りした品川弥二郎が山口で30数日をかけて錦旗を作成した
ー沖田総司は不吉とされた黒猫を見たのか「庭で遊ぶ猫を切れなかった」(不吉とされた黒猫伝説)
会津藩柴家の忠僕として女達は全て役に立たないとされ自刃する、だが男兄弟は戦後帰ってきて唖然とした
ー仙台藩には直臣が少なく総大将も武士の意気地に欠けて戊辰戦争で敗北
ー五稜郭につめた戦力は軍艦4隻と運輸船2隻、兵力3千5百だが、脱走兵士も多く、1年5ヶ月後榎本、大島ら七人は降伏、東京の牢に監禁(この牢は大島が作ったものだった)
徳川慶喜は蟄居した後夫人は60歳で他界、静岡の蟄居生活では妾二人とYで就寝、終生刺客を恐れていた 寛永寺は葬儀を一旦拒否した(神vs仏の違いを理由)
ー「君が代」は薩摩藩大山弥助(のちに巌)が「蓬莱山」の一節をもとにフェントン作曲、1879年に中村裕庸の曲譜で出来上がった
士族の間では正妻の夫を「御前」と呼び、妾は「旦那様」と呼んだとある
ー品川弥二郎は熊本城下での手紙を偽造(女が主人に出した恋文)を兵士の士気を混乱させた
ー奥羽鎮撫総督軍下参謀世羅修蔵の好色振り(旅籠に19日間滞在)軍務であると言った
ー明治政府は5人の女性(旧幕臣)を留学させ、政府は未来に期待した そのひとり津田梅子(当時6歳で留学)は女子師範学校を設立(十名程度の生徒)、その後津田塾大学となる
ー1910年「千里眼」ブームの由来はX線の発見で超能力者を世に紹介したが手品・疑惑
「下品」メタルを噛むことは江戸時代、金の純度を確認するための行為だった
ー戊辰戦争後の会津藩の脱走した臣下は米1日4合で斗南藩と改名した藩の松平家家中となる
町野竹馬「大陸向けの男」として満州張作霖と組み奉天を支える(張作霖は関東軍の策略で爆殺される)No2として中華民国陸軍元帥として活躍した「日本武士道の精神を信じていた非戦争論者」
ー徳島にあった板東俘虜収容所の松江豊寿所長の「武士の情け」(模範収容所)ドイツ人5千人を収容への「彼らも祖国のために戦ったのだから」と敬意をもって接した。軍楽隊を編成し市民との交流「第九を歌う会など」開催 書籍「二つの山河」直木賞


戦争から得た財閥『明治の怪物経営者たち』

2024-12-06 07:43:50 | 歴史から学ぶ
明治から昭和にかけて創業(三井・三菱・住友財閥)した人々の人生苦、喜びが記載された本書、で気になったのが、圧倒的な競争心と行動力、判断力など現代の経営者にはみられないリーダーシップがあったことに驚愕する。誰もが戦争の背後(軍需品調達・武器、兵量、食料)で政府の資金で金儲けしたことで財閥を成し得たことだ。元を糺せば国民の税金からの搾取で成り立った族罰と言っても過言ではない。
『明治の怪物経営者たち 』小堺昭三
今こそ時代を元気にする怪物的リーダーが欲しい! 渋沢栄一を明治財界の指導者に押し上げた「変身」とは何か。下級士族だった岩崎弥太郎が、なぜ大三菱を創始できたのか。三井を近代財閥へと改革した中上川彦次郎は「明治の新人類」か。社員十六人で創業した三井物産を益田孝はどのように育てたのか。近代日本を築いた経営者たちのもつ「毒気」を読み解く!
ー渋沢栄一 財界の演出家
    埼玉豪農の生まれ、一橋家に仕え 慶喜の幕臣 
    第一国立銀行を設立 王子製紙 東京瓦 5百社を設立参加 引退後には社会教育事業
    身軽に変身(世渡り上手)幕臣・薩長政府の局長・銀行の総監役><小栗忠順
    「才気・侠気・剛気・毒気」溢れた 日本近代資本主義の指導者「財界の演出家」
    「益者三友・損者三友」三野村利左衛門・大隈・井上・福澤・岩崎 三井組vs三菱組
    「一人の知恵より衆人の知恵。一人の財力より衆人の財力を合併し大商をなすべし」
    「僑木は風に弱し」如何に巨木でも一本だけ山頂にいては強風をモロに受け倒される    
ー岩崎弥太郎 政府を手玉に取った海運王(海坊主)
    土佐生まれ 土佐藩勘定役 土佐商会で貿易 三菱商会設立海運業 軍事輸送で大儲け
    「武士として立身出世を願うより、材木、貿易で開国論の実行したい」
    後藤象二郎のお供でグラバーとの付き合い長崎造船所、高島炭鉱を近代化
    藩札を発行、樟脳販売権で得た30万両、政府の藩札交換、九十九商会で海運業開始
    西郷の「征韓論」で2分した政府 台湾出兵で軍艦貨物での補給を支援 
    軍需品輸送のための軍艦など13隻など無償提供、運航資金と共に政府から提供
    「戦争とはドカンと儲けるためにある」として西南戦争でも大儲けした
    「岩崎弥太郎さえいなかったら西郷軍が大勝、日本の近代史は変わっていた」
    三野村利左衛門「平素よく断の一時を守れ、時期を見失うな、仕事を棄てて礼をするな」(決断・時期・仕事に関係ない手合いとは付き合うな)
ー中上川彦次郎 三菱王国・三井銀行の近代経営
    井上肇による推薦で入行(近代化への実行力を期待
    彦次郎「私はいつでも、どこでも本音で勝負するつもりです」をモットウに行動
    人材をスカウト、給与の典型を作り、組織も番頭以下を課長、係長、主任、平社員とする
    芝浦製作所を吸収し東京芝浦電気、王子製紙を乗っ取る
    三井内部にいた益田孝が強敵として出てくる
ー広瀬宰平・伊庭貞剛 近江国出身 住友家 住友財閥
    宰平:別子銅山支配人・鉱山業・両外業で大阪で活躍
    貞剛:校長から国会議員、その後宰平の事業を継ぐ
ー益田孝 佐渡出身 三井物産の育てたおこと
    社員16名の三井物産(資金も人材もゼロからスタート・三野村利左衛門の支援なし)
    西南戦争での商売で盛り返し、諸外国との交易、三池炭鉱で完全自立


朱子学・儒教からの継承した文化『面白くて眠れなくなる江戸思想』

2024-11-12 07:42:46 | 歴史から学ぶ
@本書は仏教、儒教、朱子学、古文学など一般以上の知識が無いと「面白い」とは言えないが、徳川光圀がツッパリでヤンキーだったこと、歴史を古代の歴史書(六国史等)を鵜呑みにせず正しく理解し「大日本史」を完成、子孫に残した偉業は素晴らしい。何故歴史に興味を持ち「大日本史」を作成し始めたのか、それは出会いである。明朝の遺臣王朝の血筋を保つ朱舜水とある。明の皇帝復興を目指した中で本物の儒学の理想を体現したことだ。本書に出る他の11人もノイローゼになったり、貧乏で苦労、悪いレッテルを貼られた人々だが、宗教、文学に目覚め著名な出版物を世間に多く出している。著作作品を遺すことへの思想家たちの志は素晴らしく、それが明治以降の文化継承にもつながったことだ。
『面白くて眠れなくなる江戸思想』橋爪大三郎
「概要」江戸時代の人びとは、自分なりの思索を深め、やがて訪れる新しい時代に備えていた。でもそれは、誰が主役かという話ではない。日本全体がチームとして頑張っていた。日本にしかできないやり方で、世界に通用する、大事な課題と格闘し ていた。これをひとまとめにして、「江戸思想」と呼ぼう。(中略)江戸時代、志があっても不遇な、健気な若者たちがいた。彼らのおかげで、いまの時代の土台が築かれた。そのことをどうしても伝えたくて、若い世代の人びとに向けて、江戸思想の「入門書」を書かねばと思った。
徳川光圀、藤原惺窩、林羅山、中江藤樹、熊沢蕃山、契沖、伊藤仁斎、荻生徂徠、富永仲基、賀茂真淵、本居宣長、上田秋成の12人が織り成す、江戸思想のワンダーランドへ。
「徳川光圀」家康の孫、父は頼房(家康の11男)光圀と名乗るのは56歳から)
    つっぱりのヤンキーで立ち直ったのは儒学
    林羅山の資料等が焼失したことで「史局」を作り「大日本史」を作り上げる
    師匠は朱舜水(明朝再興に向けて貢献)日本に亡命
    儒学・水戸学=尊王主義
「藤原惺窩」朱子学の先駆者
    僧侶となり朱子学、林羅山が弟子になる、その他石田三成、小早川秀秋なども門弟になる
    家康による仕官を受けたが友人が切腹させられたことを根に断る(林羅山が出向く)
「林羅山」家康に抜擢された参謀的仕官(儒学・戦争をしない・平和をもたらす・理性)
    「論語集注」として公開、藤原惺窩との出会いから僧侶になり家康以降4代の将軍に仕官
    出家主義で世俗の政治や政財には関わらなかった
    評判が悪く知識人からの批判を浴びた(方広寺の鐘銘の件も汚点となる)
「熊沢蕃山」
    浪人の家に生まれ貧乏、儒学を政治に生かし民衆を救う(岡山藩の小姓で災害復旧)
    39歳で隠居、各地を転々とし、儒学(人々の生きる指針、社会を導く原理を解く)
「荻生徂徠」独自の朱子学
    中国語を学び漢文(孔子・孟子)古代の人々の生き方を提案
    柳沢吉保に仕官しする・吉保は5代将軍の御用人から実力者になる(貨幣経済の見直し)
    中国贔屓で徂徠も評判が悪く皇国思想には入らず
「本居宣長」町人から医者」「古事記」を研究(夢想家)
    源氏物語論を主筆、ロマン主義、國學が神話的ロマン主義を人々に提供する
    「古事記伝」内容を解き明かすことの書(参考にしたのは万葉集)
    厳密な合理主義者であり狂信的な国粋主義者(2つの顔)   
 

権力者等を糾弾した寓話・お伽話『古代史の真実』

2024-10-30 07:46:40 | 歴史から学ぶ
歴史は時の勝者の都合で改竄され、史実として残されている。昔話、お伽話には時の権力者に敗れた者たちをしのび、権力者を寓話になぞらえて糾弾するものが多い、と言う。ここには桃太郎、浦島太郎、かぐや姫、一寸法師、海彦山彦などお伽話を読み解き、古代史の隠された真実、秘められた謎を解いているが、あくまでも「擬き」もあり推理・推測と仮説の世界であり、新ためて「日本書紀」「古事記」などを読み直すのも良いかもしれない。
『古代史の真実』関裕二
「概要」お伽話を読み解くことで、古代史の隠された真実が解ける!
桃太郎、浦島太郎、かぐや姫、一寸法師、海彦山彦……誰もが幼きころから耳にしてきたお伽話。実はそのお伽話たちには古代史の謎を解き明かすヒントが散りばめられている。古代の日本の歴史が書かれているとされている『古事記』や『日本書紀』に登場する神話は、お伽話よく似ているものが多い。子供のころに伝え聞いたお伽話は牧歌的だったが、それは現代人がお伽話の「凄み」を 見落としているからで、裏側には、「敗れた者たちの恨みつらみ」が、籠められている。 海幸山幸神話では、籠(亀甲紋だから、亀のイメージ)に乗った天皇家の祖神が、海神 の宮に赴き、美女(女神)と快楽に溺れ、三年後にもどってきたとある。また神武東征説 話の中で、瀬戸内海に亀に乗った男が現れ、案内役を買って出ている。お伽話の浦島太郎 は、これら『日本書紀』に描かれた「浦島太郎もどき」をモデルにして、編み出されたの だろう・・・・。いったい、なんのために? かぐや姫にしても、『古事記』には「迦具夜比売命[かぐやひめのみこと]」が実在の 人物として登場し、しかも彼女の祖母は「竹野比売」で、「竹のお姫様」を名乗っている。 これはいったい何だ。かぐや姫にもモデルはいた・・・・。 さらに、近年考古学がヤマト建国の大筋を言い当てるようになって、『日本書紀』や『古 事記』の神話やヤマト黎明期の説話の中から、「隠された歴史」を再現できるようになっ てきた。神話や神武東征、ヤマトタケルなど、これまで荒唐無稽と思われていた物語の中 に、本当の歴史が残されていた可能性が高くなってきた。 お伽話と神話と考古がを組み合わすことによって、新たな歴史観が生まれるはずだ。
・「桃太郎」五行・桃とは金であり霊的な力を持っているとされた。桃太郎が鬼退治に揃えた動物は「鬼門に相剋する干支」
「桃太郎」のモデルは主祭神「吉備津彦命・四道将軍」(大和政権)という説で鬼退治は「鬼の城に屯する百済の温羅」での征伐戦、と言う説 大人老人「穏やかな和魂」(鬼)vs童子「荒魂」
「浦島太郎」=「竹取物語」結びつく「丹後国風土記」藤原氏が一人勝ちし、独裁権力を握った時代を批判しているのが「竹取物語」、そこにはかぐや姫(迦具夜比売命)も登場する。
「日本書紀」は藤原不比等が藤原氏の正義を証明するために残した歴史書とも言われ、「抹殺したい歴史を神話化した」とも言われる。
・「一寸法師」と神功皇后 (鬼から奪った小槌で背丈を伸ばし金銀を得て、京都で出世した)
・「かぐや姫」竹取物語の「竹取の翁は黄金を手に入れて3寸ばかりの子に名をつけた「なよ竹のかぐや姫」、五人の貴公子から求婚され、帝の入内要請も断った。かぐや姫から不死の薬をもらった帝、など悲しい物語である。
お伽話の多くの原点が「藤原氏に敗れた者達の恨みつらみ」で、その象徴的なやまがヤマトの畝傍山だったことだ。


求める思想文化は時代と共に変わる『雲と風と 伝教大師最長の生涯』

2024-09-30 07:32:50 | 歴史から学ぶ
最澄と空海、日本の仏教の礎を築いた僧侶の人生は、国を司る桓武天皇、嵯峨天皇により左右されていたことを改めて知る。政治と宗教がどこかで頼り合い、ぶつかり合う姿を本書で詳しく知る事で人間の愚かさ、脆さを知ることが出来る。桓武天皇は「呪い・祟り」で悩まされ、もがき求め、嵯峨天皇は時代の仏教文化の素晴らしさを探し求めたと言う、それが「法華経」vs「密教」であり、時代とともに人々の求める仏教思想も変わるということ。
『雲と風と 伝教大師最長の生涯』永井路子
「概要」比叡山延暦寺を創建、天台宗の開祖となった最澄。激動の時代の中、最澄は、長岡京の遷都に失敗した桓武天皇を支えながら、桓武の魂を救済することが、国家を救うと尽力する。仏教の本質を求め続けた最澄の生涯を、直木賞作家の永井路子が描く。男性的目線になりがちな歴史人物や歴史事件を解きほぐし、その陰になりがちな女性にも焦点をあて、歴史上の人物、出来事を鮮やかに浮かび上がらせる作風は、歴史小説に新風を巻き込んだものと評価されている。
ー7歳にして陰陽、医方、工巧を学び、12歳にして旅立ち、国分寺に入り、15歳で法華経の経典を読みこなし、18歳にして僧侶沙弥(五戒)になる。(五戒:人を殺し、嘘をつき、盗みをしてはならない、更に高い寝床で寝てはいけない、歌舞音曲を聴いたりしてはいけない)
ー784年の仏教界は存続を拒否され、光仁天皇の死後、謀反事件発覚、桓武天皇が実権を握る
    桓武天皇の独裁者の風貌を見せ始める、奈良王朝から長岡遷都へ
    仏教政策の見直し(政権と仏教・寺の政教分離:政治は長岡、精神文化は近江)
    宮大工指導者の暗殺から遷都に非協力だった天皇の弟を主犯と断定、拘束、憤死
    (早良親王は主犯を拒否、食事を一切拒否したことで死人となり淡路に埋葬させる)
    新都では洪水による氾濫、日照りで収穫不足、蝦夷出兵敗北、皇太子安殿が流行病に
    早良親王の呪い避け等で新都(平安京)へと決意
ー785年に近江国分寺が焼失で帰るところがなく叡山へ向かう。6年後空海が大学を辞める。
    最澄は天台数学の研究に没頭(師匠の智覬に習う:中国仏教界の最高峰の一人・法華経)
    桓武天皇が梵釈寺に仏教の研究所をつくったことは励みになる
    最澄は12年間籠山し、止観の真髄を体得(苦行をしたとの説)
    桓武天皇等が懺悔することでの呪の沈静化をはかり、最澄は中国遣唐使となる
ー793年桓武天皇57歳で気弱となりようやく仏教・仁王経を講じさせ新宮殿に僧を招く
    794年遷都計画「平安京」とし最澄の建てた一乗止観院で桓武天皇が臨んだ
    805年桓武天皇は僧侶への肩書を認め、桓武は持戒の清僧を求めた(浄化・懺悔法)
        井上皇后の巫蠱、早良親王の謀反など怨霊思想・懺悔陰陽道・仏教を求めた
803年遣唐使として命名される(桓武天皇67歳・病牀)
    法華三昧・法華懺法の体得(菩薩戒)
    「戒」仏教の3本柱:戒・定(禅)・慧(知識)
    最澄の中国での学びは桓武天皇には届かず空海の密教が支持されるようになる
ー809年桓武天皇の死後、平城天皇(3年1ヶ月で退位)は行政の簡素化・緊縮政策を進め
    平城天皇も桓武天皇と同じ過去の呪いで悩まされ嵯峨天皇に譲位する
        嵯峨天皇は藤原冬嗣に任せ今までの側近・天台の奥義などを変えてしまった
        農民の課役の軽減、救貧政策等を中心に改革、律令制方の脱皮
812年 空海は嵯峨天皇からの知遇を受けるようになる
        最澄と桓武天皇は「魂の救済」を求めたが嵯峨天皇は空海から文化面を重視
        空海により優雅華麗な嵯峨朝での文才が好まれた
        空海はのちに伝燈大法師に叙せられ内供泰十禅師、東寺の大僧都へと出世する
ー813年最澄は空海40歳(密教)との衝突・嵯峨天皇が密教を奨励(千眼千臂経)
        長安の都では密教一色であり天台などは時代遅れだとした
        空海は1年余りで卒業したが最澄、あなたは3年かかりますと言い張った
    最澄は密教経典も学ぼうとしたが、空海は天台と真言密教は全く別物だとした
    最澄は弟子泰範にも裏切られ東国へ旅立つ「時代が変わったのだ」と悟る
        最澄と桓武天皇との関係は「外護者」だったことで桓武亡き不幸が始まった
        最澄の弟子として残ったのは14人のうち6人となり諸国を巡遊し修行する
        最澄の弟子広智の弟子がその後比叡4代座主安恵となる
    その後比叡に学んだ僧は法然、親鸞、道元、日蓮がいる
法華経(菩薩)
    「高い悟りの段階に達したものが観音菩薩、普賢菩薩であり、大乗仏教の時代になると人間は誰でも悟りに近づく、つまり誰でも仏になれると言う考えが始まった。それには人は利己心を捨てて、他人のために尽くすという慈悲心の持ち主になるべきだ」と最澄は説いた。最澄の遺言は「我がために仏を作ること勿れ。我がために経を写すこと勿れ。我が志を述べよ」


家計を守り抜く妻の役目『おまつと利家』

2024-09-20 07:56:44 | 歴史から学ぶ
加賀百万石、創設者前田利家とまつの時代(織田・秀吉・徳川)3代に仕えた前田家は子沢山の家系で妻のまつの役割と人生の選択は多難だったと感じる。特に賤ヶ丘の戦い後の前田家の秀吉と徳川に対する立ち位置と血縁関係(秀吉へ豪姫、秀忠から珠姫)は複雑で関ヶ原戦いでまつは自ら徳川の人質になり江戸に赴く。その時利長への叱咤は「侍は家を建てることが第一、おい先短い私には、人質に行く以上、覚悟はできています。決して私のことを思って家を潰してはなりません。母を捨てても構いません」と14年間、利家の臨終には立ち会えず、長男利長が亡くなるまで、決断と強い意志は素晴らしい「国母」であったと思う。
『おまつと利家』集英社
「概要」夫婦の二人三脚で築き上げた大大名の地位。夫・利家亡きあと訪れた危機。人質として江戸に下る前田家のお袋様・おまつを中心に、加賀百万石を守った家族の物語をつづる。
ー前田家400年の基礎作りは
    利家は愛知郡新子の生まれで荒子城主前田利昌の4男、15歳で元服、信長に仕える
    織田信長の家臣として秀吉、利家は家臣として一緒に行動を共にする
    越前での地で1万石の所領を得て柴田勝家に従った
    利家は佐久間盛政との生涯2度の戦い、末森城の合戦で佐々成政で勝利
    賤ヶ岳の戦いで柴田と協力して戦いを始めたがその後秀吉側に参画、柴田勝家は滅亡
        利家と利長は柴田軍と出陣(3万)vs秀吉軍(7万5千)
        織田信孝が反旗を翻したことで秀吉が大垣に急行、そこを狙って佐久間盛政が反撃
        秀吉は急遽取って返し佐久間成政と柴田軍が対決する
        利家は退却し両者との戦いを辞めた(嫁の関係)
 ー秀吉と利家 寧々とまつ 緊密な友好関係を築いていた
        子供が11人(2男9女)、麻阿姫は秀吉の側室に、豪姫は宇喜多の養女
        その他の女は全て前田家の家臣に嫁がせた
        利長は信長の娘永姫を正室に、本能寺編後秀吉に仕えて中納言に昇進
        秀吉の死後、数ヶ月後利家も亡くなり、家康は前田家に謀反(暗殺容疑)を掛ける(家康にとっては前田家は次なる脅威の相手だった)
    家康との関係は秀吉没後の二代目利長の時代にまつは人質となり京から江戸に住む
        秀忠の二女珠姫と利常との婚儀、利長は44歳で隠遁、53歳服毒自殺説
        (珠姫3歳、利常9歳と言う婚姻関係を作る、その後3男5女を出産)
        珠姫は24歳で没、利常は53歳で没
        隠遁した利長は謀叛を隠すため「鼻毛」を伸ばし水ぼらしい姿をわざと見せていた
ー金沢城
    加賀藩十四代300年続く城下町には1583年に能登七尾の小丸山城から入城
    明治14年には失火で石川門と30軒長屋のみ残り焼失、その後軍隊の師団基地とした
末森城の戦いでの言葉
    まつの利家に対する言葉「人を召し抱えて育てることこそ肝要と。それなのに金銀をお抱えになっている。国治ってからでも遅くはないのに、そんなに金銀が愛おしいなら、それらに槍を持たせて召し連れさなれませ。金銀に槍を突かせば宜しかろう」
ーおまつ(芳春院)と子供
    13歳で初産、2男9女を産んだが、京都、江戸に長く住む。
    関ヶ原の戦いお前夜、徳川の人質として江戸に降る。利長は東軍に就く。
    まつは利長に対して叱咤「侍は家を建てることが第一、おい先短い私には、人質に行く以上、覚悟はできています。決して私のことを思って家を潰してはなりません。母を捨てても構いません」と14年間、利長が亡くなるまで江戸に
    利長が亡くなった後、金沢に帰省、だが3年後に金沢で亡くなる
    利家の三女摩阿姫(柴田家佐久間十蔵と婚姻)その後秀吉の側室となり、秀吉没後は万里小路家を継ぐ(34年の生涯)
    利家の四女豪姫は秀吉の養女となり、豪姫16歳は宇喜多秀家の正室として婚姻
    徳川幕府で夫と子供二人は八丈島へ島流、豪姫は娘二人と前田家に戻る、61歳没、
        (明治になり恩赦をもらい釈放されるが夫は83歳で没)
        秀吉の言葉「男であったら関白の地位を与えようものを」
参勤交代
    加賀藩の参勤交代は合計227回、12泊13日~15泊16日の日程で参加者は2千名から3千5百名、費用は現代の金額で2億円+諸々の経費=約8億円
ー金沢文化
    五代綱紀になって積極的に許文化を導入し独特の金沢文化を築き上げる
    楽焼き、友禅、、宝生流の能、美術の本阿弥光悦、画家の狩野探幽、金工家の後藤程乗
    前田家に残る遺産は唯一成巽閣の建物が現存
    金沢城での石管を使ったサイホン技術(バテレンの築城技術採用)


北条家の敗北要因を知る『小田原合戦』

2024-09-09 07:44:17 | 歴史から学ぶ
北条家の敗北要因:北条氏は広大な領土関八州での佐竹氏や宇都宮市などと攻撃・協定・和睦・敗退の繰り返していたこと、また最後まで家康との協定を堅持させたいと思ったが秀吉の人質(家康への秀吉の妹・母を人質に出し家康が秀吉の配下)で強力な人脈補強不足で協定がぐらついた。更に伊達政宗からの支援が無くあっけなく敗北した経緯がある。だが、北条家の敗北の内部的根本は氏照と氏直との軋轢、氏照の八王子城を見捨て当主を欠いた弱腰戦略と小田原城での各拠点の戦力のない人質含め4万人以上が籠城していたことだ。現代、北条氏の敗北で学ぶ事は、企業の弱点は必ずや内部からの告発・抗争・派閥争いなどの要因が外的要因と重なった時に大きな動きとなることだ。それはマスメディアとの不和だったり、自我自尊が強く競争相手との不順な戦略が命取りになる事だろう。
『小田原合戦』下山治久
「概要」後北条氏はなぜ秀吉から攻略を受けたのか。小田原合戦における後北条氏の動向を近年の戦国史研究の成果をもとに解明。秀吉の天下統一戦における小田原合戦の歴史的意義を探る。
ー北条家にとっての脅威・小田原合戦への予兆
    北条家は伊豆、相模、武蔵、下総、上総、駿河、下野、上野を支配(関八州)
    北条氏政は武田勝頼に妹をとがせ織田に対抗意識を持たせる
        周りに囲まれた敵国、今川・武田・織田・徳川・関東周辺に広がった反北条軍勢
    織田が今川義元を桶狭間の戦いで破り徳川家康と同盟を結ぶ
    甲斐・信濃の守護職の武田勝頼は織田・徳川・北条で包囲され敗北(長篠の合戦)
    今川・織田・武田の3国の当主がそれぞれ亡くなり国替えの時期を迎えた
    織田は滝川一益に関東官領職を与え北条領土を攻め関東一円での勢力を拡大
    北条は甲州武田での攻めで徳川との和睦協定(徳川の督姫を北条氏直に嫁がせる)
    徳川は三河、遠江、駿河、信濃、甲斐の5カ国を領土とする大名になる
    秀吉vs徳川での長久手の戦いには北条は参画せず関東一円での佐竹らと小競り合い
    秀吉と家康の和睦で北条は脅威であったが家康の支援、伊達政宗へも同名の期待した
    北条氏直は鉄砲の装備に力をいれる(鉄砲は主に近畿地方のみで硝煙材料は輸入品)
    秀吉が関白になり真田昌幸が織田を離反し北条はこぞって家康の味方に馳せ参じる
    秀吉と家康との和睦・人質条件(妹の朝日を嫁がせ、母を人質)で秀吉の配下となる
    秀吉は全国に「惣無事令」(紛争処理・交戦権を関白が命令)で北条を押さえつける
    北条は防衛の為の小田原・八王子普請を急がせ秀吉に対しての対抗姿勢を出す
    農兵徴用命令を出すなど武器兵糧などの備蓄も万全体制を敷く
    上野の沼田城の領有権で北条氏と真田昌幸の領土策定問題が秀吉の怒りを駆った
    1589年11月24日から秀吉は北条攻めの準備を開始
        秀吉軍21万騎に対して北条軍3万42百騎(地方を入れて10万騎という説)
    秀吉による全国統一の総仕上げとして小田原合戦が始まる
        12月25日の韮山城を攻めたが長期戦の覚悟、20万石の兵糧と2万枚の黄金
        箱根峠など容易く突破し小田原城を包囲(小田原城には約10万の人が籠城)
        1590年4月27日江戸城開放など家康の快進撃、関東奥地の多くの城を陥落
        6月22日秀吉の一夜城構築・石垣城は80日で建設
ー小田原城の陥没
    5月22日岩槻城が陥落、家康は下総、上総などの諸城を陥落させた
    八王子城の城主氏照が人質をとって小田原城へ、八王子城は僅か半日で滑落
        八王子城に残った兵は4千人ほどで前田、上杉、真田の5万の大群で攻撃を受けた
    秀吉の訓戒で前田利家など一時謹慎処分となる(小さい城だけを攻撃したこと)
    小田原城主氏直と氏照との軋轢による戦略総意の仲違い
    1590年7月11日小田原城開城、忍城も、山中城も3ヶ月後開城となる
    氏政、氏照、松田憲秀、大道寺政繁は切腹、氏政は家康の督姫と離縁後、高野山へ追放
    関東6カ国を家康に与え信濃は真田、甲斐は加藤、伊達政宗は秀吉の配下となる


歴史の学びは崩壊理由『家康の誤算』

2024-09-06 07:39:46 | 歴史から学ぶ
徳川幕府が崩壊した理由が多く語られているが最もな理由は「時代と共に環境が代わり、人が変わることでの弊害をその都度「法の緩和」で乗り越えた。だが多くの緩和策がより平等と自由を求めて動いたと見る。現代でも「法と規則の緩和と新たな法・規則交付」無くして改革もなく国、国民が前に進むことがないと感じる。ただ、現状にあぐらを描いて何もしないことで全てに世界から乗り遅れた日本、政治家だけの自己主義、自己満足的な政治家、政策活動等は断絶すべきだ。
『家康の誤算』磯田道史
「概要」二百六十五年の平和――その体制を徳川家康がつくり上げることができたのは、波瀾万丈の人生と、天下人織田信長・豊臣秀吉の「失敗」より得た学びがあったからだった……。しかし盤石と思われたその体制は、彼の後継者たちによって徐々に崩され、幕末、ついに崩壊する。“神君”家康にとっての「誤算」を、近世から近代まで俯瞰して読み解くと共に、彼がこの国に与えた影響に迫る!
ー徳川家康
    三河岡崎松平家の3強国(尾張の織田、甲斐の武田、駿河の今川)
    桶狭間の今川帝国が没、本能寺で織田が没、長篠・病気で武田が没
    秀吉の配下となるが大阪の陣で武家社会を確立する
    武家諸法度・禁中ならびに公家諸法度(朝廷と徳川政権を分離確立)
    「鎖国」は家康の政策ではなく三代将軍家光の時代
徳川幕府が崩壊したその理由
    「改易制度の緩和」(大名等の取りつぶしなどを取り締まる)
        由井正雪の乱で幕府等への不満・雄藩外様大名等の強大化(長州・薩摩)
    「人質制度の廃止」藩主の正室と嫡子を江戸の置く制度
    「参勤交代の緩和」諸藩での経費節約備蓄
    「城と大船建造解禁」「海軍禁止令の廃止」諸藩の軍事面を弱体化させる政策
    「通貨の鋳造許可」諸藩での鋳造許可を出し、有力藩が財力を蓄え始める
    「外交不安定」諸藩が諸外国との密約・最新兵器など購入し始める
    「決定力低下」諸外国からの提言に朝廷など諸大名の意見を聞き始める(パンドラ箱)
        天皇や朝廷をうまく利用することで幕政に意見を言い始める
        錦の御旗を討幕派の悪知恵で掲げる
    一橋家・会津藩・桑名(一・会・桑)vs 藩薩摩、長州、土佐、肥前
        イギリス等から最新武器を手にした諸藩の協力体制
    皇族に対する政策は生殖管理(僧侶)、家康(東照)としての祀り事を天皇より長く
        鳴物停止令(崩御後音を立てない慰問日程を将軍を天皇より2倍)
    朱子学(忠義・親孝行)を推奨、キリストを禁止、天皇=伊勢神宮も世直しする寸前
        幕末からは儒学、陽明学(革命思想)が蔓延る
    学びの会(書画会・物産会など)知識人と芸術家などの集会・サロンが盛んになる
    藩による教育改革(熊本藩、米沢藩、会津藩、津山藩、佐賀藩など)相続から実力主義
ー新政府による骨格経緯
    「旧幕臣の採用」
    印旛・鳥取藩、肥前・佐賀藩など大砲などの鋳造、教育に長けていたが幕末で採用
    隠棲中の岩倉具視、土佐藩の中岡慎太郎、坂本龍馬らが大久保利通、西郷隆盛を煽った
    明治4年から2年間海外視察でリーダー不在中に西郷、板垣、大隈などが断行
        地租改正(排他的所有権:自作農家を認める)・学制(教員配置)・徴兵令
「人の価値とは、その人が得たモノではなく、その人が与えたモノで測られる」
「徳川時代は法が厳しいかったことで犯罪者が少ない=躾けられた国民」
「徳川の時代は正直さと和を大切に、真っ正直な心を高めた時代」


賢い「目利き」による偽装『偽装の商法』

2024-09-03 07:43:57 | 歴史から学ぶ
井原西鶴が見定めた「偽装」商売は現代でも品、形を変え頻繁に起こっている。その根底は人間の欲が貪欲に変わる時に起こる。不思議なのは「目利き」による評価などモノによって大きく価値変化する事である。「知らぬは仏」でも知って大儲けする商人が江戸時代からも多くいた、西鶴の鋭い感覚「永代蔵」は大いに称賛する。
『偽装の商法』堀切実
「概要」後を絶たない偽装事件。江戸に暮らした人々も、同じような目に遭っていた。西鶴の鋭い観察眼を通して、偽物を見抜く力を養う一冊。
井原西鶴の「日本永代蔵」にある人間観察・人批判の短編を現代に照らし合わせ紹介する
 江戸時代でも多くあった「偽装」事件等を紹介(騙しの術・模様)
偽装商法
 ・「お茶を飲むと十の徳がある」と欲を出しお茶の煮殻を茶に混ぜて暴利
    消費者の欲望を満たそうとする手段・市場原理主義をうまく利用(偽装した商品販売)
 ・偽薬で資金稼ぎ(妙薬の主成分を変える不道徳)
    反道徳的な行為とが背中合わせ(狼の主成分を犬に変えて製造)
 ・ブランド偽装商法
    著名な川魚の原材料を変えて売る(主成分が違う製品をブランド名をつけて販売)
ファンド(利益追求第一の詐欺的商法)
 ・お宝を見つけ見聞きのある商売人に販売(屏風にある菅原定家の色紙を手に入れる)
 ・価値あるご開帳を手に入れて目利きに暴利で販売(長谷観音寺での時代モノ発見)
 ・伊勢神宮にお参りに来る客に神楽料、土産品、籠サービスなどを暴利
 ・高利で儲ける借金ファンド
    欲望資本主義から利の追求、富の獲得に動く。「目利き」をうまく利用
アイデア商法
 ・越後屋三井九右衛門の「現金・切り売り・掛け値なし」で商売
 ・捕鯨捕獲技術で儲けた天狗源内(熊野国で槍から網の手法で鯨を捕獲)
 ・紅染め技術で染物屋で儲ける
 ・金平糖を製造法を編み出し一台を築いた商人(長崎町人)
 ・包装で味噌小売りで大儲け(蓮の葉で包みは小売)
保険金殺人事件
 ・親の遺産を目当てに悪徳金融ブローカー(放漫息子に貸付)
 ・遺言に偽り金額を大増ししたことで兄弟相続に殺傷事件
    相続権利が平等になったのは戦争後、それまでは家長(長男)を優先していた歴史
    常識から非常識、真実の善から悪へ
金の魅力
    商売人同士、兄弟同士など競争意識からの金銭問題(金銭への欲)が発生するが、苦しい経済社会における金銭の魔力、あるいは人間の欲望の金銭への集中化が見える


「歴史の証言」真実を見極める『語れざる昭和史』

2024-09-01 07:48:05 | 歴史から学ぶ
「歴史の証言」とは「訊くのではなく聞こえる瞬間」に語れる言葉、と著者は言う。「無名の人々の足跡こそが歴史だ」と言う言葉に賛同する。歴史は勝者が作るがその舞台を作った(消された)多くの立役者・人々が埋もれている事を知っておきたい。この本書にある「戦後の日本の歴史を造った笠井重治(影の実力者)」は、日米・日中交渉で影のフィクサー役、当時の昭和天皇、マッカーサー、周恩来など歴史を作った影にはこの人物の人脈と知力「情報」なしでは成り得なかったこと、歴代の国家主要人物から超重要視された人物だった事を知っておくべきだ。そろそろ昭和初期の真の歴史を語る人々が出てくると信じたい。
『語られざる昭和史』七尾和晃
『概要』太平洋戦争によって被害を受けた人々による証言など、これまで語られなかった記憶を集め、戦後日本の知られざる昭和の姿を描き出す
ー戦後、言い伝えがされなかった事柄・証言をまとめた本書
「戦死・死亡通知」「おがみ屋」と言う霊能者、霊媒師、祈祷師を頼り夫の生存の期待を寄せた
「大空襲」大火から逃げ生き抜いた女性。空襲で川へ向かった人々は多くが死人となった
    「火の手が背になるように一心でひたすら走り続けた」「家が燃え落ちた所へ逃げた」
「二つのピカドン」広島、長崎の2つ原爆に遭遇したがなんとか生き残った
    「川の方を見るとどんどんどんどん死んだ人間が流れてきた、まるで人間の筏だ」
「原爆孤老の悲しき唄」原爆で潰され燃焼した家には妹と弟がいた
    「弟は潰れる家から逃れようと体の上半分が燃えずに残っていた」
「敗北者たちの収容所」サイパン島での米軍の収容所待遇
    テニアンには日本人捕虜が1万5千人そのうち4千2百人が子供だった
    収容所での軍関係の仕事も強制ではなく活動し賃金ももらえた
「アマゾンに渡った我が娘」戦後多くの混血孤児が生まれた
    エリザベスサンダースホーム(1948年設立)岩崎久弥の長女沢田美喜
    日本社会の偏見からアマゾンに移住して生活させた
「帰還事業の果て」北朝鮮の夫と北朝鮮での生活苦
    北朝鮮で二人の子供を産み現地で生活、途中夫が捕縛され行方不明
    生活保護もなくどん底の生活に苦労し帰国したが子供を思い再び北朝鮮へ
「戦後、上野地下での生活」飢え死に
「夜這い」風習が消えた田舎(夜這いとは夜男が女の家へ通う習わし)
「笠井重治」1886年山梨県南巨魔郡出身、米国ハーバード卒
日米平和交渉、日中国交正常化など日本の首相田中角栄など影の力となって政治を扇動してきた超重要人物。 戦後マッカーサーへの日本の象徴である天皇の在位などを提言し、中国とのパイプから周恩来へのアプローチなど「情報屋」(米国のCIAスパイとしての噂)米中の関係正常化で裏の密使として活躍した。その後日米文化振興会などを立ち上げ様々な友好関係を築いた