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求める思想文化は時代と共に変わる『雲と風と 伝教大師最長の生涯』

2024-09-30 07:32:50 | 歴史から学ぶ
最澄と空海、日本の仏教の礎を築いた僧侶の人生は、国を司る桓武天皇、嵯峨天皇により左右されていたことを改めて知る。政治と宗教がどこかで頼り合い、ぶつかり合う姿を本書で詳しく知る事で人間の愚かさ、脆さを知ることが出来る。桓武天皇は「呪い・祟り」で悩まされ、もがき求め、嵯峨天皇は時代の仏教文化の素晴らしさを探し求めたと言う、それが「法華経」vs「密教」であり、時代とともに人々の求める仏教思想も変わるということ。
『雲と風と 伝教大師最長の生涯』永井路子
「概要」比叡山延暦寺を創建、天台宗の開祖となった最澄。激動の時代の中、最澄は、長岡京の遷都に失敗した桓武天皇を支えながら、桓武の魂を救済することが、国家を救うと尽力する。仏教の本質を求め続けた最澄の生涯を、直木賞作家の永井路子が描く。男性的目線になりがちな歴史人物や歴史事件を解きほぐし、その陰になりがちな女性にも焦点をあて、歴史上の人物、出来事を鮮やかに浮かび上がらせる作風は、歴史小説に新風を巻き込んだものと評価されている。
ー7歳にして陰陽、医方、工巧を学び、12歳にして旅立ち、国分寺に入り、15歳で法華経の経典を読みこなし、18歳にして僧侶沙弥(五戒)になる。(五戒:人を殺し、嘘をつき、盗みをしてはならない、更に高い寝床で寝てはいけない、歌舞音曲を聴いたりしてはいけない)
ー784年の仏教界は存続を拒否され、光仁天皇の死後、謀反事件発覚、桓武天皇が実権を握る
    桓武天皇の独裁者の風貌を見せ始める、奈良王朝から長岡遷都へ
    仏教政策の見直し(政権と仏教・寺の政教分離:政治は長岡、精神文化は近江)
    宮大工指導者の暗殺から遷都に非協力だった天皇の弟を主犯と断定、拘束、憤死
    (早良親王は主犯を拒否、食事を一切拒否したことで死人となり淡路に埋葬させる)
    新都では洪水による氾濫、日照りで収穫不足、蝦夷出兵敗北、皇太子安殿が流行病に
    早良親王の呪い避け等で新都(平安京)へと決意
ー785年に近江国分寺が焼失で帰るところがなく叡山へ向かう。6年後空海が大学を辞める。
    最澄は天台数学の研究に没頭(師匠の智覬に習う:中国仏教界の最高峰の一人・法華経)
    桓武天皇が梵釈寺に仏教の研究所をつくったことは励みになる
    最澄は12年間籠山し、止観の真髄を体得(苦行をしたとの説)
    桓武天皇等が懺悔することでの呪の沈静化をはかり、最澄は中国遣唐使となる
ー793年桓武天皇57歳で気弱となりようやく仏教・仁王経を講じさせ新宮殿に僧を招く
    794年遷都計画「平安京」とし最澄の建てた一乗止観院で桓武天皇が臨んだ
    805年桓武天皇は僧侶への肩書を認め、桓武は持戒の清僧を求めた(浄化・懺悔法)
        井上皇后の巫蠱、早良親王の謀反など怨霊思想・懺悔陰陽道・仏教を求めた
803年遣唐使として命名される(桓武天皇67歳・病牀)
    法華三昧・法華懺法の体得(菩薩戒)
    「戒」仏教の3本柱:戒・定(禅)・慧(知識)
    最澄の中国での学びは桓武天皇には届かず空海の密教が支持されるようになる
ー809年桓武天皇の死後、平城天皇(3年1ヶ月で退位)は行政の簡素化・緊縮政策を進め
    平城天皇も桓武天皇と同じ過去の呪いで悩まされ嵯峨天皇に譲位する
        嵯峨天皇は藤原冬嗣に任せ今までの側近・天台の奥義などを変えてしまった
        農民の課役の軽減、救貧政策等を中心に改革、律令制方の脱皮
812年 空海は嵯峨天皇からの知遇を受けるようになる
        最澄と桓武天皇は「魂の救済」を求めたが嵯峨天皇は空海から文化面を重視
        空海により優雅華麗な嵯峨朝での文才が好まれた
        空海はのちに伝燈大法師に叙せられ内供泰十禅師、東寺の大僧都へと出世する
ー813年最澄は空海40歳(密教)との衝突・嵯峨天皇が密教を奨励(千眼千臂経)
        長安の都では密教一色であり天台などは時代遅れだとした
        空海は1年余りで卒業したが最澄、あなたは3年かかりますと言い張った
    最澄は密教経典も学ぼうとしたが、空海は天台と真言密教は全く別物だとした
    最澄は弟子泰範にも裏切られ東国へ旅立つ「時代が変わったのだ」と悟る
        最澄と桓武天皇との関係は「外護者」だったことで桓武亡き不幸が始まった
        最澄の弟子として残ったのは14人のうち6人となり諸国を巡遊し修行する
        最澄の弟子広智の弟子がその後比叡4代座主安恵となる
    その後比叡に学んだ僧は法然、親鸞、道元、日蓮がいる
法華経(菩薩)
    「高い悟りの段階に達したものが観音菩薩、普賢菩薩であり、大乗仏教の時代になると人間は誰でも悟りに近づく、つまり誰でも仏になれると言う考えが始まった。それには人は利己心を捨てて、他人のために尽くすという慈悲心の持ち主になるべきだ」と最澄は説いた。最澄の遺言は「我がために仏を作ること勿れ。我がために経を写すこと勿れ。我が志を述べよ」


家計を守り抜く妻の役目『おまつと利家』

2024-09-20 07:56:44 | 歴史から学ぶ
加賀百万石、創設者前田利家とまつの時代(織田・秀吉・徳川)3代に仕えた前田家は子沢山の家系で妻のまつの役割と人生の選択は多難だったと感じる。特に賤ヶ丘の戦い後の前田家の秀吉と徳川に対する立ち位置と血縁関係(秀吉へ豪姫、秀忠から珠姫)は複雑で関ヶ原戦いでまつは自ら徳川の人質になり江戸に赴く。その時利長への叱咤は「侍は家を建てることが第一、おい先短い私には、人質に行く以上、覚悟はできています。決して私のことを思って家を潰してはなりません。母を捨てても構いません」と14年間、利家の臨終には立ち会えず、長男利長が亡くなるまで、決断と強い意志は素晴らしい「国母」であったと思う。
『おまつと利家』集英社
「概要」夫婦の二人三脚で築き上げた大大名の地位。夫・利家亡きあと訪れた危機。人質として江戸に下る前田家のお袋様・おまつを中心に、加賀百万石を守った家族の物語をつづる。
ー前田家400年の基礎作りは
    利家は愛知郡新子の生まれで荒子城主前田利昌の4男、15歳で元服、信長に仕える
    織田信長の家臣として秀吉、利家は家臣として一緒に行動を共にする
    越前での地で1万石の所領を得て柴田勝家に従った
    利家は佐久間盛政との生涯2度の戦い、末森城の合戦で佐々成政で勝利
    賤ヶ岳の戦いで柴田と協力して戦いを始めたがその後秀吉側に参画、柴田勝家は滅亡
        利家と利長は柴田軍と出陣(3万)vs秀吉軍(7万5千)
        織田信孝が反旗を翻したことで秀吉が大垣に急行、そこを狙って佐久間盛政が反撃
        秀吉は急遽取って返し佐久間成政と柴田軍が対決する
        利家は退却し両者との戦いを辞めた(嫁の関係)
 ー秀吉と利家 寧々とまつ 緊密な友好関係を築いていた
        子供が11人(2男9女)、麻阿姫は秀吉の側室に、豪姫は宇喜多の養女
        その他の女は全て前田家の家臣に嫁がせた
        利長は信長の娘永姫を正室に、本能寺編後秀吉に仕えて中納言に昇進
        秀吉の死後、数ヶ月後利家も亡くなり、家康は前田家に謀反(暗殺容疑)を掛ける(家康にとっては前田家は次なる脅威の相手だった)
    家康との関係は秀吉没後の二代目利長の時代にまつは人質となり京から江戸に住む
        秀忠の二女珠姫と利常との婚儀、利長は44歳で隠遁、53歳服毒自殺説
        (珠姫3歳、利常9歳と言う婚姻関係を作る、その後3男5女を出産)
        珠姫は24歳で没、利常は53歳で没
        隠遁した利長は謀叛を隠すため「鼻毛」を伸ばし水ぼらしい姿をわざと見せていた
ー金沢城
    加賀藩十四代300年続く城下町には1583年に能登七尾の小丸山城から入城
    明治14年には失火で石川門と30軒長屋のみ残り焼失、その後軍隊の師団基地とした
末森城の戦いでの言葉
    まつの利家に対する言葉「人を召し抱えて育てることこそ肝要と。それなのに金銀をお抱えになっている。国治ってからでも遅くはないのに、そんなに金銀が愛おしいなら、それらに槍を持たせて召し連れさなれませ。金銀に槍を突かせば宜しかろう」
ーおまつ(芳春院)と子供
    13歳で初産、2男9女を産んだが、京都、江戸に長く住む。
    関ヶ原の戦いお前夜、徳川の人質として江戸に降る。利長は東軍に就く。
    まつは利長に対して叱咤「侍は家を建てることが第一、おい先短い私には、人質に行く以上、覚悟はできています。決して私のことを思って家を潰してはなりません。母を捨てても構いません」と14年間、利長が亡くなるまで江戸に
    利長が亡くなった後、金沢に帰省、だが3年後に金沢で亡くなる
    利家の三女摩阿姫(柴田家佐久間十蔵と婚姻)その後秀吉の側室となり、秀吉没後は万里小路家を継ぐ(34年の生涯)
    利家の四女豪姫は秀吉の養女となり、豪姫16歳は宇喜多秀家の正室として婚姻
    徳川幕府で夫と子供二人は八丈島へ島流、豪姫は娘二人と前田家に戻る、61歳没、
        (明治になり恩赦をもらい釈放されるが夫は83歳で没)
        秀吉の言葉「男であったら関白の地位を与えようものを」
参勤交代
    加賀藩の参勤交代は合計227回、12泊13日~15泊16日の日程で参加者は2千名から3千5百名、費用は現代の金額で2億円+諸々の経費=約8億円
ー金沢文化
    五代綱紀になって積極的に許文化を導入し独特の金沢文化を築き上げる
    楽焼き、友禅、、宝生流の能、美術の本阿弥光悦、画家の狩野探幽、金工家の後藤程乗
    前田家に残る遺産は唯一成巽閣の建物が現存
    金沢城での石管を使ったサイホン技術(バテレンの築城技術採用)


北条家の敗北要因を知る『小田原合戦』

2024-09-09 07:44:17 | 歴史から学ぶ
北条家の敗北要因:北条氏は広大な領土関八州での佐竹氏や宇都宮市などと攻撃・協定・和睦・敗退の繰り返していたこと、また最後まで家康との協定を堅持させたいと思ったが秀吉の人質(家康への秀吉の妹・母を人質に出し家康が秀吉の配下)で強力な人脈補強不足で協定がぐらついた。更に伊達政宗からの支援が無くあっけなく敗北した経緯がある。だが、北条家の敗北の内部的根本は氏照と氏直との軋轢、氏照の八王子城を見捨て当主を欠いた弱腰戦略と小田原城での各拠点の戦力のない人質含め4万人以上が籠城していたことだ。現代、北条氏の敗北で学ぶ事は、企業の弱点は必ずや内部からの告発・抗争・派閥争いなどの要因が外的要因と重なった時に大きな動きとなることだ。それはマスメディアとの不和だったり、自我自尊が強く競争相手との不順な戦略が命取りになる事だろう。
『小田原合戦』下山治久
「概要」後北条氏はなぜ秀吉から攻略を受けたのか。小田原合戦における後北条氏の動向を近年の戦国史研究の成果をもとに解明。秀吉の天下統一戦における小田原合戦の歴史的意義を探る。
ー北条家にとっての脅威・小田原合戦への予兆
    北条家は伊豆、相模、武蔵、下総、上総、駿河、下野、上野を支配(関八州)
    北条氏政は武田勝頼に妹をとがせ織田に対抗意識を持たせる
        周りに囲まれた敵国、今川・武田・織田・徳川・関東周辺に広がった反北条軍勢
    織田が今川義元を桶狭間の戦いで破り徳川家康と同盟を結ぶ
    甲斐・信濃の守護職の武田勝頼は織田・徳川・北条で包囲され敗北(長篠の合戦)
    今川・織田・武田の3国の当主がそれぞれ亡くなり国替えの時期を迎えた
    織田は滝川一益に関東官領職を与え北条領土を攻め関東一円での勢力を拡大
    北条は甲州武田での攻めで徳川との和睦協定(徳川の督姫を北条氏直に嫁がせる)
    徳川は三河、遠江、駿河、信濃、甲斐の5カ国を領土とする大名になる
    秀吉vs徳川での長久手の戦いには北条は参画せず関東一円での佐竹らと小競り合い
    秀吉と家康の和睦で北条は脅威であったが家康の支援、伊達政宗へも同名の期待した
    北条氏直は鉄砲の装備に力をいれる(鉄砲は主に近畿地方のみで硝煙材料は輸入品)
    秀吉が関白になり真田昌幸が織田を離反し北条はこぞって家康の味方に馳せ参じる
    秀吉と家康との和睦・人質条件(妹の朝日を嫁がせ、母を人質)で秀吉の配下となる
    秀吉は全国に「惣無事令」(紛争処理・交戦権を関白が命令)で北条を押さえつける
    北条は防衛の為の小田原・八王子普請を急がせ秀吉に対しての対抗姿勢を出す
    農兵徴用命令を出すなど武器兵糧などの備蓄も万全体制を敷く
    上野の沼田城の領有権で北条氏と真田昌幸の領土策定問題が秀吉の怒りを駆った
    1589年11月24日から秀吉は北条攻めの準備を開始
        秀吉軍21万騎に対して北条軍3万42百騎(地方を入れて10万騎という説)
    秀吉による全国統一の総仕上げとして小田原合戦が始まる
        12月25日の韮山城を攻めたが長期戦の覚悟、20万石の兵糧と2万枚の黄金
        箱根峠など容易く突破し小田原城を包囲(小田原城には約10万の人が籠城)
        1590年4月27日江戸城開放など家康の快進撃、関東奥地の多くの城を陥落
        6月22日秀吉の一夜城構築・石垣城は80日で建設
ー小田原城の陥没
    5月22日岩槻城が陥落、家康は下総、上総などの諸城を陥落させた
    八王子城の城主氏照が人質をとって小田原城へ、八王子城は僅か半日で滑落
        八王子城に残った兵は4千人ほどで前田、上杉、真田の5万の大群で攻撃を受けた
    秀吉の訓戒で前田利家など一時謹慎処分となる(小さい城だけを攻撃したこと)
    小田原城主氏直と氏照との軋轢による戦略総意の仲違い
    1590年7月11日小田原城開城、忍城も、山中城も3ヶ月後開城となる
    氏政、氏照、松田憲秀、大道寺政繁は切腹、氏政は家康の督姫と離縁後、高野山へ追放
    関東6カ国を家康に与え信濃は真田、甲斐は加藤、伊達政宗は秀吉の配下となる


歴史の学びは崩壊理由『家康の誤算』

2024-09-06 07:39:46 | 歴史から学ぶ
徳川幕府が崩壊した理由が多く語られているが最もな理由は「時代と共に環境が代わり、人が変わることでの弊害をその都度「法の緩和」で乗り越えた。だが多くの緩和策がより平等と自由を求めて動いたと見る。現代でも「法と規則の緩和と新たな法・規則交付」無くして改革もなく国、国民が前に進むことがないと感じる。ただ、現状にあぐらを描いて何もしないことで全てに世界から乗り遅れた日本、政治家だけの自己主義、自己満足的な政治家、政策活動等は断絶すべきだ。
『家康の誤算』磯田道史
「概要」二百六十五年の平和――その体制を徳川家康がつくり上げることができたのは、波瀾万丈の人生と、天下人織田信長・豊臣秀吉の「失敗」より得た学びがあったからだった……。しかし盤石と思われたその体制は、彼の後継者たちによって徐々に崩され、幕末、ついに崩壊する。“神君”家康にとっての「誤算」を、近世から近代まで俯瞰して読み解くと共に、彼がこの国に与えた影響に迫る!
ー徳川家康
    三河岡崎松平家の3強国(尾張の織田、甲斐の武田、駿河の今川)
    桶狭間の今川帝国が没、本能寺で織田が没、長篠・病気で武田が没
    秀吉の配下となるが大阪の陣で武家社会を確立する
    武家諸法度・禁中ならびに公家諸法度(朝廷と徳川政権を分離確立)
    「鎖国」は家康の政策ではなく三代将軍家光の時代
徳川幕府が崩壊したその理由
    「改易制度の緩和」(大名等の取りつぶしなどを取り締まる)
        由井正雪の乱で幕府等への不満・雄藩外様大名等の強大化(長州・薩摩)
    「人質制度の廃止」藩主の正室と嫡子を江戸の置く制度
    「参勤交代の緩和」諸藩での経費節約備蓄
    「城と大船建造解禁」「海軍禁止令の廃止」諸藩の軍事面を弱体化させる政策
    「通貨の鋳造許可」諸藩での鋳造許可を出し、有力藩が財力を蓄え始める
    「外交不安定」諸藩が諸外国との密約・最新兵器など購入し始める
    「決定力低下」諸外国からの提言に朝廷など諸大名の意見を聞き始める(パンドラ箱)
        天皇や朝廷をうまく利用することで幕政に意見を言い始める
        錦の御旗を討幕派の悪知恵で掲げる
    一橋家・会津藩・桑名(一・会・桑)vs 藩薩摩、長州、土佐、肥前
        イギリス等から最新武器を手にした諸藩の協力体制
    皇族に対する政策は生殖管理(僧侶)、家康(東照)としての祀り事を天皇より長く
        鳴物停止令(崩御後音を立てない慰問日程を将軍を天皇より2倍)
    朱子学(忠義・親孝行)を推奨、キリストを禁止、天皇=伊勢神宮も世直しする寸前
        幕末からは儒学、陽明学(革命思想)が蔓延る
    学びの会(書画会・物産会など)知識人と芸術家などの集会・サロンが盛んになる
    藩による教育改革(熊本藩、米沢藩、会津藩、津山藩、佐賀藩など)相続から実力主義
ー新政府による骨格経緯
    「旧幕臣の採用」
    印旛・鳥取藩、肥前・佐賀藩など大砲などの鋳造、教育に長けていたが幕末で採用
    隠棲中の岩倉具視、土佐藩の中岡慎太郎、坂本龍馬らが大久保利通、西郷隆盛を煽った
    明治4年から2年間海外視察でリーダー不在中に西郷、板垣、大隈などが断行
        地租改正(排他的所有権:自作農家を認める)・学制(教員配置)・徴兵令
「人の価値とは、その人が得たモノではなく、その人が与えたモノで測られる」
「徳川時代は法が厳しいかったことで犯罪者が少ない=躾けられた国民」
「徳川の時代は正直さと和を大切に、真っ正直な心を高めた時代」


賢い「目利き」による偽装『偽装の商法』

2024-09-03 07:43:57 | 歴史から学ぶ
井原西鶴が見定めた「偽装」商売は現代でも品、形を変え頻繁に起こっている。その根底は人間の欲が貪欲に変わる時に起こる。不思議なのは「目利き」による評価などモノによって大きく価値変化する事である。「知らぬは仏」でも知って大儲けする商人が江戸時代からも多くいた、西鶴の鋭い感覚「永代蔵」は大いに称賛する。
『偽装の商法』堀切実
「概要」後を絶たない偽装事件。江戸に暮らした人々も、同じような目に遭っていた。西鶴の鋭い観察眼を通して、偽物を見抜く力を養う一冊。
井原西鶴の「日本永代蔵」にある人間観察・人批判の短編を現代に照らし合わせ紹介する
 江戸時代でも多くあった「偽装」事件等を紹介(騙しの術・模様)
偽装商法
 ・「お茶を飲むと十の徳がある」と欲を出しお茶の煮殻を茶に混ぜて暴利
    消費者の欲望を満たそうとする手段・市場原理主義をうまく利用(偽装した商品販売)
 ・偽薬で資金稼ぎ(妙薬の主成分を変える不道徳)
    反道徳的な行為とが背中合わせ(狼の主成分を犬に変えて製造)
 ・ブランド偽装商法
    著名な川魚の原材料を変えて売る(主成分が違う製品をブランド名をつけて販売)
ファンド(利益追求第一の詐欺的商法)
 ・お宝を見つけ見聞きのある商売人に販売(屏風にある菅原定家の色紙を手に入れる)
 ・価値あるご開帳を手に入れて目利きに暴利で販売(長谷観音寺での時代モノ発見)
 ・伊勢神宮にお参りに来る客に神楽料、土産品、籠サービスなどを暴利
 ・高利で儲ける借金ファンド
    欲望資本主義から利の追求、富の獲得に動く。「目利き」をうまく利用
アイデア商法
 ・越後屋三井九右衛門の「現金・切り売り・掛け値なし」で商売
 ・捕鯨捕獲技術で儲けた天狗源内(熊野国で槍から網の手法で鯨を捕獲)
 ・紅染め技術で染物屋で儲ける
 ・金平糖を製造法を編み出し一台を築いた商人(長崎町人)
 ・包装で味噌小売りで大儲け(蓮の葉で包みは小売)
保険金殺人事件
 ・親の遺産を目当てに悪徳金融ブローカー(放漫息子に貸付)
 ・遺言に偽り金額を大増ししたことで兄弟相続に殺傷事件
    相続権利が平等になったのは戦争後、それまでは家長(長男)を優先していた歴史
    常識から非常識、真実の善から悪へ
金の魅力
    商売人同士、兄弟同士など競争意識からの金銭問題(金銭への欲)が発生するが、苦しい経済社会における金銭の魔力、あるいは人間の欲望の金銭への集中化が見える


「歴史の証言」真実を見極める『語れざる昭和史』

2024-09-01 07:48:05 | 歴史から学ぶ
「歴史の証言」とは「訊くのではなく聞こえる瞬間」に語れる言葉、と著者は言う。「無名の人々の足跡こそが歴史だ」と言う言葉に賛同する。歴史は勝者が作るがその舞台を作った(消された)多くの立役者・人々が埋もれている事を知っておきたい。この本書にある「戦後の日本の歴史を造った笠井重治(影の実力者)」は、日米・日中交渉で影のフィクサー役、当時の昭和天皇、マッカーサー、周恩来など歴史を作った影にはこの人物の人脈と知力「情報」なしでは成り得なかったこと、歴代の国家主要人物から超重要視された人物だった事を知っておくべきだ。そろそろ昭和初期の真の歴史を語る人々が出てくると信じたい。
『語られざる昭和史』七尾和晃
『概要』太平洋戦争によって被害を受けた人々による証言など、これまで語られなかった記憶を集め、戦後日本の知られざる昭和の姿を描き出す
ー戦後、言い伝えがされなかった事柄・証言をまとめた本書
「戦死・死亡通知」「おがみ屋」と言う霊能者、霊媒師、祈祷師を頼り夫の生存の期待を寄せた
「大空襲」大火から逃げ生き抜いた女性。空襲で川へ向かった人々は多くが死人となった
    「火の手が背になるように一心でひたすら走り続けた」「家が燃え落ちた所へ逃げた」
「二つのピカドン」広島、長崎の2つ原爆に遭遇したがなんとか生き残った
    「川の方を見るとどんどんどんどん死んだ人間が流れてきた、まるで人間の筏だ」
「原爆孤老の悲しき唄」原爆で潰され燃焼した家には妹と弟がいた
    「弟は潰れる家から逃れようと体の上半分が燃えずに残っていた」
「敗北者たちの収容所」サイパン島での米軍の収容所待遇
    テニアンには日本人捕虜が1万5千人そのうち4千2百人が子供だった
    収容所での軍関係の仕事も強制ではなく活動し賃金ももらえた
「アマゾンに渡った我が娘」戦後多くの混血孤児が生まれた
    エリザベスサンダースホーム(1948年設立)岩崎久弥の長女沢田美喜
    日本社会の偏見からアマゾンに移住して生活させた
「帰還事業の果て」北朝鮮の夫と北朝鮮での生活苦
    北朝鮮で二人の子供を産み現地で生活、途中夫が捕縛され行方不明
    生活保護もなくどん底の生活に苦労し帰国したが子供を思い再び北朝鮮へ
「戦後、上野地下での生活」飢え死に
「夜這い」風習が消えた田舎(夜這いとは夜男が女の家へ通う習わし)
「笠井重治」1886年山梨県南巨魔郡出身、米国ハーバード卒
日米平和交渉、日中国交正常化など日本の首相田中角栄など影の力となって政治を扇動してきた超重要人物。 戦後マッカーサーへの日本の象徴である天皇の在位などを提言し、中国とのパイプから周恩来へのアプローチなど「情報屋」(米国のCIAスパイとしての噂)米中の関係正常化で裏の密使として活躍した。その後日米文化振興会などを立ち上げ様々な友好関係を築いた


「甘い汁を求め、負ければさっさと去る」同朋・党員『ヒトラーの側近たち』

2024-08-23 07:51:12 | 歴史から学ぶ
政治には世界情勢を熟知し即決断力が必須であり、素早く行動する力も必須である、また信頼する人材・部下を注視し公平平等評価しなければならないということ。ナチ・ヒトラーの敗北は無謀な計画を短期に実現させようと軍律・軍精神を乱す要因となった。特にSS下の野蛮で卑劣な行動(安楽死政策・ユダヤ人絶滅)が管理ができなかったことが挙げられる。最期には国も国民全てを犠牲にしてでも戦えと言う脅迫的命令など無謀な策も多発した、事だろうか。更なる要因は、経済復興などの戦略的策は寄与したが輸入に頼っていた燃料不足は日本の敗北と同じ致命的な欠陥などもあった。現代でこの戦争からの学びは、「独裁者」(政治家)とは最後には自分の都合を考え、私利私欲に走る。往々にして従者・協力者(同朋・党員)も勝者と優劣を選択し最後には私利私欲に動くと言うことだ。よって選挙で選ぶ選挙権の重要性を国民は重要視すべきなのだ。個人的な意見としては、今の政治家の特権から政治家は全て「完全ボランティア」(無償貢献)で毎年数百億円の予算を抑えることができる。(2020年で1080億円の経費・1日@約3億円)
『ヒトラーの側近たち』大澤武雄
「概要」ナチスの屋台骨である側近たち。ゲーリング、ヘス、ゲッベルス、ヒムラー……。独裁者の支配妄想を実現、ときに強化した彼らは、なぜ、どこで間違ったのか。
ーアドルフ・ヒトラー(1889~1945)ナチ党(国民社会主義ドイツ労働党)
1921年連合側はドイツに対する賠償支払い金額2520億マルク(後に1320億に減額)を定めに対して抗議デモが各地で起こりミュンヘンでも2万人の市民でもが起きる(市民の憤慨理由)
ーナチ党(未来か没落か)を問い同志たちが立ち上がり議員の数を増やして一党、ヒトラーが党首になる、だが財政は火の車で上流階級への紹介(ピアノ製造会社のベッヒシュタイン夫人の支持支援)から有力者の支援に繋がり母代わりのホフマン夫人なども生涯気を配った
ヒトラーは天才的な演説力、説得力で数千人の徴収を集めた。性格的には口少なく、控えめで礼儀正しい青年だった事もあり年上の女性、夫人を魅了した。「独裁者になるために生まれてきた者は、自分から進んで独裁者になろうとする。ある民族を支配すべき天命を受けていると感じている者は、自分の使命を遂行すべき義務があるのである。私はデモについて全ての責任をただ自分だけで引き受ける」とデモの首謀者として逮捕されたヒトラーは裁判所でこの様に発言。指導者の原理は極めて明瞭であり、世界観闘争を実現しようとするヒトラーの下に参集する従者、側近・同志はいかにあるべきか、如何に振る舞うべきかにつき、疑いを挟む余地のない要求。指導者はそうした側近・同志の服従、協力、共闘によってのみ、闘争としての政治活動を拡大し、発展させ、積極的に勝利に導くことができるとした
ーエヴァ・ブラウン(1912~1945)ヒトラーの恋人で長い間内密にされヒトラーと自殺する寸前に結婚式を挙げ、それまでのメイド的役割を終えた。
ーヒトラーの野望(わが闘争)8千万人のドイツ民族の生存権構想は132万平米(ドイツの面積の4倍位)を目標に当方へ進出する4ヵ年計画を作成した。手始めは国会議員での第一党を目指すが、1929年ワイマール共和国が崩壊(外相シュトレーゼマンの急死・世界恐慌・ヘルマン・ミュラー内閣が倒れる)大統領によって任命されず内ゲバ、内乱が勃発。「国民防衛」「叛逆防止」など緊急令がナチ党を推し上げ、ヒトラーへの全件委任が可決する。それには反ユダヤ主義を前面に推し進めるニュルンベルグ法など、党首の偏見と憎悪に満ちた犯罪行動が進められた。ブロムベルグ国防大臣が任命され国防、軍事権を統師、ヒヤルマー・シャハトによる経済政策(貿易の拡大)など失業者が1934年の350万人から2年後に150万人に減少した。リッベンドロップの外交で独英軍艦協定始め日独伊同盟、ソ連と不可侵条約を締結、ポーランドへの侵攻を早めた。ポーランドでは冷酷な安楽死政策で7万人を殺害、後に親衛隊SSヒムラーと右腕ハイドリッヒによる「ユダヤ人絶滅」の音頭をとりアウシュビッツが操業開始する。
ー英雄とされたのが北アフリカ国防司令官のエルヴィン・ロムエル将軍、一度は大勝するがその後補給不足で連合軍に負け、軍人のプライドからヒトラーの軍人精神無視の命令を拒否するなど最後はヒトラー暗殺事件の反逆者として服毒自殺を選ぶ。軍需大臣アルベルト・シュベーは武器年間生産を拡大させ(戦闘機の9,540機を35,350機に、戦車2,900台を17,300台)だが燃料不足で活用できなかった。
第二次世界大戦犠牲者は年間25万人が1943年~44年には57万3238人に、最終的な犠牲者数は525万人(日本は180万人)
ー1943年以降「最後の一兵まで戦え」に軍人精神に反旗が増えワルター・モデル元帥など抵抗をやめ降伏30万人以上が戦闘を中止した(反ヒトラーは軍部から出現、暗殺事件などを計画するが失敗)、ヒトラー等は地下壕(地下8m)での生活で命令、報告を受けていたがソ連の攻撃で4月30日午後3時、最後にはエヴァと自殺(焼き払い埋める)を部下のボルマン・ミッシュに任せた。同時にゲッペルス元帥家族、ゲーリング元帥も自殺する。


武士の死は次世への門出とした生き様『戦国武将の生死観』

2024-07-31 07:40:03 | 歴史から学ぶ
「死生学」戦国時代の武士の死は次世への門出で大切な場としていた事、「現世は短く、来世は長し」の概念を持った武将、家族など死に対する恐怖は感じさせない。だが、哀れなのは夫の敗戦から妻と家族は悲惨だったことだ。ただ、夫に務めるだけではない心がけを持ったお市の方、築山どのなどは、「小豆袋の結び目」を兄信長に知らせ、「武田側との内通」織田を攻略する計略など、嫁いでも実家の内命「家族の血」を繋ぐためのスパイ行動は絶やさなかった、と言う。
『戦国武将の生死観』篠田那達明
「概要」人生五十年の時代、戦国武将たちには謡曲『敦盛』の一節の如く「この世は夢幻の間」であり、生きている短い間よりも死後の長い時間を強く意識していた。武士の臨終は人生の終わりではなく、そこから始まる長い来世へのとば口。死に際はその門出を飾る大切な場だったのだ…彼らの信念、死にざまと関わりの深い疾病について、現代医学と照応しつつ実態を探る
ー戦国時代に生きた武将の死因と病状、遺言などを医師であり作家が描く小説だ。
ー信長・秀吉・家康の死に様と死生観    
信長:注意欠陥・多動性障害を思わせる性格は仕事中毒で動脈硬化から脳卒中発生 49歳切腹
    性格はせっかちで癇癪持ち、他人の意見には耳を貸さず、だが決断力もある。
    信仰が厚く神仏の籠を信じていた「死のふは一定、忍草には何をしよぞ」「是非に及ばず」
秀吉:貧血症、胃痛に悩まされ消化器病、認知症による大脳萎縮症、消化器がん 62歳
    6歳の幼い秀頼を守るための5大老へのお願い(秀頼の保護と後継人の嘆願)
    「露と落ち 露と消えし我が身かな 浪速のことも 夢も夢のまた夢」
家康:医療に関心をもっち自分で薬を作る、鯛の天ぷら、死因は胃がん 75歳 
    戦術:人名はかけがえのない物だから戦場でも慎重に行動し無駄死にすることのないように戒めた
    「厭離穢土・欣求浄土」(仏法浄土への往生を悦んで求める)
ー病苦に喘いだ英雄たち
上杉謙信:大酒飲みで脳出血、高血圧、糖尿病、脳卒中 49歳
    「塩の道」武田に塩を贈る温情があり信玄死後も責めることはしなかった
    12年に5回のライバル対決(謙信vs信玄)
    (昔の酒はアルコール度が低い濁酒)
    「49年一睡夢 一期栄華一盃酒」(人生の儚さを嘆じた)
武田信玄:むくみ覆水による消化器がん(横隔膜近辺)53歳
    病駕を抑えて出陣甲府へ帰陣する途中で死す
    「3年間、我が死にたることを隠せ」(謙信を大切に、信長・家康には要注意だ)
毛利元就:腹痛を繰り返す消化器がん、悪性腫瘍説による大腸がん 75歳
    「毛利に教養など必要ない」(三枝の矢)
    大事なのは武略、計略、調略だえkだと教養や娯楽は必要としない性格を通した
・高山右近:マニラでアメーバー赤痢 64歳
    南蛮トライの武器、洋式戦法に影響し外国に夢、摂津高槻城主となる
    デウスに祈りキリシタン大名として活躍(大友宗麟・有馬晴信・小西行長らが入信)
    「死ねばお迎えが来てあの世にゆく」(武士を捨て篤実な信仰者)
蒲生氏郷:肝障害からのウイルス性肝炎肝臓がん(名医からも見放される症状)40歳
    秀吉から会津黒川42万石の城主に、さらに若松を加え92万石の太守になる
    「限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」
    氏郷の死を期に関ヶ原の戦いが勃発
    (江戸時代の名医は回復基調のない病人は診ない、としていた:医者は名声を大事にした)
伊達政宗:幼少の頃痘瘡で右目を失明。歯槽膿漏 食道胃がん70歳没
    酒豪で晩年まで酒を飲み続けた頭蓋骨から身長159.4cm、骨太のがっしりした体格
    「馬上少年過ぐ」「畳の上で死ねるとは思わなかった」
ー未練を残した武将たち
・前田利家:大腸がん 62歳没
    「儂の胸には憤りがある」(家康の勢力の台頭を抑えれなかった)
・大谷吉継:ハンセン病 自決 42歳没(関ヶ原)
    小早川秀秋の謀反を抑えきれなかった、友人の石田三成の友情と信義を重んじた
    「首は土中に深く埋めよ」(晒し者になりたくない)
・石田三成:脱水症状のまま処刑 晒し者になる 40歳没
    「汝に二心あるものを気づかなかったこと己が愚かだった」(秀秋に対する怨念)
ー下剋上の梟雄
明智光秀:叛逆者として秀吉に裁かれる(土民たちになぶり殺される)55歳
    「心知らぬ人は何ともいはばいへ身をも惜しまじ名をも惜しまじ」
・斎藤道三:親子で骨肉の争い・さらし首に 63歳
    冷血狡猾な「美濃の蝮」が長男の義龍に裏切られ追放、その後家臣に首を刎ねられる
・松永久秀:自刃・切腹 68歳没(信長に降伏)
    信長に叛旗、将軍を暗殺大仏殿を消滅
ー切腹して果てた武将たちの執念
浅井長政:信長との反撃に降伏小谷城で切腹 29歳没 父久政も切腹
    信長の朝倉との約束を破ったことで浅井が激怒
    「七顛八倒四十年中他無自無四大本空」生涯永久不変の境地
・武田勝頼: 19歳の妻子供と共に切腹 37歳
    父信玄の遺言をおろそかにして果てる(領土拡大を急いだため一国だけになる)
    「黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき 思ひに消ゆる 露の玉の緒」(北条の娘・妻の句)
ー老衰死した武将たちの高齢期
・真田昌幸:幽閉地(高野山)で老衰 65歳没
    関ヶ原の戦いに敗れ捕虜、高野山に追放
・宇喜多秀家:八丈島で老衰 58歳没
    関ヶ原の戦いで家族で島流
・武田信虎:長男に追放され衰弱 老衰 81歳没
    長男信玄の仕組んだクーデターで追放、放浪の民となる
直江兼続:上杉家の丞相として活躍 60歳没
    「儂より先に死ぬとは」と城主景勝
    家康を倒す絶好のチャンスを逃したことが心残りだった
ー戦国女性の覚悟
お市の方: 自害 37歳
    浅井長政の妻、その後柴田勝家の妻 秀吉の攻撃で勝家と共に自刃
    3人の娘(茶々、お初、お江与)を残し、織田家の血を守った
・築山どの: 殺害 38歳
    家康の正室、徳姫の密書で信長から長男含め処罰を受ける
・ガラシア夫人: 自殺 38歳
    明智光秀の娘(玉子)三成の人質に抗議して自刃
・なか:暑気当たり 80歳
    秀吉の母、大政所 74歳で家康の人質に 
    秀吉の妻おねは庶民に人気があり
・淀どの: うつ病 秀頼と共位に自刃
    秀吉の側女で2子産む、
・千姫: 老衰 70歳
    秀頼の妻となる秀忠の娘 大阪城より巣下されるが江戸で天樹院として過ごす


歴史を精通した人々への参考書

2024-07-29 06:45:01 | 歴史から学ぶ
@この著書は、歴史に精通した著者たちが、古典的な文明論を現代の視点で再解釈することで、過去の知見を現代の問題に適用する評価と批判の試みだ。だが、歴史とここに掲げた著書・著者を知らない読者にとっては解読が難しい。というよりも雑多な話題の雑談のようで結局何を訴えたいのかわからない著書だ。副題は「もう西洋化しない」とある。


情報を握る強さを知る幕末『岩倉具視』

2024-07-24 08:04:54 | 歴史から学ぶ
下級公家の岩倉具視が最後には右大臣まで上り詰めた秘訣は、5年に及ぶ蟄居生活時代に朝廷、幕府双方の機密文章も含めた最新の動向情報を収集し分析、文にて多くの関係者に寄与(政権交代への影響力を与えた)、情報の知恵袋的存在が大きかった、と言う。手入れ(現在の賄賂)も然り、公家内での親族のコネを優先利用し、偽勅・偽錦旗などを作り、摂関制度等を蹴散らし王政復興を盛り上げるなど波乱な人生を生き抜いた岩亀・ヤモリ(岩倉具視のあだ名)的存在だった。現代でも「情報通」は先手必勝に必須だということだ。
『岩倉具視』永井路子
「概要」岩倉は孝明天皇毒殺の首謀者なのか――「尊王攘夷」「佐幕」といった言葉を剥きながら、新たな岩倉像を立ち上げた永井文学の神髄
岩倉具視(あだ名岩亀・ヤモリ・1825年生まれ)
    家格が低く家録は庶流で50石、下級の小公家
    ここ一発の目の付け所は良いが勝礼には恵まれていない
    義理の兄中御門経之が後年具視を救う
    仁孝天皇の時の関白鷹司雅道の弟子となる(その後久我建通から岩倉に手入で継がれる)
    具視の妹堀河紀子は孝明天皇の側近となり後年手助けする
    「手入」(賄賂)はこの時代の社交辞令的行いで公家でも乱用されていた
    「朝廷・幕府」共に情報を速やかに入手し戦略を立てていた「岩倉具視関係文書」
    5年間の戸袋生活中でも情報網から機密文章・最新の情報から文章・計画を立てた
    気管支炎から発熱(食道がん)で死去、59歳
ー岩倉具視 孝明天皇下での公家社会に復帰・主導権を握り始める「政体変革」
    中御門、大原重篤らによる政略・権謀(岩倉の赦免求めた)の嘆願(岩倉の計画図)
    中川宮とは決別対抗、辞表を出すが、孝明天皇は中御門、大原らに閉門を出す
    孝明天皇の毒殺説があるが実際は急性ヒ素中毒と推定された(紀子の疑惑説もある)
    大久保を惹きつけ薩摩久光を抱き込んだ事(久光は左大臣に任命)
    偽勅・偽錦旗など立て続けに朝廷を盾に諸藩を抑える(王政復興公家政権の変革も同時)
    小御所会議(慶喜欠席)で・参与・右大臣に、摂関制度を蹴散らし支配体制を築く
    版籍奉還・廃藩置県(郡県制)藩財政(10分の1国庫、3分の1知事、3分の1家臣)
    新政府は軍隊統制を優先させる(藩から兵士を徴兵)
    遣欧米使節団10ヶ月の予定を1年10ヶ月の使節、具視は特命全権大使となる
徳川幕府
    譜代には権力を与え、外様には富を、一門には血の優位性(幕政には関与させない)
    御三家尾張、紀伊には大納言、そして水戸には中納言(将軍家は右大臣、左大臣肩書)
    大藩の加賀前田には参議(宰相)、他の大名には近衛中将、少将など
    形式的には幕府が申請して朝廷が辞令を出す方式
ー幕末
    長州藩の反乱(永井雅楽による開国・貿易・富の蓄積・軍事増強など計画が後に採用)
    公武合体(徳川家茂へ和宮嫁入り・島津久光・岩倉が同行)とで修好通商条約
    公家社会の権力闘争が複雑化し三条実朝、二条、九条、鷹司も入り乱れた
    長州藩と薩摩藩との外国艦隊対決で「攘夷」は無くなり友好関係を築く


世襲制、身分制度の域『影法師』

2024-07-19 07:13:17 | 歴史から学ぶ
武士の身分制度、同じ階級層同志でなければ出世も結婚も出来ないと言う、現代では考えられない。生まれながらの武士の階級(上士・中士・下士)は出世も、結婚も限られた階級内だけの世界で、才能・技能がなくとも長男は家督を継ぎ、親の役職を継ぐ、と言うのは、現代に残る政治家の世襲世界だ。但し次男以降は他家の婿に出されるのが通常で本書では下士の階級から異例の出世と上下の格差を超え、「命をかけて守った」二人の友情関係に涙する内容だ。文中にある下士の父が上士の無礼打ちにあった時、投げかけられた言葉「泣くな」の一言が貧しく苦しい人生を耐え抜いた結果、下士が階級を越え国家老まで上り詰めた人生を築くことができた。
『影法師』百田尚樹
「概要」「どんなことがあっても貴女(おまえ)を護る」友はなぜ不遇の死を遂げたのか。涙が止まらない、二人の絆、そして友情。頭脳明晰で剣の達人。将来を嘱望された男がなぜ不遇の死を遂げたのか。下級武士から筆頭家老にまで上り詰めた勘一(かんいち)は竹馬の友、彦四郎(ひこしろう)の行方を追っていた。二人の運命を変えた二十年前の事件。確かな腕を持つ彼が「卑怯傷」を負った理由とは。その真相が男の生き様を映し出す。「泣くな」父が討たれた日、初めて出会った少年は言った。「まことの侍の子が泣くな」勉学でも剣の腕でも敵わない。誰よりも優れていたはずの彼が迎えた最期は、予想もしないものだった
ー武士は背中を切られることは「卑怯傷」と言われ腰抜けと評価された


「情」と「信賞必罰」は人の道『足軽仁義』

2024-07-18 07:38:25 | 歴史から学ぶ
一向一揆による争い、家康側と一揆側、三河土着民同士の戦いに誰もが勝ちに戦に勝つ側に就きたい、そんな中で一人の若い農民が武士になるべく争いに参加する。争いになれた武装集団、方や数的優位にある農民集団で周りの予測と噂では家康側ではなく一揆側。だがそんな人生の選択の立場となった場合どうするか。戦いでの見どころは家康の決断「和睦」は生涯に通じる「情」と「信賞必罰」を生かし続けた、そんな気がする。
『足軽仁義』井原忠政
「概要」時は戦国、所は三河。喧嘩のはずみで人を殺め、村を出奔した18歳の茂兵衛は、松平家康の家来である夏目次郎左衛門の屋敷に奉公することになる。だが、折しも一向一揆が勃発。
熱心な一向宗門徒である次郎左衛門は「君臣の縁は一代限り。弥陀との縁は未来永劫」と、一揆側につくことを決意する。武士人生ののっけから、「立身出世」どころか国主に弓を引く「謀反人」になってしまった茂兵衛。波乱の世に漕ぎ出すことになった新米足軽の運命やいかに!?


貪欲さが裏目にでる『居眠り磐音 陽炎の辻』

2024-07-17 12:48:35 | 歴史から学ぶ
@武士から浪人・町人へ変身、日雇い仕事を受けることになる元一刀流剣術士の新たな人生。どの時代でもそうだが、貪欲な悪人が必ず蔓延る。特に幕府幕閣につながる大物が絡むとその解決には犠牲と組織的な仕組みが必要となるが、話は田沼意次が絡む貨幣変革時代だ。崩壊は貪欲さが裏目に出て追い込まれることになる。現代、「裏金」の罪の意識が全くない政治家らを一掃するにはやはり更なる貪欲な政治家が露見する日本の政局異変がない限り改革できるとは思わない
『居眠り盤音 陽炎の辻』佐伯泰英
「概要」、豊後関前藩の若き武士3人が、国許へと帰参するシーンから始まります。その夜、3人が直面した思いもよらなかった運命。そして、浪々の身となった坂崎磐音は江戸・深川で長屋暮らしを始めます。
ー噂を本気にした若き武士が許嫁の娘を殺害、それを知った娘の兄がその殺害した許嫁の男と姑を殺害、その後噂のあった武士を殺害する。その止め役を買った若い武士が若き殺害した武士を成敗する。
ー坂崎は事件後、江戸見舞い戻り武士ではなく町人となり長屋暮らしを始める。鰻を捌き仕事と用心棒として生活費を稼ぐ暮らしを開始するが、その用心棒での事件が発生する。
ー時は田沼意次の貨幣変革時で用心棒として働き始めた両替屋で事件が発生する。


詐欺師の手口と暴き方『水を石油に変える人』

2024-07-14 07:41:53 | 歴史から学ぶ
明治から大正、昭和にかけて詐欺師による政府・軍部を巻き込んだ莫大な資金詐欺を連ねたこの小説は面白い詐欺の題目は「藁から真綿」、「水からガソリン」など国家の中心となる人物等が巻き込まれた詐欺の実話である。時制は戦争へ突入しいよいよ石油・ガソリンの需要が一気に伸びる時期であり、一攫千金等を夢見た詐欺師たちはもとより専門研究者、大学教授、海軍大臣含む海軍省の将校山本五十六ら多くが騙された。それは巧妙な「手品」を使い実験を見せ、また箔がある大学教授を洗脳させ口添えなどの仕込みにも抜かりはなく、協賛金・寄付の多くは会社設立の資本に充てたが実際の生産までには至らず裁判で逮捕されている。「イカサマ」を暴くための仕掛け、一攫千金を夢見た法政界の人々の思考など面白い。この「水からガソリン」は日本のみならず、米国、中国、ドイツ、イギリス等でも詐欺師があったという
『水を石油に変える人』山本一生
「概要」真珠湾攻撃の三年前、海軍省で三日三晩の夜を徹した実験が行われる。その「街の科学者」は海軍次官山本五十六や、後に「神風特攻」を考案する大西瀧治郎らの前で、水をガソリンに変えるのだという。石油の八割をアメリカからの輸入にたよっていた日本は、ドイツと同様人造石油や出もしない油田の採掘など、資源の確保に八方手をつくしていた。そうした時に、水を石油に変える科学者があらわれた、というのだ。しかも、その「科学者」は、立派な化学メーカーが後ろ楯となり、帝国大学教授のお墨付きまでもらっていた。
ー山本五十六の夢であるエネルギー産出「水からガソリン」さらには「藁から真綿」事件など
大正十四年春、山形県庄内地方に姿を見せた詐欺師は、「藁から真綿」をつくる実験によって貧しい農民たちに希望を与える。帝大教授も保証する製造法だったので事業化しようと話が持ち上がり、資金集めが始まった。だが秋を迎え、特許を取得しようとするのだが……。
ーカツクマ・ヒガシと東勝熊
詐欺師の一味には、華麗な経歴を誇る男がいた。衆議院議長の甥で、ニューヨークでは柔術家、ベルリンでは社交倶楽部の経営者、そして日本では石油輸入会社の専務取締役。波乱の人生の終着駅に立っている男に、どこからか悪魔の囁きが聞こえてくる。
「藁から真綿」事件(1924年山形庄内地方)帝国大学教授の舟橋了助博士らが勧めた
    海軍中将佐藤鉄太郎、海軍技師等を参加させ実験を試行、当時50万円等を資金調達
    「仕掛け・手品」猿股に真綿を隠し持って藁が入っている鍋に入れた
・「海水からアルコール」のちに「水からガソリン」へと変わる 千葉勝浦沖 大正14年 
    軍需局局長藤原英三郎等契約 資本金50万円にて設立
    「仕掛け・手品」(薬品の入った瓶の入れ替え)
・詐欺師 本多維富、舟橋了介、北村貢、東勝熊 四人
    詐欺師から科学の人へ(帝国大学での実験)で教授を洗脳させる
    京都大学理学博士田中宗愛などへの面談、洗脳
燃料「オクタン」米国との質的に目劣りしており精製技術も遅れていた
    昭和9年100オクタンで時速349kmの米国に対し日本は87オクタン20~30%減
    支那事変:中国の戦闘機の餌食にされるほど低質ガソリンだった(中国は米国から輸入)
代用品時代(国家総動員が発動した1939年)
    軍装や馬具などはサメ、鮭、へび、くじらが代用された
    廃湯・魚油からガソリン、草から、水からガソリンとまで比喩
ーベルリン日本倶楽部設立者 玉井喜作(札幌農学校ドイツ語教授)
    明治25年11月~明治39年没「オストアージアン東亜」発行


戦争の起因は政治家の野心『歴史と戦争』

2024-06-24 08:08:07 | 歴史から学ぶ
@戦争は誰もがしたいわけでもないが一部の政治家・軍部での強制命令を発端に群集心理から生まれる。それは本文にある「エリート陸軍の過信・驕慢なる無知・出世欲が横溢・偏差値優等生の天下・底知れず無責任」が起源となった、とある。 一方「尊い犠牲を多く出したことは気の毒の限り、我が軍にとっては良い教訓となったと思う」敗戦間近の天皇の言葉がとても妙に印象に残った。そして戦争における究極の言葉は「戦争の恐ろしさの本質は、非人間になっていることに全然気が付かない。戦争とは人が無惨に虐殺されることである」いずれにしても、戦争をする動機は一人の独裁的で貪欲さの政治家が表に出て群集(現代ではSNS等が炎をつける)を燃え上がらせることが起因だ。
『歴史と戦争』
半藤一利2024年6月
「概要」幕末・明治維新からの日本近代化の歩みは、戦争の歴史でもあった。日本民族は世界一優秀だという驕りのもと、無能・無責任なエリートが戦争につきすすみ、メディアはそれを煽り、国民は熱狂した。過ちを繰り返さないために、私たちは歴史に何を学ぶべきなのか。「コチコチの愛国者ほど国を害する者はいない」「戦争の恐ろしさの本質は、非人間的になっていることに気付かないことにある」「日本人は歴史に対する責任というものを持たない民族」
・礼儀作法・自然を大切にする心・伝統文化など戦争に負けたことで亡くなった神国意識
・「偶然」が生み出した戦争
・「天災は忘れた頃にやって来る」過去の教訓を軽視し知識や技術に甘えて自然の偉大さを無視
    (物理学者寺田寅彦)
・昭和5年は2大政党、民政党と政友会 政友会が軍部と右翼と結びつき変化
・「非常時」1932年の国家予算は22億3800万円、翌年に陸軍の一声から昭和16年までに約20兆円、45万5700人の戦死者が出た 増税に次ぐ増税で国防国家へと踏み出された
・「攻撃は最大の防御なり」を信じて戦闘機の後ろには防御板を無くし、戦艦「大和」は対空防御についてはほとんど無しの状態だった
・「大本営発表」で国民は熱狂したが、戦況の次元と共に「嘘の代名詞」となった
・「蚊帳」の中は死体となった時代
ノモンハン敗戦から得た知恵
  エリート陸軍の過信・驕慢なる無知・出世欲が横溢・偏差値優等生の天下・底知れず無責任
・群集心理 (戦争への機動)
  衝動的で、動揺しやすく、昴奮しやすく、暗示を受けやすく、物事を軽々しく信じる
・「生きて捕虜の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残す勿れ」島崎藤村・志賀直哉・和辻哲郎らが作った
・昭和16年、石原莞爾の敗戦予告講義(対米英戦争が始まり日本は敗戦すると予測)
レイテ島での日本軍とその後勝者の米軍の違い
    田舎道を作り井戸を5つ掘り、天秤棒を多量に作り、証明用に蝋燭を大量に作った
    アスファルト道を作り、飛行場、水道設備を完成させ自家発電機を作った
ガダルカナル敗戦で天皇が「尊い犠牲を多く出したことは気の毒の限り、我が軍にとっては良い教訓となったと思う」
昭和19年インパール作戦 不可能を可能であるかのように錯覚させた戦い(上層部と将兵)
・東京大空襲「戦争の恐ろしさの本質は、非人間になっていることに全然気が付かない。戦争とは人が無惨に虐殺されることである」
戦艦大和と戦艦武蔵 共に「軍人は過去の戦争と戦う」(時代の流れに背く軍部の政策作戦)
・天皇陛下=大元帥 軍隊を統率する大元帥は天皇陛下の家来の位置
戦後「引揚者」満州に渡った民間人は160万人(開拓団27万人)17万人が帰国せず
    満州朝鮮:100万人、中国110万人、南方諸島160万人
・戦後日本人は「敗戦」から「終戦」と呼び替えた 負けたという事実を認めない
・戦争論の誤解 戦争は政治の道具 外交の手段として戦争を開始した
「敗戦」後 艦艇はなく、陸軍は257万名の兵力、陸海合わせて1万6千機の航空機保有
・太平洋戦争において240万人が戦死、飢餓による死者は70%(皆無の補給)、90都市の破壊、236万戸焼失、罹災者は840万5千人、と言われる
・戦後、ラジオ放送で天気予報が始まる、男女共学は1945年から
・朝鮮戦争、およびスエズ動乱で経済復活 日本は兵站基地(補給・治療・整備)
「ゴジラ」映画は水爆実験で被爆した第5福竜丸が焼津港に引き上げた日に公開
・A級戦犯14名を靖国神社に合祀「昭和殉難者」として祀る
「元軍人には反省という言葉はない」国家総動員が発令 勝海舟の言葉「忠義の士というものがあって、国を潰すのだ」
・「死んだ人は何も語らない、そしてまた死に遅れた人も何も語らない。だたこの老人は可愛い孫のために今日もラジオに耳を傾け、そして遺族を訪ねるべく家を出る」寺崎隆二参謀長