ちょっと気になるいい事、言葉、最新技術

書籍、映画、旅、最新技術から選んだ心に残るもの。速読者向けは、青文字表示。内容は小学生でも理解できる表現使用

「切り捨て御免」で秩序を保つ『鬼平犯科帳』

2019-01-30 07:54:37 | 歴史から学ぶ

@著名な捕物小説「鬼平犯科帳」は実に読みごたえがある。続々と続く事件に対し巧みに解決していく。「鬼」の仕業で盗人犯人等を怖らせ、悪行に走らないように見回る。解決の糸口が悪の一味の一人二人を奉行所側に引き込み密告させることであった。 この江戸時代の盗人任侠の掟(金科玉3か条)として1、盗まれても難儀するものは手を出さぬ事 2、盗みに入るときには人を殺傷せぬ事 3、女子を手篭めにせぬ事 があったらしい。だが、江戸後期になると盗人が変貌し皆殺し、女手篭めにするのは当たり前となり残忍な殺人事件へと繋がっていった。生きていくための租税・身分世相が厳しく、逆に商人が大儲けで贅沢三昧する世の中になった事(格差が広がった)による仕業だったかもしれない。雇われ殺屋浪人には「切り捨て御免」、それは「獣には人間の言葉が通じない」とある。正に現代でも社会の仕組みを乱し、壊し、誰が犠牲となっても自分が正しいという考えを持った人間もいる。社会の変化はある程度認めながら前に進む事が必要だが、人(国)が人(国)の作った掟(約束)を破ることは「切り捨て御免」で社会の秩序を守ることを優先にしても構わないかもしれない。

『鬼平犯科帳』池波正太郎

  • 切り捨て御免の権限を持つ幕府の火付盗賊改方の長官長谷川平蔵。盗賊たちには鬼の平蔵と恐れられている。しかし、その素顔は義理も人情も心得た苦労人である。彼を主人公に様々な浮世の出来事を描き出し、新感覚の時代小説として評価高く。
  • 「啞の十蔵」
  •             盗人の妻が夫婦喧嘩で夫を殺した。その女を庇い、恋仲に。秘密を隠し同心の捜査に協力できなかった事で自刀する。
  • 「本所・桜屋敷」
  •             平蔵の故郷で恋憧れた女、実は妾子が犯罪の一味になっていた。
  • 「血頭の丹兵衛」
  •             松平定信は続く天災や飢饉で起こった人心の荒廃と経済危機を武家と農村との結具による(質実剛健)な武家政治を戻すごとく一旦離れた平蔵と組み、盗賊改め役にかえり咲きさせた。
  • 「浅草・御厩河岸」
  •             同心の密偵になった元盗人が昔の盗人頭から声をかけられ計画を知る。だが盗人同士での行き違いで頭と仲間がお互いに殺戮であい計画は無くなる。
  • 「老盗の夢」
  •             ある若い女と恋仲になった老盗人が目覚め、最後の盗人を江戸で計画を立てる。だが、女が盗人の仲間と恋仲になりそれを恨んだ双方が殺しあう。
  • 「暗剣白梅香」
  •             仇討ちを目的に江戸に出たが敵討ちが見つからず殺し屋になる。ある日平蔵殺しを頼まれ平蔵の居る飲み屋に入るが、実はそこの主人が敵討ちで逆に殺される羽目になる。
  • 「座頭と猿」
  • 「むかしの女」
  • 鬼の平蔵と言われる所以は盗賊で刃向かう者を容赦なく切って捨て、拷問を常として白状させるやり方で江戸の盗人事件は減った。だが昔ながらの人殺しをしない盗人から皆殺しを仕掛ける盗人は増えた。いくつかの盗人の頭等の住処を探し出す、それは拿捕した盗人仲間を味方に引き入れ密告させる方法で事件を解決する方法を採用した。だが、盗人仲間かあら恨まれ狙われた。切り捨て御免の言い訳で「浪人崩れには打つ手がないんだよ。おそらく大店へのゆすりをかけたのもこいつらだろうが、そのゆすり一つ見てもわかる。まるで獣だよ。世の中の仕組みが何もわかっていねえのだ。獣には人間の言葉が通じねわさ。刈り取るよ理他に仕方はあるまい。」

遺文で蘇る恨み『田沼の置文』

2019-01-28 08:11:35 | 歴史から学ぶ

@「田沼の置文」は田沼意次が遺した過去の過ちを詳細に綴った文であった。それを世代が変わった元田沼の家臣が恨みを果たそうとする小説だ。 世代が変わっても人の恨みは継続して残る、現在の韓国・朝鮮の日本に対しての戦中の出来事が正にこの事に繋がっているかのようだ。 既に遠い過去でありながらその次の世代でもこう言った恨みを持ち続けていることは正直残念であり、公的な和解が出来ているにも関わらず、政治不信が続くと何処からか盛り上げる者がいることだ。韓国の政治家にモラルが無いのか、無知な者はいつまでも無知のままでいられる神経が解らない。歴史的背景のみならず、日本も含め民族の違い、教育の違いがこう言った場面で露出するのは恥ずかしい限りかもしれない。モラルがない理由の一つは国の歴代の大統領・幹部が次々に逮捕され投獄される国も珍しく、悲しい。国民への情報開示が徹底していないのか、これだけ情報化社会で優を行く韓国でそう言った事件・行為が度々起きるのは不思議でならない。因みに、日本も世界の報道の自由度順位ではなんと67番目となっているのも悲しい。https://ecodb.net/ranking/pfi.html

『田沼の置文』藤井邦夫

  • 築地の采女ケ原馬場で中年の浪人が殺された。南町奉行所隠密廻りの乾蔵人は吟味方与力の秋山久蔵から命令を受け探索を始めた。事件の背後に浮かんできたのは、将軍家の関わるとされる一通の置文の存在だった。書いたのは老中田沼意次。文に書かれていた中味とはそして文を巡る暗闘の結末は。
  • 「娘生き人形」
  •             14・15歳の娘を大名に差し出す大店。そこに献残屋という店が怪しく吟味方与力の秋山久蔵の命で隠密廻り同心乾蔵人が動いた。それは川津藩山科伊賀守が若年寄への栄達をのぞみ老中や上様側近に献上したことが判明。川津藩の留守役小田久左エ門に頼まれ店の女将が手配した長屋暮らしで身売りし、金をもらいたいと願った娘だった。小田に脅迫された女将は奉行しに自首、娘は難を避けることが出来た。
  • 「酔いどれ女」
  •             小料理屋で飲んだくれの女が、狙われた。それは夫が以前呉服屋の主人から脅かされ偽りの片棒を担がされ追われていた。女は、夫は既に亡くなったと言っていたが実は生きており呉服屋の主人がその証拠を掴み、暴露される前に夫を殺害しようと試みる。呉服屋からの浪人が女を餌食に夫を殺す企てをするが、蔵人が罠を見抜き、女を助けるが夫は身代わりに重傷を負った。
  • 「田沼の置文」
  •             田沼意次が亡くなって30数年後に、田沼家の元家臣から意次の置文がある事の噂を流すと、その家臣が次々に何者かの配下に居る忍びの者に刺殺された。それは11代将軍家斉の時に失脚した際、田沼も失脚5万7千石から1万石に減地され、数年後に田沼意次も亡くなった。その元家臣がその時の恨みを晴らすべく噂を立て陰謀を企てた。それは当時の老中白河藩松平定信が田沼意次を恨んで失脚させた事にあり、その置文が世にでる事を避けるべく「楽翁」(定信の隠居後の号)が忍びに仕掛けた事件であった。置文には安永8年10代将軍家治の世子家基が鷹狩りの途中で俄に発病して死んだのは茶の器に仕込んだ毒だったとあった。元田沼家の家臣は次々と刺殺されたのは「楽翁」の仕業だと分かり乗り込むことに。それを引き受けたのが元家臣と飲み仲間だと言った蔵人が「置文」を買取らせる偽装をして「楽翁」の下屋敷に乗り込む。蔵人は殺害を企てた全ての忍者を始末、その後「楽翁」は病気となり元家臣は文を永久に伏せることで「お家断絶」を避け事件は闇に消された。

偉業は墓に宿る?『江戸の神社・寺を歩く(城西編)』

2019-01-26 09:14:11 | 旅行

@厳島神社が弁天社で元はヒンズー教の女神だった事は全く知らなかった。詳細を調べると、「弁才天(べんざいてん)は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教女神であるサラスヴァティーSarasvatī)が、仏教に取り込まれた呼び名である。神仏習合によって神道にも取り込まれ、様々な日本的変容を遂げた。」またWikipediaによると「厳島神社の祭神は次の3柱「宗像三女神」と総称される。 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)田心姫命(たごりひめのみこと)湍津姫命(たぎつひめのみこと)」歴史背景と時代の流れから様々な宗派に分かれたが、何か基は一つなのかも知れないと、そう感じた。それは教派の基本教義は、苦しみの輪廻から解脱することとあるからだ。(煩悩に縛られていることから解放され命あるものが何度も生まれ変わる・・・)人間生まれることは既に死の宣告を受けているとも言うが(人間は必ず死ぬ)魂・遺恨などを墓に託した武将・将軍なども多いのではないだろうか。多くの寺院・寺・墓を巡ると時代の時の感覚が無くなる。数千年前、数百年前、数十年前など今も遺るこれらの遺跡はどの様に理解していけば良いのだろうか。それは、墓も歴史の勢力・権力と同じで偉業を遂げた人々の墓は偉大だが、歴史の裏で黙殺された人々は何も残ってはいない。最近富に歴史を紐解き真相を正しく理解・検証すると全く逆の歴史があることもある。今回驚いたのは、東京に遺る多くの神社・仏寺は室町時代の武将で、江戸城を築城した太田道灌が造築、普請・勧請、造営で絡んでいることだ。(写真は芝東照宮・徳川家康にある銀世界の梅:2019年1月25日現在2部咲きの梅・徳川将軍家墓の前にある四菩薩像・菩薩様のそれぞれの顔相が素晴らしい)

『江戸の神社・お寺を歩く(城西編)』黒田涼

  • 「品川」       
  •             荏原神社・東海寺・品川寺
  • 「三田・高輪」
  •             泉岳寺・東禅寺・亀塚稲荷
  • 「白金・目黒」
  •             大円寺・五百羅漢寺・目黒不動泉龍寺
  • 「麻布・恵比寿」
  •             善福寺・光林寺・広尾稲荷
  • 「愛宕・芝」
  •             烏森神社・増上寺・芝東照宮
  • 「原宿・渋谷」
  •             代々木八幡宮・鳩森八幡・梅窓院
  • 「赤坂・六本木」
  •             日枝神社・氷川神社・長谷寺
  • 「四谷・新宿」
  •             平河天満宮・太宗寺・花園神社
  • 「牛込」
  •             穴八幡宮・赤城神社・善国寺
  • 「湯島・本郷」
  •             湯島天神・神田明神・伝通院
  • 「池袋・小日向」
  •             鬼子母神堂・目白不動金剛院・護国寺
  • 「白山・本駒込」
  •             根津神社・吉祥寺・駒込富士神社
  • 「巣鴨・板橋」
  •             高岩寺・本妙寺・巣鴨庚申塚
  • 「神社の神様」
  •             稲荷神社:総本山は伏見稲荷・祀神は宇迦之御魂神・穀物食物
  •             八幡宮:総本山は大分の宇佐八幡宮・八幡大菩薩
  •             天王社(祇園社):須賀神社・牛頭天王・病気
  •             氷川社:埼玉の大宮氷川神社・出雲族の神
  •             天満宮:太宰府天満宮・菅原道眞・試験の神様
  •             浅間社:静岡富士宮浅間神社・富士山・木花咲椰姫
  •             熊野社:熊野神社・熊野三山
  •             秋葉社:静岡秋葉神社・秋葉大権現・火災
  •             諏訪社:長野諏訪神社建御名方命
  •             鹿島社:茨城鹿嶋神社建御雷
  •             弁天社:厳島神社・ヒンズー教の女神サラスバティー・水財宝
  • 「日本の仏教」
  •             13宗56派
  •             奈良時代:華厳宗・法相宗・律宗
  •             平安時代:真言宗・天台宗・密教
  •             鎌倉時代:融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗
  •                         武士:曹洞宗・臨済宗・日蓮宗
  •             江戸時代:黄檗宗・普化宗(虚無僧)

既得権を守る役人『大江戸焼尽』

2019-01-25 08:04:06 | 歴史から学ぶ

@囮捜査で一網打尽。よく刑事物、捕り物である話だが大きな賭けだ。ここでも長谷川平蔵が同心・書誌役である里見梧郎と組んで江戸を大火で消滅させる企みをした盗賊一味を一網打尽する。様々な悪巧みを暴き、解決していく。その「戦法」を解くのはやはり知恵と経験だと感じる。どの時代でも貪欲な人物が権力を持って現れる。が、最後には権力が災いのもとになり終わる。誰かが犠牲になり、誰かがそれを阻止してきたことで時代が変わってきた。 話は変わるが、現政府は企業に対して定年退職の年齢を引き上げさせ、労働者の残業を止め、賃金を上げさせている。が実際労働者の手取りの金額は、様々な新税等でその昇給分は瞬く間に消えてしまっている。経営者にとっても労働者にとっても難題である。国は税収が増えて予算が確保できれば何の問題もない。そんな国家予算は「既得権」が行使され、減るところか毎年積み上がり、続々と新税が創設され、さらに過去の税金項目の見直しも消滅もないのだ。(復興税など)常に国家予算の増収を目論み、中小企業・国民への緩和・減税は殆ど無くなった。 そんな「既得権」は予算の振り先との関係から官僚・政治家の地位を確保・保持する為なのかと思う。厚労省の不正調査も「既得権」「権限独占」があるから改善、見直しができないのだ。

『大江戸焼尽』瀬川貴一郎

  • 一年前、盗人の口入屋を始めようとしていた庄右衛門の配下が、再び火付盗賊改方の書誌役・里見梧郎の目の前に現れる。探索を進める中、老中・松平定信が推し進める寛政の改革で決まった華美禁止令のあおりで失業した花火師たちの失踪が明らかになる。これらは何の符号なのか。梧郎は長谷川平蔵の名を受け、危機迫る江戸の町を守れるのか
  • 「枯れ尾花」
  •             下柳由佳は梧郎に好意を寄せながら平四郎と結婚、その後未亡人に。なぜか由佳が闇討ちに会う。なぜか梧郎の関係する旗本江藤家を梧郎の母が関係を持っていた。母は由佳を梧郎と夫婦にしようとしていた。
  • 「安心な隠れ家」
  •             旗本屋敷には与力・同心は踏み込めない、そこに目をつけた盗賊団が力の衰えた旗本屋敷を占拠、隠れ家にして盗賊を繰り返す。それは旗本屋敷にいた家臣全員を退去させ空き家とさせて踏み込む戦法だった。
  • 「盲目の剣士」
  •             田沼意次失脚後、恨みを買った一橋治済と忍者と盲目剣者の暗殺計画。将軍家治の時には田沼主殿守意次と民部卿一橋治済は密な関係であったが、将軍の世子家基が亡くなった後双方の利権が揺らぐ。そこに現れたのは盲目だが剣術の腕前を持つ雇われ者が梧郎と対決する。それは火花を使った戦法だった。
  • 「大江戸焼尽」
  •             盗賊の残党が花火師を利用し一橋治済と松平定信の屋敷を含め江戸中を大火させようと計画を立てた。江戸が大火で焼失すればその再建に大阪の商人と金が動くことを企んだ。平蔵は町の大店を一斉に改めた、それは一度改めが入ると二度と改めが入らないことを悟った盗賊が花火玉を仕掛ける場所として絶好の機会と睨んだからだ。ところがそれを逆に平蔵は犯人を捕縛できるように仕向けた罠だった。
  • 「御三家」とは水戸家・紀州家・尾張家
  • 「御三卿」とは一橋家・田安家・清水家
  • ここでは長谷川平蔵の命で里見梧郎が様々な刺客の計画を暴き、盗賊・刺客忍者と勝負する。 話は田安家の7男定信(松平定信)を将軍に推挙しようと老中田沼意次と一橋治済が企むが、将軍が変わり、松平定信が政策を実行することになり田沼が失脚、すると田沼が一橋の所為で失脚したことを恨み刺客を出し様々な事件を起こす。
  • 梧郎は行きつけの飯屋の女将お純と夫婦になるが、未亡人になった由佳との関係もあった。旗本と飯屋の女将との結婚は身分差別で可能ではなかったが、別の旗本の養女にすることでめでたく嫁入りする。
  • 隅田川の花火は両国広小路の「玉屋市郎兵衛」と横山町の「鍵屋弥兵衛」が例年5月28日から8月28日の3ヶ月、注文があれば毎晩花火が打ち上げられた。惜しくも華美禁止令で中止されていた。
  • 明暦の大火は北西の大風で大被害を受けた

神社と寺・神仏習合「江戸の神社・お寺を歩く」(城東編)

2019-01-24 08:00:03 | 旅行

@日本には多くの神社と寺がある。歴史的には幕末の神仏分離令で仏像を神社で祀ることを禁じ、また神の優位性を図るため廃仏毀釈などで多くの寺院が無くなり宝物も破壊されたとある。「神仏習合」は日本独特なのか神社と寺、双方を同じ場所で祀り共存させている。 今の世代では神社および寺に行く事は稀で年末年始・盆暮れ位か、また結婚式・葬儀で行く程度で宗派などはまるで気にしない人も多くなった。2016年度日本の宗派は13宗派があり、寺数は約7万7千寺(一番の多い滋賀県で人口10万@227寺)、神社は約8万1千社(一番多い高知県で人口10万人@300社)近くあるという。面白いのは、神社が多いのに比例するのが日本酒酒造数とある。https://todo-ran.com/t/kiji/14362 なぜこれほど多くの神社仏殿が多いのか。人間は辛く苦しくなると、不幸に、哀れになると、困った時、悩んだ時最後の決断に神頼みで「祈る」「拝む」。「祈り」「拝む」の一説では「神のお願いを聞く事」だともある。信じるのは「自分自身」ですね。(歴史的背景の記憶を辿りながら散策するのは楽しい:写真は谷中・山王寺・山岡鉄舟のお墓・江戸時代の時計)<江戸の大時計館では撮影不可だが1枚だけ許可を得て撮った>

「江戸の神社・お寺を歩く」城東編 黒田涼

  • 城東編
  •             銀座・八丁堀
  •                         出世地蔵尊・鉄砲洲稲荷・築地本願寺
  •             神田・日本橋
  •                         お玉稲荷・初音森神社・水天宮
  •             上野・谷中
  •                         不忍池弁財天・寛永寺・谷中寺町
  •             王子・田畑
  •                         王子神社・染井稲荷・天王寺
  •             入谷・千束
  •                         真源寺・鬼子母神・おばけ地蔵・待乳山聖天
  •             浅草
  •                         下谷神社・浅草寺・銀杏ヶ岡八幡・源空寺
  •             荒川
  •                         下尾石尊・袈裟塚耳無不動・浄閑寺
  •             北千住
  •                         千住本氷川神社・木母寺・小塚原回向院
  •             向島
  •                         牛嶋神社・三囲神社・吾妻神社・長命寺
  •             本所
  •                         回向院・江島杉山神社・妙見山別院
  •             深川
  •                         霊巌寺・富岡八幡宮・洲崎神社
  •             亀戸・砂
  •                         亀戸神社・浅間神社・待宝院
  • 『江戸の3森』柳森神社・椙森神社・烏森神社(江戸の鬼門封じ)
  • 『東叡山』寛永寺が東の比叡山、不忍池を琵琶湖、清水観音は清水寺
  • 『お得な切符』
  •             「都バス1日乗車券」「都営まるごと切符」「東京メトロ1日乗車券」「都営地下鉄ワンデーパス」「東京フリーきっぷ」
  • 『神仏習合』とは一つの宗教世界・神仏混淆
  • 『摂社・末社・合祀』とは1つの神社にたくさんの社殿を構える。神社の総本社で一番多いのが稲荷社ですべて京都の伏見稲荷大社の分社
  • 『〜山・〜寺・〜院』とは寺は僧を住めわせた場所を示し、山号を持たせた。院は建物。お寺が大きくなると建物ができ〜院と称した。

歴史を知る「江戸散歩」

2019-01-23 08:32:31 | 人生を「生かす」には

@歴史の東京を知る、「江戸散歩」で実際の東京を歩くと様々な江戸時代の人々の暮らしと生活の工夫も多く見られる。ただし武士と商人等が遺した建物、遺跡だけなのはさみしい限りだ。江戸時代は大火によって大きく江戸が変わった。特に1657年明暦の大火では本郷からの出火で天守閣・大名・旗本屋敷など約1200件、寺社300件、400町が焼失、約10万人の死者。 約百万人都市の江戸で1割以上の死者は相当大変な事態となったと予測できる。これは1923年の関東大震災の死者数とほぼ同じで壊滅状態的な江戸だったのではないかと思う。東京で江戸の歴史をそのままに遺している特に庭は素晴らしい。実際散歩してもその当時の天皇家・将軍・藩主がそこで何を思っていたのか想像するのも楽しい。浜離宮・毛利庭園・清澄庭園・桧町公園・小石川植物園・後楽公園・六義園など (写真は浜離宮)

『江戸散歩』山本博文

  • 「江戸城・平川門」は不浄門とされ不幸にして死去したものを出される門、赤穂藩主浅野内匠頭、またこの門は大奥の入り口。
  • 「半蔵門」は通常の入り口で、「大手門」は参拝・謁見する公家・大名等の門。
  • 「江戸城天守閣」は最初の60年ほどで明暦の大火(1657)で消滅
  • 「西の丸」1864年から明治天皇等の仮御殿
  • 「南北奉行所の窓口」商業の窓口(その他警察・裁判・役所を兼ねる)
  •             南町は呉服・木綿・薬問屋
  •             北町は書物・酒・廻船・材木問屋
  •             南北奉行所には与力が25騎、同心百二十人
  •             与力と同心は金銭出納、営繕、人事を管理
  •             吟味方は本役4人、助役6人、下役として25人の構成
  • 「江戸八百八町」は実際には当初674町、1713年には933町
  • 「桜田門の変」井伊直弼は総勢60余名、襲撃したのは水戸藩を脱藩した藩士17名と薩摩藩1名
  • 「日本橋三井越後屋」日本橋三越本店は東海道の起点日本橋に位置しており越後屋という呉服問屋三井高利が創設。当初(1745年)の売り上げは銀1万3835貫(現在の価値として年商461億円)
  • 「古着屋・日本橋富沢町」古着屋問屋が富沢町に集中
  • 「小伝馬町牢屋屋敷と小塚原刑場跡」現在の十思公園、旗本など身分の高い者が入るのは揚がり座敷。吉田松陰・橋本左内などがいた
  • 「銀座の発祥」銀貨を作る座があったことによる(江戸職人の町)
  • 「木挽町」歓楽街で遊女歌舞伎・人形芝居(江戸4座)
  •             山村座は絵島事件(大奥と歌舞伎役者との密会事件)で破滅
  • 「石川島人足寄場」長谷川平蔵が無宿の働き場所を提供して場所
  •             浅間山噴火、天明の大飢饉から人々を確保
  •             幕府は年間米7百俵、5百両提供
  •             寄場での油絞り、しめ縄等で収益は年間8百両
  • 「浜離宮恩賜庭園」将軍家綱の弟綱重の庭・鷹狩場、11代将軍家斉まで続く、江戸幕府の軍事施設で将軍家茂・慶喜等はこの浜から上陸
  • 「旧芝離宮恩賜庭園」小田原藩主大久保忠朝から紀州藩徳川家の屋敷、明治維新後は有栖川宮の屋敷、その後明治天皇の生母へ
  • 「将軍家の菩提寺」三緑山増上寺 2代将軍秀忠・お江、プリンスの跡地にあったのは将軍の霊廟・家宣・家重・家慶・家茂、その他5代将軍綱吉の母桂昌院・家宣の正室天英院・側室月光院・家慶の正室広室院・家茂の正室静寛院宮(和宮)
  • 「愛宕神社」江戸一望できた神社
  • 「江戸の庭」
  •             「毛利庭園」六本木ヒルズ、「長州藩屋敷・桧町公園」ミッドタウン、「水戸家上屋敷」小石川後楽園
  • 「小石川養生所」小石川植物園、幕府の薬園、5代将軍綱吉が館林藩主にサツマイモの栽培、朝鮮人参栽培などをさせた薬草研究と製薬の製造施設。小普請医師岡丈庵と林良適2名に養生所を運営貧しいものを無料で診断、看病
  • 「加賀藩上屋敷」東京大学赤門11代家斉の21女子溶姫の輿入れ寺に建立、庭園には三四郎池、本妙寺(現在巣鴨)には遠山の金さん、千葉周作の墓もある
  • 「江戸の最高学府」5代将軍綱吉の湯島聖堂・孔子廟・昌平坂学問所
  • 「甲府宰相綱豊の屋敷」根津神社・日本タケルの尊が創設(説)太田道灌により建立江戸時代前期の社殿
  • 「柳沢吉保の庭園」六義園・5代将軍綱吉の側用人吉保の自慢庭
  • 「寛永寺」1622年東の比叡山・天海が建立・4代将軍家綱、5代将軍綱吉、8代将軍吉宗の墓、幕末の彰義隊決戦の場
  • 「吉原・新吉原」大火の理由により日本橋から浅草に移り約2千名の遊女、一夜に1千両などの夜も営業ができ金が落ちた。遊女は14・5歳から20歳まで、平均死亡年齢も22.7歳であった
  • 「永代橋」綱吉50歳の記念
  • 「安政大地震と富岡八幡宮」1855年大地震で本所、深川、浅草、下谷、小石川が酷く、遊女831人、客454人、町人・商人など1415人含め2700名の死者を出した
  • 「綱吉の犬小屋」中野区役所あたり16万坪、建設費用4万5千両90億円)に4万2千匹が収容されていた。食料は1日米330石、味噌10樽、千鰯10俵、薪50束

「出会いは」未知を築く「生きていくあなたへ」

2019-01-22 08:04:12 | 人生を「生かす」には

@日野原重明先生の遺したかった言葉「前進また前進・出会い」(Keep on going & Encounter)。先生にとって生きがいは人との出会いとある。年齢の差を超え様々な人々と会い、語り、聞きすませた人生の言葉はやはり今に生きる者にとって心に、ジーンと伝わる。人は生まれた時から死への路を歩む、誰もが経験する避けられない「死」には「無限」は無いが、言葉は未知に「無限」に遺る。 生きている間に「未知に遺せる」モノとは何だろうか。現代ではブログ・デジタルの写真映像など様々な形態の「遺物」を生前に作っておく事も可能である。家族でも知らない自分を如何に遺しておくことができるのか。その様な事で次の様な「自分史遺産」を遺すことにしている。(下記はこの書籍とは別)

人生・教訓 (遺す自分史遺産)

4つの関係分類 仕事:コミュニティー:自分自身:家族: 

6つの年代別 20代: 30代: 40代: 50代: 60代: 70代

熱中していたこと

巡りあった人  人生の支え:指導してくれた人:心の支え、勇気をもらった人

人生の支えとなったもの 本:言葉:人物:事柄

好きなもの 事:人:場所:食べ物

いままでの人生で 一番嬉しかったこと: 一番頑張ったこと: 一番辛かったこと: 印象に残っていること: 

こうしてほしい、もしもの時

お願いしたい人や事柄

公開する情報

非公開する情報(家族だけの情報) 

『生きていくあなたへ』日野原重明

  • 105歳どうしても遺したかった言葉
  • 「人生のバランス」
  •             学ぶ事の時間VS経験から役立つ事教え、伝える事
  • 「KEEP ON GOING」  「ENCOUNTER」
  •             前進また前進・・・出会い
  • 「死は命の終わりではない」
  •             生きているからこそ様々な出会いがある、自分でも知らない自分がまだたくさんある。
  •             子供のうちは与えられている時間を全部自分のために、大きくなったら他の人のため、社会のために使わないといけない。
  •             自分らしく生きるには、無理をしない、あるがままが大切
  • 「愛する事」
  •             「星の王子さま」では「心で見えなくちゃ、物事はよく見えないってことさ。肝心な事は目に見えないんだよ。」
  •             「愛」とは人間の生きる目的すべてだ
  • 「許す事は難しい」
  •             深い悲しみもやがては優しい想いに変わる時が必ず来ます
  • 「大切な事はすぐには判らない」
  •             悲しみと喜びというものはコインの表裏の様にくっ付いている
  •             苦しみは自分の成長のために与えられるもの
  •             海外での経験、もっと海外から学ぶ事も大切
  •             本物、真実を知るため「なぜやるのか」を自分で問いかける事
  •             遠くを見る、表明する、そして実践する(人間の意志の形)
  •             家族の愛情には「ほったらかし」もある
  • 「未知なる自分との出会い」
  •             若さの秘訣は「常に新しい自分との出会いを大切にしている事」
  •             「感動する」を追いかけ新たな挑戦をする事
  •             人生の生きがいで「運動不足」より「感動不足」の方が深刻
  •             ユーモアと笑いの効果は大きい
  •             時間を人のために使える人に
  •             「ライフワーク」とは真に仕事が生きがいになる事
  •             未知なる自分と向き合い、自己発見することが目標
  •             目標を心に抱き、初めて希望が生じる。やりたいことがない者には希望はない。
  • 日野原重明先生は105年と10ヶ月地上での旅路を終え旅たった。「感謝」「出会い」

「〜な自分」を知ると強い『しない生活』

2019-01-21 08:22:21 | 人生を「生かす」には

@『〜な自分』を創作する。自尊心・虚栄心から自分を見出し、知ることができ、自分に強く生きることを教えてくれる。一度『〜な自分』で自分の姿、性格、性質、体系を掘り出してみるのもいい。現代は自分をうまくPRできないことでイライラしたり、自分に有利な言い訳を創り、ありもしない事で他人と比較し、終いには自分をうつ状態にしてしまう人もいる。 ネット社会は距離を短くできるが、時間を短くはできない。時間は平等であり、それを如何に、効率よく巧みに利用できるかである。その為には、まずありのままの「〜な自分」を知ることが必要かもしれない。 特に「比較しない」(他人と比べない)事はまさに自分の人生と同じ人は世の中にはいないから比較する事を自体が「悩み・辛身・惨め」を産む事になる。それを見習って人生の寄り道をすることで「無駄な時間」を作ってしまう、だから「〜しない生活」が生かされるのかもしれない。 思うに「過去の〜な自分」と「未来の〜な自分」を思う事で、これからの自分と如何に向き合うべきか、自分の時間をどの様に使って生きるべきなのか問うべきかも知れない。 他の書籍で見つけた自己PR・講演等でのヒント:

4つのコツ(ストーリーテラー) 人に伝える効果をアップするには

1、簡潔に語る(始まり・中間・終わりでまとめる)

2、伝えたい要点を簡素に

3、感情・ジェスチャーを入れる

4、子供の前で練習する(判りやすく言える事は「伝わる」事)

『しない生活』小池龍之介

  • 煩悩を鎮める百八のお稽古
  •             立ち止まって自分の内面を丁寧に見つめる事。辛さから逃れようとして何か「する」のでなく、ただ内省により心を鎮める「しない」生活をブッダの言葉を紐解く。
  • 「つながり過ぎない」
  •             入ってくる情報が増えれば増えるほど心は乱れる・キリがない
  •             「いい人」をやめ嫌いな事は素直に断る
  •             「どちらが得か」を迷うのは心にとって損
  •             自分が隠している情けない感情を認めると楽になる
  • 「イライラしない」
  •             自分が何に怒りっぽいのかチェックする
  •             「しなくていい」は「してほしい」
  •             「でも」「しかし」をこらえて権力闘争を回避する
  •             まず相手の甘えを受け止めれば対話の質は向上する
  • 「言い訳しない」
  •             謝るときは余計な言い訳を付け加えない
  •             勝手にライバルを仕立てて妬んでしまう心に注意
  •             隠れた自己愛を自覚すれば自然体で振る舞える
  •             失敗しても無心なら爽やか、言い訳をすると見苦しい
  •             その場しのぎの返事をしないで「少し考えさせて」と保留する
  •             「X Xな自分」という自我がイメージを持つと苦しくなる
  • 「急かさない」
  •             頑張り過ぎず、だらけ過ぎず
  •             「こだわり」を手放す
  •             相手が間違っていても追い詰めない
  •             「こういう自分でありたい」と渇望するから苦しい
  •             人は生きている限り「満足しない」という苦を味わう
  •             「苦労が報われない」という無力感から逃げ出さない
  • 「比べない」
  •             心の平穏を保つには好きすぎるものを遠ざける
  •             虚栄心に流されない
  •             誤解されるのを恐れない「違う」と言えばいいだけのこと
  •             無理に周りに合わせるような偽りの優しさは捨てる
  •             成長のためには、己の「未完成」を自覚する謙虚さが必要
  •             「弱い自分」「できない自分」を認める方がリラックスできる
  •             他人と比べない、過去の自分とも比べない
  •             他人からの厳しい指摘に感謝できることこそ真の反省
  •             人に範を示す立場の者こそ「弱い自分」を認めることが大事

歴史が語る過去の謀反文『政宗の密書』

2019-01-20 08:08:06 | 歴史から学ぶ

@密書となるべき伊達政宗の文が世代を超えてその写しが出てきた事が事件を引き起こす。それは徳川幕府への謀反を起こす内容だったからだ。戦国時代から江戸時代、やはり野望のある武将であれば誰でも天下を切望し、その為の策略を日々考えていた事は否めない。ここに東北の雄である伊達政宗が徳川後の天下人になっても不思議ではなかったと思う。実際政宗は幕府軍との対戦演習まで(軍記物『東奥老子夜話』)行なっていたという。遣欧使節として派遣された支倉は、徳川幕府の禁教令でキリスト教の布教ができず帰国後2年で没とある。欧州への最初の日本人派遣で得たものはあまりにも少なく今後新たな歴史文章とうの発見と検証に期待したい。海外に行く、あるいは住むと以外にも日本を知らない事に気づく。特に歴史的な背景から日本とのつながりなど。イギリス・フランス・ドイツ・スペイン・ポルトガル・トルコ・ベトナム・台湾など現地の人の方がより日本を知っている事に驚くが過去諸国を歴訪した歴史上人物、あるいは日本を訪問した人物(史書)での貢献(人助け・復興支援など胸を張って日本人だと言える)が多い。

『政宗の密書』藤井邦夫

  • 徒目付の村田甚兵衛が姿を消した。みまみ待ち奉行所吟味与力秋山久蔵から探索の名を受けた隠密周り同心乾蔵人は徒目付の足取りから神楽坂にある小料理屋の主人に狙いをつける。主人を追った蔵人の目の先には仙台藩の下屋敷が。そして目付失踪の背後には驚愕の事実が隠されていた。
  • 蔵人は福津藩家老と江戸家老との間でアヘンの密輸を暴いていく。以前は荷抜きの疑いがあったが証拠が無く処罰できなかったが、それを裁く越後屋の動きから新たな抜け荷(アヘン)を掴む。
  • 「政宗の密書」は、仙台藩伊達政宗の支倉常長に託したイスパニア国王への密書であった。200数年以上経った江戸時代後期にその末裔が写しを持っていたことが藩内での問題を起こした。その内容を暴こうと村田が動くが藩内の家臣に習われる。その密書の内容とは「イスパニアの国王に対し、手を結んで徳川幕府を倒そうと・・・」であった。公儀と仙台藩での問題が殺戮になった。

利休のおもてなしの心『利休に尋ねよ』

2019-01-18 08:06:48 | 歴史から学ぶ

@秀吉に仕えた茶の湯・茶人法号名利頓休(利休)は茶への目利き以上に茶を飲んでもらう客人に対しても最高のおもてなしをしていた。心に残るおもてなしで利休は、多くの茶人もさることながら朝廷・公家・武将たちの心を掴み一流の茶人となった。秀吉の利休に対する最後の命「切腹を申付ける」では何が背後にあったのか、どうしてこのような最後を迎えることになってしまったのか。この小説ではやはり秀吉を超える器量が天下を狙う者に映ったのかも知れない。物的証拠(山門の利休像)で世間の目を誤魔化しているかも知れないが、やはり天下人秀吉の恐れは「次の天下人」を恐れ、生きている間に亡き者にする事だに違いない。平和な時代を迎えた秀吉は人の心を掴む茶の「巧み・技」から、次の天下人は武力では無く茶の湯から「心からの敬愛・尊敬される人物」だと悟ったことではないだろうか。 現代の敬われる人材とは、ここにある仏典・三毒の焰「貪欲・瞋恚・愚痴」(むさぼり・怒り・愚かさ)を心得ていることかも知れない。人に対する心からの「おもてなし」(気配り)は、学ぶところが多い。

『利休にたずねよ』山本兼一

  • 茶人は常に命がけで絶妙の境地を求める。最後まで己の美学を貫き、天下人秀吉に疎まれ、切腹を命ぜられた千利休。心の中にいつも潜んでいたのは、19歳の時に殺した女だった。利休に艶やかな感性を与えた、その姫た恋と人生の謎に迫る。
  • 魚屋の千与兵衞の息子与四郎(名利頓休・利休当時19歳)は茶の師匠武野紹鷗から預かった高麗の女(三好一族将軍長慶に差し出す女)を国許に帰すことで共に逃亡するが追い詰められ 利休の持っていた毒を飲み心中を図る。が女は死に、利休は自殺できず師匠に匿われる。この高麗の女が利休の茶の心になり「茶の神髄」を追求するようになる。(初恋の思いが生涯の遺恨となる)
  • 信長の名物狩りの市に宗易(利休)の持ち込んだ水墨画は信長の悪評価となりその場で破り捨てるという事態になり信長の茶頭は津田宗及。
  • 利休の最初の茶の間は「待庵」、北向き、前代未聞の2畳であった。窓は竹の格子、縁側は無く、障子戸もつけず、天井はいくつかに仕切って広くみせ、腰を折って入る小さな潜り戸(79cm)、部屋の壁には軸をかけず、花を活けず、虚ろなままにしていた、それは心を落ち着かせる世界を作った。
  • 秀吉は利休の茶の道具を随分巻き上げたが、釉薬の入った小壺だけは譲らなかった。利休の茶の湯の心・精進は「あの女に茶を飲ませたい」それだけを考えた。釉薬を入れる小さな壺にはあの女の爪(形見)が入っておりいつも肌身離さず持っていた。その小壺は瓦屋の絶妙な釉薬の技術で作り上げた軽く手の平に馴染む絶妙な壺となっていた。
  • 帝から賜った法号名利頓休・利休は秀吉に仕え茶頭となるが、「お前は恐ろしい男だな」と言われるくらい茶の湯で人々の心を掴む技を持っていた。茶に対する鋭い目、鋭い気、鋭い全身など、茶に対するものは全て武将の世界にも及ぼすと秀吉は観た。秀吉の恐れは利休の茶の信念が秀吉を超えることを恐れた。それは一つの例として島津征伐の際には利休の懐柔する文で戦わずして島津は恭順したこともあった。
  • 秀吉の黄金の茶室は帝・朝廷の肝を驚かせる利休の発案からのもので、金を15貫目、茶の釜(18貫目)にも大金を費やして購入していた。
  • 利休の茶の湯でのおもてなしは秀吉の嗜好を巧みに仕込み、茶の濃さ、熱さ、茶菓子、その後の酒と飯・おかずなども用意周到に用意していた。旬で時期に筍の料理、青竹に鞘に入れた輿米菓子など。秀吉の期待を必ず良い方に裏切って、いつも予想しない美味しいものを用意、思いかけぬ趣向で驚かせた。利休の茶の湯に対する美しさからくる侘び寂びはいつも境地を求めていた。利休の茶の湯の点前には人の動きを心得ており道具の持ち方、あしらい方等に無駄がなく自然だった。
  • 秀吉の利休を死に追いやった理由は山門の上に茶頭風情の草履を履いた利休の像であった。帝も関白もお通りになる大徳寺山門である。その時の利休は秀吉の家臣から見た利休は、いくつもの顔を持っており、慇懃、傲慢、繊細と思えば無頼、摩訶不思議な茶人だと言われた。最後まで寺が独自に作った山門の木造に対する詫びる気持ちはなく、秀吉の詫びさえ入れれば恩赦をすることに依怙地になっていた。
  • 人の世には三毒の焰「貪欲・瞋恚・愚痴」(むさぼり・怒り・愚かさ)
  • 利休には宗恩という正室に二人の男の子があったが10になる前に亡くなり、妾が二人いた。

外圧(観光客)でキャシュレス経済前進『キャシュレス経済』

2019-01-17 08:06:07 | 世界の動きから見えるもの

@日本のキャシュレスは近隣の諸国より相当遅いペースで変化しつつある。それは漸くここにきて近隣諸外国からの観光客が増えているからでもある。韓国・中国等始め最新IT技術導入先進国からの要望で動き出したのは否めない。また今後観光客含めた諸外国の訪日者、オリンピック・万博と続く日本では当然それらの先進国を学び導入せざるを得ないだろう。基本的に今までクレジットカードを導入できなかった店舗(カード会社の高額手数料を嫌った)でも利便性・手数料等から受け入れやすく、それこそ「経済生産性向上」に繋がることは間違いない。世の中の動きを素早く察知できない、知っていてもいつまで経っても導入できない(既得権者との討論ばかり)日本の政府・官僚政策は今後も続くだろう。が、商売はそんなこと言っていたら「飯の食い上げ」になってしまう。敵を作らないように「思い切り」できない政治政策は何も得ない。 仮想通貨など日本は逆にオープン(口座開設・換金)にしているが、問題は換金する時の「重税」(最高で確か45%)である。将来多分日本からの「お金」の流出に繋がり日本国での換金は消え失せるかもしれない。「紙幣の最新技術・デザイン・印刷・物流コストなど数千億円をかける時代から、次世代の金融革新を迎えている。どこでも、いつでも、なんでも」の日本の新税はここにも問題がある。毎年新たな新税、国民は新税に対する大胆な異論・反対論を示すべきだ。観光税など誰がいつ決定したのだろうか? この税収は多分来年以降500億円以上になることは間違いない。喜ぶのは税を配分する利権者の官僚・政治家、それに纏わりつく業者だけか?

『キャシュレス経済』川野祐司

  • 預金システム・電子マネー・仮想通貨・電子通貨の4つの分野を網羅
  • 「キャシュレスの国際比較(現金を利用する比率)」
  •             スウエーデン 1.4%
  •             ノルウエー  1.6%
  •             デンマーク  3.4%
  •             ブラジル   3.7%
  •             イギリス   3.9%
  •             カナダ    4.2%
  •             韓国     5.9%
  •             メキシコ   7.3%
  •             アメリカ   8.1%
  •             インド    8.8%
  •             フィンランド・ドイツ・ベルギー 9.9%
  •             シンガポール 10.4%
  •             スイス    12.3%
  •             日本     20%
  • 「オンライン銀行・モバイルペイメントサービス」2017年
  • 日本の電子マネーカード保有の平均は8枚、利用は20%未満
  •             枚数は約3億5千万、支払額は5兆円を超える
  •             ポイントカードでの利用増・QRコード読み取り式他
  •             スキミングされるカードはICチップが内蔵されていないもの
  •             日本の紙幣流通額100兆円を超えている(現金主義が多い)
  •             特に1万円札の流通枚数が多い(毎年莫大な印刷コスト)
  • ヨーロッパでは銀行数・店舗数が激減2008年度比23%・20%
  • 2012年以降オンラインショッピングへ移行・エクスクローを利用したモバイルサービスへ移行
  •             エスクローサービス(信用払い)手数料日本2.9%〜3.6%
  •             スウエーデン Swish・デンマークMobilityPay/Dankort APP
  •             スウエーデンでは古い1000クローナ紙幣は使えなくなるシステム採用(廃止)でキャシュレスを増幅させた
  •             フィンランドではMobiilimaksuのモバイルペイメントが認知度で53%、様々なモバイルアプリでの利用率42%ある。
  • イギリスのEU離脱で金融機関が流出するその数はおよそ2万5千人
  • アメリカでの銀行サービス提携先(debit card的役割)
  •             ApplePay 98%/ Android Pay 82%/ Sumsung Pay 77%/ Paypal 74%/ Visa Checkout 45%/ Amazon Payments 41%
  • 中国ではオンラインショッピングの利用者は4億4千万人
  •             2002年からUnionPayのデビットカードの利用・168ヶ国利用・48ヶ国でカード発行・日本2008年から利用可能
  •             2004年からAliPayも5億2千万人利用
  •             モバイルペイメントが36%
  • ケニアでのモバイルペイメントはM-pesaで35百万人の利用者
  • 「仮想通貨」
  •             ビットコインは世界1万2千カ所、日本では280カ所ある
  •             小口送金・国際送金での利便性が評価・法的規制が多い諸国 
  • 「現金との相違」
  •             紙幣の物理的コスト(印刷・物流・保険等)<>エコシステム
  •             処理速度の速さ(1秒間に2万4千件のトランザクション可能)
  •                         日本の総人口が1日3回利用すると同じ回数
  •             寄付などにもモバイルペイメントが利用されている
  •             日本およびアメリカでのチップはデフォルトで請求されている
  •             将来的な利用価値は「バイオハッキング」(体内内蔵チップ)
  •             電子ウオレットに電子通貨を入れるだけで銀行に口座を設ける必要がなくなる、よって金融機関の見直しが図れる
  • 「日本の将来」
  •             日本のキャシュレス化は現金主義が以前根強い為一気には変革できないと予想、よって利便性に欠け時代遅れになる。日本は電子マネーの種類が多く利用できる店舗数によりが淘汰されるまでに時間がかかる。2016年の改正銀行法でAPIにより様々な企業が参入できることになり接続性は増す、2018年10月の全銀システムの改革での銀行間の処理能力スピードアップで進化を期待
  • 「金融の教育」
  •             金融教育の必然性。それは生涯の人生プランで「金」は欠かせない「守る」要因だからである。資産管理・金融商品の知識として年少から必要だ。「マシュマロテスト」での教訓を活かす教育が必要
  • サイト・書籍
  •             知るぽると(金融広報中央委員会)お金の知恵シリーズ
  •             アング「資産運用の本質」きんざい
  •             「ゴールベース資産管理入門」日本経済新聞

駈込み寺で離婚成立『江戸の色事仕置帳』

2019-01-14 09:01:35 | 歴史から学ぶ

@江戸時代の処罰・刑罰は前回の江戸残酷物語でも紹介したが、ここでは男尊女卑の江戸時代、「密通」「暴漢」等、女性・妻は行き場を無くし訴える事もできず泣き寝入りしていたという。だが、家康由の寺「駈込み寺」が救ったとある。150年間で2千名。それ以外は自殺等に追い込まれたかもしれない。この時代、3年過ぎても音信がない場合、離婚が成立したとある。また、妻側からの離縁成立には条件があり、夫が妻の承諾を得ないで妻の持ち物を質に入れた場合、また、夫が10ヶ月以上行方不明の場合も離縁が成立したともある。興味深い当時のシステムは現代社会でも、こういったシステムを犯罪になる前に再度一考すべきかもしれない。現代では保険金目当てなど夫婦不和から殺人事件になっている場合もあり、人間の結びつきは生涯不変ではない。 日本の常識は一部世界の非常識などと言われている時代、昔からの風習からの規制・規則、法規を見直すべき時代になっているやもしれない。 ちなみに死刑制度が現在でも施行しているのは日本、北朝鮮、中国などで、近年は廃止になる諸国が増えている。

『江戸の色事仕置帳』丹野顯

  • 名奉行が輩出した江戸時代。彼らによって残された大量の裁判記録の中から、男女間の性的な事件犯罪に対する裁きと仕置をまとめたもの。粋な町民文化の象徴と思われ気味な色事だが、不義密通はもちろん、婚前交渉ですら、奉行所で一旦裁きにかかると死刑や追放といった厳しい刑罰が待っていた。おおらかに性を楽しんでいた等に見える江戸庶民、しかし実際は身分差別や儒教による秩序原理によって縛られ、恋愛においてもほとんど自由がない生活を強いられていたことが見えてくる。
  • この書での内容は主に「密通」「レイプ」「売春」「心中」「女犯」「DV」、性犯罪「痴漢」「セクハラ」等については町奉行所への訴えが認知されておらず除外されている。内容は「御仕置裁許帳」「御仕置例類集」が出所である。
  • 江戸時代は男尊女卑、儒教の主従上下関係に左右された裁断となった
  • 「御定書百ケ条」徳川吉宗の意向の刑罰書
  • 江戸時代の処罰
  • 「死刑」鋸挽き・磔・獄門・火罪・死罪・下手人
  •             獄門は牢屋敷で斬首、刑場で首を晒し、遺体は試し斬りに
  •             死罪は牢屋敷で斬首、遺体を試し斬りに
  •             下手人は牢屋敷で斬首、遺体は親族に引き渡し、埋葬許可
  • 「遠島」重追放・中追放・軽追放・江戸10里四方追放・江戸払い・所払い
  •             重追放は武士の場合関八州・畿内・東海道筋・木曽路筋禁止、庶民は江戸10里四方追放
  •             中追放は武蔵・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曽路筋・日光道禁止
  •             軽追放は江戸10里四方追放・京都・大阪・東海道筋・日光・日光道禁止
  •             江戸10里四方追放は日本橋の5里四方内からの追放
  •             江戸払いは品川・板橋・千住・四谷大木戸・本所・深川内から追放
  •             所払いは住む町村から追放
  • 「その他」敲き・晒し・手下・押込・手鎖・過料・叱り
  •             敲きは牢屋で50回〜100回歩行が可能な程度まで鞭で打つ
  •             手下はへの身分降格
  •             押込は20〜100日間自宅謹慎
  •             手鎖は30日・50日・100日間刑具で両手を固定
  •             過料は罰金で6種類
  •             叱りは役人が叱責
  • 武士と僧侶には「閉門」「逼塞」「遠慮」、武士にはさらに「改易」「隠居」等があった。性犯罪で多かったの追放刑。だが「密通」は鎌倉時代から男女共死刑。
  • 「白子屋おくまの不倫事件」は庶民の間で美化された、それは江戸時代には愛し合ったもの同士がなかなか結婚できない厳然たる仕来りがあった。結婚している女は恋文をやり取りするだけで中追放刑。「密通」は示談もあり慰謝料(7両2分)を払う事もあったが、基本的に死刑。(江戸の拷問と比較して明治以降の警察の拷問は日常的で恣意的であった。1936年の「阿部定事件」は懲役6年、だが江戸時代は密通未遂事件で中追放。)レイプ犯罪では追放前に「敲き」を行なったが、大半は被害にあった女性は泣き寝入りとなった。
  • 「刑法」強姦罪・強制わいせつ罪は13歳上と13歳以下での扱いが違うが江戸時代では「幼年」は15歳未満としている。
  • 「売春防止法」は1956年交付、1999年に「児童買春、児童ポルノ禁止法」が施行されている(児童は18歳未満)が、江戸時代は遊郭を幕府が認めたが、遊郭以外では禁止だった。江戸の人口は20〜40代の独身男性が圧倒的に多く庶民には銭湯と湯女屋が賑わった。湯女屋とは15文で入れる蒸し風呂で20−30人の女たちが垢を落とし、髪を洗ってくれる場所で幕府はガス抜きも含めて風俗営業等を許可していた。また今の中央区日本橋人形町一帯を幕府が買い上げ「吉原」として条件をつけて許可した。江戸大火でその後浅草方面に移動。
  •             吉原以外で遊女商売の禁止
  •             一昼夜以上逗留禁止
  •             遊女の金銀刺繍など華美を禁止
  •             遊郭を美麗にしない事
  •             怪しいものは身分に差別なく町奉行書に訴える事
  •             「遊郭」は全国に25箇所、「吉原」には遊女987人いた。また、旅籠にも「飯盛女」が1軒につき2名置き、品川宿では1348人いた。その他公娼以外には私娼含めた夜鷹、踊り子等江戸には4千人がいた。
  • 1703年「曽根崎心中」(女郎お初21歳、徳兵衛との心中)は元禄バブルで大量の悪政通貨(慶長小判の金の純度が84.29%から57.37%)、「犬公方」の政治で20年以上経済・社会の閉塞状況が続いた。吉宗の「心中法度」で厳しい沙汰が交付され、心中した罪人は双方ともに下手人、遺体を裸にして晒し、埋蔵不可とした。
  • 僧侶の性犯罪には仏教の戒律を重視「5戒」
  •             不殺生戒(生き物を殺すな)
  •             不偸盗戒(盗むな)
  •             不邪淫戒(邪な性行為をするな)
  •             不妄語戒(嘘をつくな)
  •             不飲酒戒(酒を飲むな)
  •             その他出家すると「具足戒」等があった。住職には庶民に対して関所手形発行、結婚承認など役があった。僧侶の刑罰としては流人が多く江戸では八丈島行きが多く、1610年で1823人うち僧侶が221人いた。孤島の暮らしは飢餓ギリギリの生活だった。
  • 僧侶は医者に変装して遊郭にか通い、捕獲されたものは浄土宗、日蓮宗が多く、延命寺には大奥、奥女中なども寺にお通夜として参拝と称しながら密通をしていた。
  • 江戸時代には父権が強く犯罪になる事が多く、武士の結婚は双方の武士の身分で判断された。持参金(保証)を持ち嫁に行くが、夫の理由で離婚の際には持参金を返金する必要があった。だがDVなどで虐待されるケースも多く妻からの離婚は認められず犯罪に走り処罰された。その際には夫を殺した場合は下手人として死刑、場合によっては密通宣告され獄門等にもなった。「三行半」(離縁状)は夫の利権であり妻にはなく、当時DVで妻の行動はかけこみ寺への逃亡であった。江戸では2箇所(徳川家康が認める寺)鎌倉市の東慶寺と群馬県尾島長の満徳寺が名高い。駈込み理由は夫の不法・姑の不法・婿と親の不和・病身・夫を嫌って・夫の反省改心を願って、当時150年間で2千人もいたという。実質2年余り寺に留まり夫が身柄引き取りに来なければ認められた。

規制の緩和・逆転発想策『保科正之言行録』

2019-01-11 07:49:32 | 歴史から学ぶ

@伏せられた会津の功績・保科正之の仁心無私の政治家。幕末に置ける薩長対会津は戊辰戦争での悲惨な終結となったが、朝廷からの絶大なる信頼を得ていた会津が「賊軍」とされ歴史上、会津の、そして将軍の庶子として生まれ、2代目藩主保科正之の功績は影に隠された。だが、幕府の260年を継続させた基盤は正に3代将軍家光・保科正之の時代に確立された。その功績は今もってしても政治家、事業家へのインパクトは大きく、物の考え方、実践方法など参考にするものは多い。特に今までの法規制を緩和・逆転させた3大美事の発想はそれに値する。現代「民意に優しい政治」は少々見えない感がする(机上から拾い上げた言葉には実際の行動が伴っていない)。特に諸税など、つい最近の「出国税」など毎年500億円以上の収入の支出目的と詳細が不明である事など、今年導入される消費税10%は景気がどん底になろうと最後の安倍政権に取っては何も悩むことはないだろう。また厚生省等の調査資料の隠蔽問題など政治家・官僚に優しい政治ばかりで民意に沿っていないのがとても残念だ。

『保科正之言行録』中村彰彦

  • 兄家光の遺命を受けた正之は、四代将軍家綱の輔弼役を忠実に果たして徳川幕政を文治主義体制に導いていった。その行動は誠実無私、家臣や領民に対しては寛容と仁心を持ってことにあたり、彼の清廉な精神は会津士魂として後世まで多大な影響をもたらす。晩年、血を吐きながら惑乱することなく最後まで使命を務めた不出世の名君は、堂々たる死への準備を整える。彼こそ幕政時代の理想の政治家であった。
  • 将軍の庶子に生まれた保科正之は徳川の平和の基礎を構築、家綱に後世「三大美事」と讃えられる善政を行った、国許の会津藩には様々な福祉制度を実施して民に優しい政治を行い続けた不出世の名君は62歳であった。生涯肉親には恵まれず21歳で正光、22歳で秀忠、25歳で母、その後正室のお菊、翌年には長男も5歳で亡くしている。
  • 「三大美事」
  •             殉死の禁止(藩主等の死亡を追って追腹する事)
  •             大名証人制度の廃止(江戸に人質を置く事)
  •             末期養子の禁止(家督相続への緩和)
  • 江戸時代の三大政治家・実践者と3人の名家老
  •             岡山藩の池田光政、会津藩の保科正之、水戸藩の徳川光圀
  •             尾張の成瀬隼人、紀州の安藤帯刀、会津の田中三郎右衛
  • 母は北条家の旧家臣神尾伊予の娘お静、側室。2代将軍徳川秀忠には正室のお江与の方があり、極めて嫉妬深い性格で懐妊は全て極秘にされた。「幸松」は老中土井利勝により武田信玄の第2女の老尼見性院に預け、19歳の時信州高遠2万5千石藩主保科正光の養子になる。将軍家光も正之の出生を認知しており、秀忠の死亡の時には正之に葬儀の責任者を指名、次第に徳川幕府での頭角を表し、出羽山形(最上)20万石の藩主となる。
  • 正之:朱子学・性善説・将軍の理髪役・輔弼役、正之は家光の「託孤の遺命」を最後まで遵守した。家光死後足掛け23年間江戸に滞在し幕政の舵取りを一身に捧げた。もちろん国許も疎かにせず指導・判断・裁判判決なども返答している。孟子の性善説は、人間は努力すれば仁・義・礼・智の4つの徳を兼備する事(徳川光圀は性悪説)
  • 正之の改革(会津藩23万石、預かり領5万石)
  •             離村した農民への懲罰なし(厳罰主義を否定)
  •             再審制度(正之自身が最終的に判断する)
  •             家臣への配慮(新旧家臣の上下の石高を不平無く与える)
  •             武士道(民に益する政策を優先・朱子学を奨励・会津士魂)
  •             減税・検地をやり直し(年貢の軽減・無償米貸付)
  •             社倉米の確保(救済措置のための備蓄制度)   
  •             領民保護策・福祉政策・救急医療(乞食・旅人でも助ける事)
  •             親孝行に表彰・労働力確保・親不孝者の追放
  •             防水・馬見ヶ崎川延長2万2千mの大洪水防止普請
  •             飢餓対策・雑穀推奨・加工販売、酒作りを制限(酒にして飲み干すを監視)
  •             能力のある人材の登用
  •             老養扶持制度90歳以上の貴賎男女に一人扶持(1日玄米5合)
  • 結果:1648年の11万人の人口が1680年には5万人増(当時日本全体の人口はあまり変動がなく、江戸中心・江戸に集中した)
  • 正之の行動
  •             明暦の大火 主家・難民を飢餓から救うことを第一、だが家族の次男を失くす。町の再建に16万両を用立てる
  •             江戸の人口を減らし物価の上昇を抑えた
  • 大江戸復興プラン
  •             大名屋敷の郭外移転と下屋敷の下賜
  •             寺院の移転 八丁堀・矢の倉・馬喰町・神田から深川・浅草・駒込・目黒等へ
  •             沼地の埋め立て・防火堤・火除け空き地(広小路)
  •             主要道路の拡張と両国橋・芝・浅草橋・神田川拡張
  •             天守閣の見送り(延期)
  •             玉川上水の確保
  • 「会津藩家訓」(現代訳・略)
  •             忠臣・忠勤すること
  •             武備を怠らず、上下の分を乱すな
  •             兄弟を敬い愛する事
  •             婦人女子の言うことを一切聞くな(お万の不祥事を懸念)
  •             主人を重んじ、法を守ること
  •             媚を求めず依怙贔屓するな
  •             心のねじ曲がった人材を採用するな
  •             賞罰は厳格にすべし
  •             政事は利害を外し会議は私意を入れるな
  •             社倉は民のために置く、他用に使うな
  •             若くて志を失い、遊びを好みおごるものは封印、蟄居させよ
  • 福島県耶麻郡猪苗代町見祢山の土津神社(山崎闇斎の1943字)は正之の業績が刻まれている

生きるための行為「解剖志願」

2019-01-10 08:01:27 | 歴史から学ぶ

@江戸時代の処罰・処刑は色々あるが、「鋸引き」など非常に残酷な処刑もあった。(首だけを地上に出し、庶民に不満なものはノコギリで首を引いても罰を与えないという、受刑者に恨みを持ったものが引いたとある・別冊記述)など庶民の恨みつらみを発散、あるいは罪の再発防止のための晒し首などは重罪人には当たり前の世界だった。その他この本では様々な処罰・処刑の説明が多く、残酷すぎてここでは割愛する。興味を持った箇所は、「解剖」に対する江戸時代の人々は「死体を切り刻む行為」はより重罰と意識が高かったこと、に対して幕府は医学用に志願者を募った。これは残される家族への償い(幕府が手当を出す)と寺で丁重に葬られることに賛同した人(余命短いと悟った病人・老人等)がいたと言う事。時代背景では病気・刑罰等の人間は武家・豪商でない限り、所謂「投げ捨て」(ゴミと同じ扱い)となる事だった。死んでもあの世の生きる自分(墓を持ち、皆から弔ってもらえる)を選んでいたことだ。死人に対する敬意を持っていた時代なのだ。(4代将軍徳川家綱の時代には火葬は不幸とされ土葬が主で、江戸末期・明治になって火葬となる・8代将軍吉宗の時代に御定書百ケ条に置いて処罰を文書化制定・別冊記述)

『大江戸残酷物語』 氏家幹人

  • 太平の世の裏にある暗くて深い江戸の闇・当時の人々の心性(そして情念や情欲)は照らし出せないという確信は揺らいでいない。歴史は基本的に楽しいものではなく哀しいもの(悲哀と悔恨の連続である)
  • 江戸時代の処刑
  •             鋸引き・車裂き・釜茹で・火あぶり(火罪)・逆さ磔・引き回し磔・獄門
  • 江戸は巾着切りの華だっというくらい盗人・スリが横行、江戸人口の1万人ほどいたという。盗まれた金は諦めるしかなく、他の物(文等)は町の髪結床に行けば交渉できた。
  • 江戸の悪党で奇妙なのは「倒れ物」という人の家・店の前で倒れて金をもらうまで動かないという盗人商売もあった
  • 江戸の処刑場は行楽地の様に子供も見学できた。が切腹においては武家で行い主の切腹から家臣の追腹切腹、家族の切腹、子供の切腹まで様々な武家の儀式として行われた。子供の切腹は扇子で腹を着る真似をさせる間に梟首する作法だった。
  • 江戸には異状死も溢れていた。首吊り、水溺死、病死など、特に寄生虫、熱病、麻疹、痘瘡、胎毒、血痢、老病など。嫉妬、恨みなどで男の首と共に女性の死体を板に晒した川流しも有った。
  • 「血達磨」伝説とは、浪人の兄弟が仕官を求めて細川幽斎を尋ねる。二人を雇うことになりある日幽斎の家が火事となる。重要な掛け軸を取りに火の中を兄弟が入り、掛け軸を持ったが帰りそうになく、腹を切り羽織に巻いて自分の腹割裂き腹ワタに仕舞い込んで亡くなった。鎮火後、その兄弟の腹から掛け軸が見つかり家(火)宝となる。その後明治・昭和に同性愛の終焉・逢引による諸説等「細川血達磨」として映画等になった。
  • 江戸時代には藩主等は「生きた屍」として幕府の検視が認められるまで習慣的に生かされた。だが跡目相続は生きていたかのように相続させ家の断絶等を無くした。(法的なものは無視され習慣的が重視された)
  • 江戸の刑場は小塚原(現在の南千住5丁目・広さ2千坪)と鈴がの森で数十万の死体が埋められ、死臭もひどく、犬の餌と成り果てたこともあった。その中で平賀源内は死体を掘り起こし妙薬として人体の部位を利用している。とくに安政の大地震では遊女が多く亡くなり、投げ込みだけで埋めることなく野鳥犬の餌になった。中には遺体の衣服を剥ぎ取り商売していたものもいた。武家・町人では火葬するが「階級」あり、「駕籠焼」15両、「釣焼」7両2部、「甕焼」3両等があった。
  • 江戸時代死体を保存するために(裁断があるまで)塩付けにしていた。元大坂町奉行与力の大塩平八郎は、重罪として塩付け、その後引き回しの上、磔された。その他桜田門外の変の首謀者、天文学者高橋作左衛門(日本地図をシーボルトに渡した罪)も塩付けにされている。屍1体に塩7俵を使ったとある。内臓を摘出した後、塩は口、肛門、目から注がれ大瓶に入れられ執行まで保管された。
  • 江戸時代には人の肝臓・腎臓等、さらには生肉も薬として噂も広がり、死体置き場からの捥ぎ取り、小遣い稼ぎをした者もあった。さらに医者が死体を掘り出し部位を摘出薬にした例も多い。
  • 「刀の試し切り」に死体を重ねて利用した例も多く明治まで続いた。
  • 晒し首は明治12年(1879年)で廃止。
  • 人体解剖は1754年に山脇東洋が最初に行ったが杉田玄白は女性を解剖した。それは江戸時代試し切りで男性の多くが利用された為。その後解剖の志願者、梅毒で亡くなった34歳の女性が現れた。それは解剖での手当(十両)が家族に渡され丁重にお寺に葬られることを政府が約束した。
  • 臓器の提供は昔からあり諸外国からも遺体を回収、医学提供で利用された。
  • 会津と薩摩「箱館戦争」
  •             会津藩士小姓が茶屋で薩摩藩士の槍を間違えて持ってきたことで、会津藩士がお詫びと交換しに薩摩藩邸に行くが、「間違えた小姓の首を出せ」と迫った。それを聞いた小姓は自殺し、その首を差し出したが、「過ちは主の所為であるから後日当人同士で引き渡しを」と迫った。会津藩は影武者を出し、薩摩無礼を正すべく決死の覚悟で参加、その槍の引渡しが「槍の鉾先を自分に向けて渡す」としたことに会津藩士はそのまま薩摩藩士本人の喉元を突き、刺殺した。それを見た他の薩摩藩士は恐ろしくなり逃げた。という説がある。

夢は引き継がれる「坂本龍馬」の存在

2019-01-07 08:47:26 | 歴史から学ぶ

@「坂本龍馬」が一般の人々に知れ渡ったのは坂崎紫瀾著「汗血千里駒」だと言う。(明治16年)その後明治皇后の夢の中に龍馬が現れたと言うニュースだとある。龍馬と言う人物は「剣豪」「志士」「商人」、今風で言うならば「起業家・アントレプレナー」的存在だったのだろうか、または政界とのブロカー的存在を生かした「政党政務家」だったのか。 惜しくも新しい政治体制・明治新政府を見る前に暗殺され夢にある「世界商社(人)」には成れなかったが、品川弥太郎(三菱創始者)がそれを成し遂げた。共に苦労した品川が夢を実現させたかのようだが、「もし」の歴史があるとしたら、坂本龍馬はどうしていただろうか。政治家となって四民平等・戦争の無い世を作り出し、明治の時代に日本を世界に羽ばたかせたに違いない。 19才にして龍馬の好奇心は人生を変えた。それは今の若者にも勇気を与える。この龍馬のような夢実現の為「身を呈して飛び込んでいく勇気と決断力」は学ぶところが多い。

『商人龍馬』津本陽

  • 「経済立国」を目指した龍馬。その「起業家精神」が日本を変えた。 大転換の時代を見抜き、開国日本の前途を構想。海外交易で雄飛することを志した悲壮の風雲児。今再び脚光を浴びる謎多き英傑の、真の正体に迫った傑作小説。
  • 坂本龍馬は外国勢力の渡来により開国を迫られ封建制度を捨て、近代国家位に急速に変化しなければならなくなった激動する幕末期に生きて、力のかぎり活動した男。土佐藩の郷士、高知城下の裕福な家に生まれた剣士であったが、19歳での江戸での武芸修行で出会ったことが龍馬を変えることになる。その出来事とは
  •             大都市の江戸・千葉道場での修行
  •             黒船来航・ペリー来航で開国を迫った江戸幕府の動き
  •             恩師勝海舟との出会い・世界の広さと文化の違い(武器・戦艦)
  •             米国を見た万次郎との出会い・米国の政治と商船貿易
  •             武市半平太の土佐勤王党への加盟と脱藩
  •             下関・グラバー邸での五島との出会い・武器商人
  •             土佐藩後藤象二郎との出会い・朝廷との接点
  •             海援隊創設・陸奥源次郎「船中八策」・長岡謙吉「大政奉還建白書草案」
  • 坂本龍馬「剣豪龍馬」「志士龍馬」から「商人龍馬」と出した小説になっている。それは近代国家を夢見た幕末期の動きに瞬時に行動し、仲間を巻き込み解決へと導いてきた。
  • 龍馬の父の後妻伊与が龍馬に言った3か条の信条
  •             相手にやられたらやり返せ
  •             自分から進んで手を出すな
  •             男は強く優しくあれ
  • 江戸旗本8万騎とは実際弓1張り、鉄砲1丁、槍2本の武装だけ、軍備は5万石で騎馬70騎、従者人足入れて1千人。(戦闘部隊は総数の半数)鉄砲も時代遅れの火縄銃、大筒の2km飛ぶだけで江戸には40門しかなかった
  • 龍馬の言葉「俺は才谷屋や下田屋のように回漕をやりたい。時勢が金で動くことは江戸でわかった。アメリカでは四民平等というが銭がものをいう世の中だ。そんな時勢に働き者は下等人民の秀才だ。上士に西洋の学問をする根気はない。難しい勉強をして我が才を頼りにして下から這い上がっていくのは下士、百姓、町人だ。乱世にはそうなると「史記」にもあり、我は這い上がっていきたいのだ」(標準語に訳)
  • 龍馬の姉乙女の言葉「男が大事をやるつもりなら大きな場所へ出にあいかん。」で龍馬は「俺はやっぱり我が力のかぎりを試したいがじゃ。高知でちんまりと暮らしていとうはない。一人で動くじゃ。志を達するために危ない橋は渡らにゃいかんこともある」
  • 龍馬の初仕事は2万両で買い入れた生糸を上海に運び銃器を購入して薩摩に戻り、大阪で米を仕入れ上海で売却することだった。諸経費等を除いでも仕入れの2倍に余る純利益が出た。グラバーは日本の大判小判の金(上海との金の価値)で大儲けした。「イギリスを見てみいや。日本と似てちんまい島国じゃけんど世界一金持ちになっていようが。社中の力を伸ばすためにはだれとでも手を組んだらえい」として長州の鉄砲調達を、薩摩力を借りて実現させた。
  • 土佐藩のいろは丸と紀州藩の明光丸との沈没事件でも、実際はいろは丸の過失だったが賠償請求で龍馬は莫大な費用請求を果たした。当初1万両だったものが合計八万三千五百二十六両とした。
  • 大政奉還に先立ち、岩倉具視等は大久保と品川で錦旗を密かに制作して職制を勝手に設け熾仁親王、知太政官事・入道純仁親王などを征夷大将軍とした。
  • 徳川慶喜は後藤象二郎等からの大政奉還の草案に関して受け入れた。それは小松帯刀の「政権をご返上あそばされたとて、昨今の朝廷には大政を行う人物がおりません。すべてこれまでの通り委任をお受けください。」
  • 大政奉還後の大久保等からの偽勅書には「逆賊徳川慶喜を殄戮せよ」が出された
  • 武力倒幕派の中岡慎太郎は岩倉具視の身辺警護役をしていた。また龍馬とは激論になったこともあった。その後龍馬は刺殺されるが当初の諸説では京都見廻組の今井信郎であったが検察・弁護・証拠の記録が一切ない。
  • 龍馬の妻お龍はヒステリー病だった