ちょっと気になるいい事、言葉、最新技術

書籍、映画、旅、最新技術から選んだ心に残るもの。速読者向けは、青文字表示。内容は小学生でも理解できる表現使用

「役に立つ仕事」を模索する『喧嘩大名・木枯しの旅』

2020-03-31 07:53:15 | 歴史から学ぶ
明治初期の文明開化は士農工商解体、武士でも身を建てる方法を生み出さなければ生きていけなかった時代である。ましてや弱い女性の立場は路頭に迷う時代だったのではないだろうか。その時代の「自立」するということはどのようなことだったのだろう。武士を捨て、娼婦は解散・解放され「世間に役に立つ仕事」をすることだったに違いない。その時代生まれた仕事は「修理屋」「穴掘り屋」、変わったところでは今で言う「職業紹介業」なるものが既にあったという。 ここにその紹介する「日本職業紹介」サイトがある。 http://shokugyo-kyokai.or.jp/shiryou/gyouseishi/02-1.html

『喧嘩大名・木枯しの旅』山手樹一郎
「おいらん俥」は明治9年文明開花の時代に6万5千台という車両「人力車」がブームになった時代。明治2年、和泉要助が高山幸助と鈴木徳次郎が交通機関の車両として始めた「人力車」であった。 話は、その人力車に若い病み上がりの客・娘が一文無しで乗り付ける、ところがどうも事情があることを悟ると新助は人肌脱ぐことにした。それは明治5年に政府の人身売買を禁じ、娼婦を開放したことでその娘が見受けされた。身請け人となった男がその後娘の一切を掛け売りし、その先で病いとなり、つい先ほど退院したばかりで行き先知れずの客・娘だった。新助は当ての無い元花魁娘をまずはその男から籍を取り戻し新たな身請け人を見つける事にし、一先ず一軒の爺婆の営む古い小料理屋に留め置いた。 新助は元同僚で警察部長となった友人と相談、籍を移すことは可能だとしてすぐさま実行する。元花魁の娘は気用にもその古ぼけた侘しい小料理屋を満杯にするほどの人気を得て繁盛し始めていた。 それを知った元身元引き受け人の男が店の周りを殺気を漂わせ偵察に来いた。その時出会い頭に新助はその男から殺傷されることになる・・・。
明治の文明開化は不平不安を持った士族も多かったが、実はこういった娼婦の立場の女たちも自立出来ない苦境に追い込まれていた。実際士農工商を重んじた志士たちも急変の政府に不満を持った、その例として前司法卿前原一誠など、また薩摩征韓論で避けられた西郷隆盛などが、諸国の志士達と起こした西南の役につながった

「出た杭は打たれる」を「出過ぎるまでやってみる」に『はぐれ刺客』

2020-03-29 08:06:02 | 世界の動きから見えるもの
「出た杭は打たれる」まさにこの小説で「厄介者」武士への扱いは剣術が優れていても、家系の次男等は出過ぎたことはするな、と言う時代。「厄介者」は盗賊一味を斬殺したにも拘らず蟄居させた藩の理由は、まさにここにあった。現代でも「出る杭は打たれる」はある、だが、現実「出過ぎた杭は打たれない」がまかり通る世の中に変わりつつある。それは「出過ぎると今までの慣例等から処置できない」となるからだ。世の中を良くすることの一つは既成概念(常識・既得権)から外れることだ。 既得権益を超えるにはとにかく粘り強くやってみる事。

『はぐれ刺客』澤田ふじ子
「内容」大垣藩で代々祐筆を勤める甘利家の二男・甘利新蔵は、将来の展望もない部屋住みの身。武道に長け、道場でも破格の強さを誇りながら、尋常でない太刀筋を師範にうとまれ、剣術での出世もままならない。ある日、藩内の富商宅に賊が押し入った・・・・

その時代武家の家で次男、三男はただ飯食いの厄介者扱いを受けていた。だが、甘利新蔵は剣術に優れたことで、盗賊の一味を異常に惨殺したことが蟄居となる。出世どころか藩からの罪を担ってしまう。蟄居もあと数時間を残すところで脱藩し、逃亡した。それは武士の意地をかけた藩の重臣たちへの無言の反抗だった。蟄居する前、友人の家にいた娘と恋仲になっていたが、家系の理由で家督を譲った親友の武家に嫁ぐこととなる。がその舅から夫が江戸詰めになった日から嫌がらせを受け、夫にも言えず一子を授かっていたが舅の執拗な辱めで自殺する。
厄介者武士甘利新蔵は脱藩後5年ぶりに里帰りした。それは逃亡して2年後には罷免されており墓参りと昔馴染みの友人とその恋仲にあった娘に再会する目的だった。だが、その恋仲にあった娘が理由なく亡くなったことを知り、疑問に思い探索する。するとその家の舅の所為であったことが判明、新蔵は娘の無念さを思いその舅に抜刀し命をとった。
再び郷を離れ京へ落ち延びていたが、舅の敵討ちだとし藩から数十人が追う。ついに一人の槍にて無抵抗な甘利新蔵は刺殺されてしまう。舅の敵討ちだと言っていた親友の侍(恋仲の娘の夫)はその直後その理由を知ることになった。
書にある盗賊一味を斬殺してことで蟄居させた藩の理由は、
①剣術者であれば峰打ちで捕縛できたはずだ(武士の情け不足)
②武家の次男で、剣術だけが勝る世間での厄介者だった(剣術者への妬み)
③武家の家系を守らんとする古い習慣と拘り(厄介者は出世も分を超えた縁もない)
三戒:欲界・色界・無色界(過去、現在、未来)

「先見の明」を起こす環境『明治の兄妹』

2020-03-26 07:51:59 | 歴史から学ぶ
「先見の明」とは如何なる経験から生まれるのか。山本覚馬は生まれつき「好奇心旺盛」で蘭学、砲術、世界の文明、進化する経済などあらゆる分野からの教養を得たことから生まれている。特に覚馬は人生の試練「盲目」にも拘らず勉学に励み「管見」(現代で言うならば未来の手引書)なるものを書き残し明治の基盤を作り上げたことだろう。実際机上の勉学のみならず多くの著名人と交流を持ち、さらなる実践の知識も豊富だった事だ。

『明治の兄妹』早乙女貢
「内容」西軍の侵攻によって炎につつまれた会津・鶴ヶ城にあって、男装して自ら銃を取り戦った妹・八重。そのころ、17歳離れた兄・覚馬は京都で薩摩藩に捕らえられながら、新しい時代を見据えて獄中から政治改革を訴えていた……。
「山本覚馬」山本覚馬は会津藩砲術師山本権八(父)に生まれる。山本家は困窮欠乏生活の中、覚馬は剣槍においても卓抜な腕を持っており喧嘩早く剛毅さで近所の子供からも恐れられていた。母の教訓「貧しても貪せず、即ち足るを知る」、「いくら空腹の時でも食べる量は知れている。ある程度食べれば、空腹は満足するものだ。満足とは、満ちれば足ると書くではないか。それ以上を欲しがるでない」と、嘘をつかず、武士としての忠実を守った。だが、覚馬は「機械」に興味を持ち蘭学を学び先進文明の知と力に好奇心を持ち進んだ。覚馬24歳から29様で江戸に出て佐久間象山の塾に入り、勝海舟、江川太郎左衛門(韮山の大砲)などと知り合いになり兵器への知識を高めた。その後会津に蘭学所「日新館」を作り師弟に文明への道を教えた。だが、長い伝統の中で晏如たる老人たちには「小賢しい抗弁、小癪な輩」と睨まれ、閉居謹慎となる。覚馬曰く「人間、たまには雌伏の時も必要だ。尺とり虫の飛ぶには身を屈するによる、との喩えもある」と言いつつ「今の時代、1日1日が大切で1日遅れると他国に3日遅れる。1日早ければ他国に10日先駆けることができる。天下の流れは今や急流の如くです」。世は攘夷を唱える薩長土が偽の錦の旗を掲げ東征するときに覚馬は薩摩に捕まり牢獄へと繋がれた。そのときには既に盲目になっていた。 覚馬の「管見」とは獄中に記した建白書(改革を提言)であり、それは「世界の中の日本」を読み、政治情勢への明晰な分析力、経済の透徹した先見性、教育、衛生、衣食住など、あらゆる方面への知識を持っていた。これはその後西郷隆盛、小松帯刀なども目に触れている。倒幕が終焉したのち京都府が覚馬を顧問として重用する。「これで世の中の役に立てる」と悟った。中でも教育行政や殖産興業に指導制を発揮、貴重な人材となる。だが、京都の府知事は長谷信篤で参事が槇村半九郎と言う傲岸不遜の輩で知恵もなく挙句に宇治平等院やら白河神社などと売却させるなどの行為をする。覚馬の妹と再会後は、明治8年11月19日新島襄と同志社を創設、命名は覚馬だった。明治25年12月28日覚馬は65歳で生涯を閉じた。 「目が不自由だと言うことも、ときには帰って好都合だ」と妹(介添え)の存在を感謝と意味ありげな言葉を残している。 (多分見えないことで創造力・創作力がついたことかもしれない)

新島八重=山本八重子」山本覚馬の妹で会津藩砲術師山本権八の3女。戊辰戦争時24歳で、後に新島襄と結婚、夫と覚馬の創設した同志社大学を手伝う。夫は47歳で亡くなり、日清日露戦争に従軍し88歳にて生涯を終えた。 
    戊辰戦争では男装し、最新の銃7連発のスプリングフィールドを肩にかついで会津城にて戦う。それは鳥羽伏見の戦いで弟を亡くした敵討ち、主君の為であった。城での女の役割は兵糧を炊き、弾丸を作ること、さらに負傷者の看護で、炊いたばかりのご飯を握り飯にすると手の皮が剥けるほどだった。              
    一番辛かったことは最期に大砲が破裂、厠に入っての醜態を避けることだった。城の廊下には多くの戦死者が寝たように並べられていたこと、7歳の少年も母と共に切腹した姿を見届けたことだった。その女性は曰く「いざと言う場合には、母と娘の介錯は自分がするが、もしや、そのために死に損ねたら、私の介錯をしてもらいたい」と頼まれたことだった。
    戊辰戦争は約1ヶ月を要した長期の籠城戦だったが、1日に砲弾が1208発を数えた日もあった。弾薬は10歳前後の子供たちが兵士の所に運んだが砲弾が飛び交う中平気で運んでいた。
    東軍の武器は槍または火縄銃で、その威力は西軍の銃の比にあらずであった。実はスナイドル銃を1万5千挺をドイツ人に発注していたが在庫がなく幕末には間に合わなかった。その銃はそのまま紀州藩が引き取ることになった。

財政危機の責任は誰『再びの海』

2020-03-25 07:53:34 | 経営・リーダーシップに必要な事
財政危機の藩はまず末端武士らをお払い箱にし(人減らし)、更なる税を上げ民に仕掛ける。ただ藩の上層部の生活は今までと変わらず贅沢三昧であったことだ。何か現在の国家財政・政府も同じ様な事を繰り返しているかのように見える。それは足らない部分は増税、もしくは新税で賄い、更に足らなければ国債を増やすだけと言う小学生でも出来る事しかやれない。政治家には家計も知らない無知な人ばかりなのか。家計の苦しみを知ったものが真っ先にすることは「支出を減らす」こと、当たり前だが、政治家はこの責任感覚が全く感じられないことだ。
政治家・内閣の使命は財政の立て直し、国債額を減らし、増税ではなく、予算カットから減税につなげることではないだろうか。 それには国民の直接の目(監視体制)で、それらを実践できた内閣だけを継続させ、できなければ国民監視体制が総辞職させる案はどうだろうか。政治家が政治家を裁くこができないのであれば国民が裁きを直接下せる決議規則を作るべきだと思う。 さもなければ腐りかけた政治家に冤罪は続くだろう。

『再びの海』澤田ふじ子
「足引の仕掛け人」ー世の中の矛盾を正す
「破れ傘」丹波篠山藩で財政難で賄い頭(父親)が永御暇を受け家族(母・姉・弟)に貧困生活となる。生活苦から姉が家族を助けるために水茶屋に5年の年季奉公に出ることを決め、金子をもらい受け家を出た。ところがその後母が腫瘍で亡くなりその後父も亡くなる。弟は一人内職をしながら生活し、その5年を待ち続けた。だが姉はその2年後に水茶屋の仕業で自殺しており、弟を消せば奉行所も問わなくなると殺しを仕掛ける。
「寒寺の砦」呉服問屋の一人息子が小さい時から甘やかされ道楽息子になる。飲む打つ買うは日常茶飯事となり挙句に女に子供ができたと親をゆする芝居をさせ金を出させた。何とか長男を一人前の商売人にしたいとある京都の山奥の寺に修行をさせるべく旅たたせたが、沙婆の極道仲間が金ずるの道楽息子を逃すため寺を攻撃する。
「憚りの夜」盗賊の仲間で18歳の新入りの男が御用の難を逃れて逃げ切る。この強盗で盗賊の一味は、お店の一家と多くの奉公人を殺害したことで、その後晒し獄門となった。唯一逃げ切った男は偶然にもその14年後にそのお店の主人となり、その間殺された家族等への供養、多くの善根を積み重ね、寺へのお布施も多く周りからも仏の生まれではと言われるくらい過去の罪に対し精進していた。その現状を知り足引きは主人を逃すことにした。
「いやな奴」店の娘の婿になる話と武士を続けるか迷った男がいた。当初二十俵2人扶持で将来も出世できないと思うその男が目付役となる大抜擢を受ける。だが店から婿になるからと大金をもらい受けていたことから断りきれず流れ者を雇い娘を殺害し、婿話を終わらせようとした。
「再びの海」流人を隠岐島に護衛する役割となった仕掛け人奉行所同心蓮根左仲に僧侶の宗徳、同心の手下与惣次と犬の豪が同行する舟旅が始まった。そこは宗徳と与惣次に取ってはしばらく流人として暮らした島であり、途中流人の一人の女が海に身投げした。 隠岐島では途中身投げした女の供養の為墓石を作り葬った。その墓石の元石工は、罪を着せられ娘を手籠にされた恨みを晴らすことができず死んでしまう。が足引の仕掛け人たちが京都に戻りその恨みを果たす。 それと身投げした女に罪を着せた貪欲な夫と姑にも仕打ちを仕掛ける。
ー仕置き人「わしら足引寺の一同が、何故故奴らにかような仕打ちをいたしたいのか、それを記した閻魔王牒状を置いておくのを忘れるでないぞ」(世の中の不平等から派生する矛盾を正す為の理由)
ー宗徳曰く「どこを見ても、我が身のことばかりを考える奴らが増えておる。奉行所とて出世に目を眩ませた奴ばかりじゃ。」

「自らの実践」が伴わない政治家の巧みな言葉『近衛文麿と日米開戦』

2020-03-23 08:09:24 | 経営・リーダーシップに必要な事
@「戦争の原因」、それは日本を含めた独伊の「持っていない国」と米英仏ソなどの「持っている国」で起こっている。それは主に天然資源と植民地を保有している「国」か、であり、更に強力な軍事力を誇示した国である。 太平洋戦争において日本は、当時の近衛首相、陸海相、統師部等誰もが責任の擦り合いで難を避けようとする態度が見え見えで、最終的に軍を統制できる人材が誰一人いなかった事が全てに起因している。いわゆる政治家のリーダーシップ(提言ではなく実践)が貧弱で、国政が軍部主導型となってしまった事である。近衛首相が所信で記者に言った「政策政網はできもしないことをたくさん並べることは止めにしたい」は現代でもそのままだ。 安倍総理などがよく使う「完全に、素早く、積極的に、先頭に立って〜」など言葉だけで「自らの実践証明」(実行力)が全く伴っていない声明は国民の心にはもう届かないと思う。

『近衛文麿と日米開戦』川田稔
「内容」日本が太平洋戦争に突入していく重要な時期に国政を担った、第二次・第三次近衛文麿内閣。その内閣書記官長を務めた富田健治によって、戦後に書かれたのが『敗戦日本の内側――近衛公の思い出』である。そこには、近衛らが緊迫する国内外の情勢にいかに対応したかが、当事者しか知りえない舞台裏と共に、息づかいまで感じられる筆致で綴られている。解説は、昭和史研究の第一人者である川田稔名古屋大学名誉教授。会話などからも歴史的価値を見出し、読み解いていく。はたして、日米開戦は不可避だったのか、それとも――
この書は第一次近衛内閣(日中戦争)から第二次・第三次近衛内閣(第二次世界大戦開始=1940年7月)~太平洋戦争開戦直前1941年10月)の内情について記述したものである。富田健治は長野県知事を歴任し、1934年近衛が貴族院議長の時意見を聞いたのがきっかけで内閣書記官長を務める。
時期は米山内閣が総辞職した1940年7月、荻窪会談(東条英機=陸相候補・吉田善吾=海相候補・松岡洋右=外相候補・近衛文麿=次期首相)から陸軍案「時局処理要網」の申し合わせから始まる。
    日中戦争解決(蒋介石政権の屈服)から対南方問題(対英国植民地)による戦争準備
    独伊の結束と対ソ連国外交調整
    国防国家の完成を推進、強力政治機構の確立(軍部と一体化)
更に軍部が作成した「総合国策基本要網」(10年計画)
    日本・満州・中国の結合「大東亜を包容する共同経済圏」への軍備増強
    (東南アジアからの資源獲得目的:石油・生ゴム・鉄・錫・ニッケル・リン・アルミ原料等)
    欧州戦争への不介入
    「日本・満州・支那」経済総合産業開発計画
    強固なる政治指導力を確立、「全国国民総動員組織」の創設
日米の国力の差は約12倍と分析していた日本政府、よって対米国戦争は陸軍等も否定していた
近衛文麿の思惑「新しい政治体制によって強力な新党を結成し、重大なる磁極に対処する。軍に反抗したりすることではなく、軍とピッタリ一緒になっていくようにしなければならない。これが私の理想だ」と新党結成と新内閣を望んだ。だが、首相就任後には「軍人にリードされることは甚だ危険である。1日も早く政治を軍人の手から取り戻す為には、まず政治家がこの運命の道を認識し、軍人に先手を打って、打開するに必要なる諸種の革新を実行する他にない。」
対米戦争を回避する為にと松岡外相は強く主張し、日独伊三国同盟を締結する。またソ連を加えることで米国に対抗する交渉をする。独伊ソを訪問した松岡はスターリンに「君たちはアメリカの常套手段に乗せられて、すぐ喜ぶなんて、なんという甘いことだ。もっと相手を引き摺り回して、我に有利な条件を取り付けなければならぬ。勝手にアメリカと妥協するなどということは、盟邦独伊に対しても、不信極まることにある」と言われ、野村米国大使に対して松岡は「アメリカにあまり腰を使うな、野村に急ぐなと伝えておけ」と言った。その後松岡の「我の毅然たる態度」を持ってした日米諒解修正案に対して、米国の対日感情は悪化、日米開戦の引き金になった。やがて対米交渉は松岡の大幅な修正案(譲歩を許さない)に即座に反応し石油全面輸出禁止となった。
西園寺公望は「今の日本を救うには、この議会主義を叩きつけなければならない」と言って亡くなる。ドイツがソ連に侵攻する時期に米国は日本がソ連への攻撃をすることを恐れ、急遽石油の制裁を発令し、日本が資源を求めて南方へ進出する作戦に出た。それは日米開戦への導線となる。その時期日本はソ連への備えで85万人の兵力を用意していた。日本とドイツは国際社会でも「持たざる国」であり「持てる国」からの「力」によって抑えられてきた。
御前会議において昭和天皇は「・・大帝の平和愛好の御精神を紹述しようと努めているものであるぞ」と言われたが陸軍・海軍を統括する統師部は意見が分かれており海軍は首相の裁断に一任という形となり内閣が総辞職、その後東条内閣となり一党独裁(軍中心)で日米開戦となる。
終戦後、即座に近衛は特使としてソ連に遣わされたが、ソ連から会談を拒否される。その後近衛は戦犯指名受けたが、マッカーサーからの収監命令を拒否し服毒自殺をする、54歳だった。近衛は自身を支える強力な権力基盤を欠いた根本的な弱点があった。特に松岡外相を最後まで説得できず外交・政治を放棄した形となる。

近衛首相は、ドイツがソ連に侵略した時点で、条約を御破算にし英米に接近、当時米国が言う「三国同盟違反で無視」することは可能だった。それに当初東条陸相、及川海相、それに武藤陸海軍自局長も当初の諒解案(日米開戦を避ける)を賛同していたにもかかわらず松岡外相一人の反対で太平洋戦争に導かれたのはやはり政治のリーダー的存在近衛首相・内閣の性格は「はっきりしない、割り切れないもの」で実践に努めようとしない役職の怠慢でありで接戦して米国交渉を再開すれば太平洋戦争は回避できたといえる。近衛は第二次近衛内閣成立直後記者に「政策政網はできもしないことをたくさん並べることは止めにしたい」と言っていた本人が実践していなかった。東久邇宮殿下は近衛の内閣総辞職に対して「あなたは気が弱くでいけない。どうか勇気を出してもう一度考え直して欲しい」と言われ、近衛の第三次内閣の前に近衛はいつもの昼寝を夕刻まで取っていたと言う。
 この書で読める太平洋戦争への要因は
①松山外相の独伊・ソ連寄りの姿勢から米国に対する歪んだ感情を持ったこと。
②三国同盟と新たな対ソ関係保持は米の日本に対する輸出全面禁止規制と欧州への戦争参戦を早めた
③ルーズベルト大統領と近衛首相との直接会談が日本の内政・軍部圧力で内閣リーダーシップ不足から内閣総辞職、実現不可能となった
④東条内閣は軍部による包囲網拡大策で戦争準備、南方方面への武力行使の意図が鮮明になった事
結果、米国は「ハル覚書」を持って最期通牒を日本に叩きつけた。 この「ハル覚書」について東京裁判ではインド、モナコ、ルクセンブルク、英国の代表ですら「米国に対し鉾を取って立ち上がったであろう」と言う日本に対し交渉余地は全くなく米国の宣戦布告的な内容であった、と言う。

静止できない政治権力の暴走『指揮官たちの特攻』

2020-03-21 08:04:14 | 歴史から学ぶ
@「多勢に無勢」、山本五十六司令長官始め多くの「特攻隊員」でも敗戦色が見えていたにもかかわらず決死の戦闘せざるを得なかった理由はどこにあったのか。 組織の「多勢に無勢」(政治の暴走)の押され切られるのは現在の政治でも同じだ。 この書で愕然としたことは、終戦間近にその暴走から多くの「人間爆弾・魚雷」なるものが製造され二十歳前後の多くの若者が戦死したことである。 政治家(軍隊)の権力とは意地を通す為人をも「モノ」扱いしてしまうことである。現場を知らない無責任政治家だけで判断する時代は終焉しかない(最近国内で数億枚のマスクを製造したとある発言、今マスクはどこに。机上あるいは噂の話で世間を喜ばせる発言に疑問を持つ)。
最近の安倍首相・政治家の無責任・他人事(実践から乖離)の単語を集めてみた:
完全に、素早く、率直に、万全な、積極的に、敏速に、完全な体制で
あらゆる手を使い、即座に、徹底的に、確実に、速かに、緊急に、万全を尽くし 
確信している、力を尽くす、先頭に立って〜を検討をする、しっかり調査する、  
~の場合に対して、 ~の場合には、 ~に対しては積極的に取り組み

『指揮官たちの特攻』城山三郎
神風特別攻撃隊第一号に選ばれ、レイテ沖に散った関行男大尉。敗戦を知らされないまま、玉音放送後に「最後」の特攻隊員として沖縄へ飛び立った中津留達雄大尉。すでに結婚をして家庭の幸せもつかんでいた青年指揮官たちは、その時をいかにして迎えたのか。海軍兵学校の同期生であった二人の人生を対比させながら、戦争と人間を描いた哀切のドキュメントノベル。
  • 太平洋戦闘において日本の大敗の原因は米国の暗号解読、さらに圧倒的な最新武器の開発とその製造力。 1927年に作られたハワイオワフ島にある東洋向け250kw海外放送タワー(戦争当時は軍事目的の通信設備)がその日本軍側の通信受信を傍受基地となった
  • 海戦3ヶ月前、首相近衛文麿から海戦の見通しを聞かれ、山本五十六曰く「やれと言われれば、1年や1年半は存分に暴れてご覧に入れます。しかし、その先のことは、全く保証できません」と「負ける」は禁句であったが敗戦の可能性が高いことを予測していた。
  • 真珠湾攻撃に第1弾を投下した高橋各赫一35才少佐「俺たちは、ただ黙って戦い、黙って死ねぼ良い。後のことは国家国民が知っている」
  • 日本陸海軍の上層部はたとえ負けるにしても「1億玉砕」を掲げていた
  • 「人間爆弾」の武器(人間爆弾・人間魚雷)
    • 「桜花」乗員1名 250k爆弾1発
    • 「銀河」乗員3名 500k爆弾2発
    • 「橘花」大型爆弾搭載ジェット攻撃機
    • 「梅花」木製で松根油利用
    • 「彗星」1400万馬力 時速580km
    • 「回天」1人乗り
    • 「海龍」600k爆弾 2人乗り
    • 「伏龍」
    • 「白菊」作業訓練機も利用
    • 水上観測機(時速250k)・水上偵察機(時速340k)など1400機も導入
  • 「人間爆弾」に選ばれない人材は親一人・子一人者・長男・妻子ある者であったが例外もあった。それは本文にある関と中津留も含まれていた。ではなぜ選ばれたのか。本文中ではその謎は解明できないが軍隊という場所がら先輩に睨まれたら「NO」とは言えない環境であったこと。二人ともともに優秀な士官であり教官、妻子ある夫でもあった。(運としか言えない)
  • 上官から特攻突撃隊に「行くのか、行かぬのか」と声を張り上げられれば辞退できず「行かせて下さい」となるのは軍隊だった。出撃前(昭和19年10月20日朝)の上官の訓示は「皆はすでに神である。自分の体当たりが無駄ではなかったかどうか、それを知りたいことであろう。自分はこれをを見届けて、必ず上聞に達するようにするから安心して行ってくれ」。それに対して戦闘員たちは「僕は天皇陛下とか、日本帝国の為とかで行くんじゃない。最愛の家内のために行くんだ。命令とあればやむを得ない。僕は彼女を守るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう!」
  • 特攻戦闘員「心に残っているものは、妻の顔、婚約者の顔、親兄弟の顔・・・俺は死ぬ、死ぬんだよ。お母さん、こんなに元気なのに。ごめんね、お母さん。俺の分まで達者でね、お母さん」「この世にこんな事があっていいのか、特攻を考えたやつは、修羅だ。特攻を命じたやつも修羅だ。よおし、それなら俺たちが本当の修羅になってやる。みてろよ、本当の修羅とは、どんなものか!」
  • 昭和20年2月11日、宇佐航空隊司令直井敏夫「いまや、戦争に勝つということは考えられなくなった。軍人として名誉ある対処を静かに考えるべき時期がきた」
  • 大西瀧治郎、宇垣纏の2名の航空艦隊司令官は玉音放送の15日以降、中津留等を同行させ脱米軍基地沖縄へ飛行、部下を巻き添い死滅させる
  • 海軍兵学校飛行科卒業
  • 関行男 昭和19年10月25日、神風特攻隊第一号の名誉を担い戦死、海軍大尉23歳
  • 中津留辰雄 昭和20年8月15日夜 宇垣長官とともに米軍基地を避け突入(自滅させた、特攻隊隊長・大尉)
  • 広田弘毅元首相が漏らす「長州が作った憲法が日本を滅ぼした」(陸海軍は天皇が親率する「統帥権の独立」を振りかざして、政治を踏みにじり暴走を重ねた)
  • 文の神様「天満宮」、武の神様「八幡宮」
  • 人間爆弾の武器一覧サイト https://origamijapan.net/origami/2018/07/09/suicide-weapon/
文中に出てきた「人間爆弾」武器(画像は全てネットからの転作)

「自分だけ」を振りかざす世の中『絆』

2020-03-20 08:03:23 | 人生を「生かす」には
@「狂気の沙汰」とは末恐ろしい行動をとることだ。この小説にある「誰でも殺して鬱憤を晴らしたかった」と狂気の辻斬りになった狂気男。狂気者に殺害された家族等の恨みは決して消えることがなく、この小説では家族は夫を亡くしたことから立ち直れず自害するという結末である。 無残な結果を招いたのは、たった一人の狂気者が闇雲に殺害する「相模原障害施設19人殺害事件」を思い出す。 長期的に「孤独」になることで世間で楽しんでいる人々が羨ましく見え、自分が貧弱に見え「自分だけ」がという葛藤を覚えるのかもしれない。 そんな環境をつくらいせない為にも上司・社員・同僚の対話・交流の場が絶対視されるべきだろう。
『絆』鳥羽亮
「内容」土壇場に引き出された罪人を一刀のもとに斬首する処刑人・山田浅右衛門。その剣術の奥義は、密かに今生への未練を聞き、それを叶えてやる慈愛にあった。はたして、罪人が浅右衛門に託した思いとは何だったのか。処刑人として生きる者の苦悩と、斬られる者の哀切極まりない半生を通して、「人生の意味」を描ききる、感動の連作時代小説。
  • 山田家は代々山田浅右衛門と名乗る「徳川家御試御用役」(刀槍の利鈍を試す術を持った剣術役で後に死罪人の首を撃つ斬首が本業となる)7世で時代は安政の大獄。安政6年10月27日、吉田松陰等が斬首されたのはこの小伝馬町の牢獄屋敷内である。松蔭の辞世の歌「身はたとひ 武蔵野のべに杇ちぬとも 留め置かまし大和魂」 その前10月7日には橋本左内、頼三樹三郎等も斬首されている。
  • 「志士」ある元長州藩の革新派的2名浪人が攘夷派の一味として捕らえられ斬首される。死罪が決まった時「我ら何も罪を犯してはおりませぬ。全て掃部頭様(井伊直弼)の配下の者の陰謀でございます」と言った。 斬首の時、罪人に対して浅右衛門は「されば、国のために清い死を。其方の死に様を、諸国の憂国の士が見つめおりましょう」に対して「武士らくし、気よく死んだとお伝えくだされ」と遺した。
  • 「狂気」道場主として親の代からの道場を引き継いだ怠慢な長子侍が道場を潰し世の不満から狂気じみた辻斬りを繰り返す行動に出るようになる。六人もの侍を容赦なく切り殺し、動かない死体にも惨殺な切りを入れる狂気者となった。ある時浅右衛門の門弟が辻斬りにあい無残な死に方をした。その家族は生まれたばかりの赤ちゃんに妻の貧しい暮らしの中にいた。その後妻と赤ちゃんは辻斬りされた夫の死から立ち直れずとうとう自害する。

危機的状況で下す経営者の質『修羅の器』

2020-03-19 08:20:05 | 経営・リーダーシップに必要な事
@「リーダーシップの判断ミス」この書では藩主水野が判断した明智光秀に加担したことにある。これは後に秀吉に対する謀反者扱いとなり藩は壊滅、隠居していた15年後に切腹の命が下ることになる。現代で言えば経営者・上司の判断ミス一つで、会社が、社員が、その家族までが巻き添えになる。日本は特に「仕事の効率」が世界と比べてもても悪いと言われる。その事実を認識・確認し、いつでも会社の非常時には対処、対応できる準備をしておくことも必要だという事だ。ここにある公家の「状況を知らない者の知恵」(平常心からものを見て判断)から言えるのは部外者からの聞き耳を持つことは時として役に立つことである。 コロナ対策で今後企業は社員・従業員に対し如何なる選択を取るのか、危機的状況から見える経営者の質・知恵が見える。

『修羅の器』澤田ふじ子
「内容」信長の麾下として各地を転戦する常滑城主・水野監物。彼は、常滑のやきものによって得た財力を背景に、茶匠武野紹鴎や連歌師里村紹巴と懇意になった。だが突然、信長は自領瀬戸のやきものを保護するために禁窯令を発令。監物を悲劇に導く。やがて本能寺の変が起こり、天下は騒乱。監物の下す決断とは。
  • 常滑の城主水野監物とその近習村田平蔵、常滑の地は日本6古窯で室町時代から最も古い歴史のある地域で庶民の多くが窯業に携わり藩の財政もこの常滑窯からであった。美濃の瀬戸物を優先させる信長の禁窯令により常滑は廃窯となる。
  • 甲斐攻めで武田家を殲滅した功績に堅物は全く恩賞が預かれず、失望、その他宗家水野信元が信長の命で誅殺れ、領地の恩賞も昔のままだった。
  • 本能寺の変で明智光秀側に加担した水野の判断ミスは、秀吉天下で追われる身となり嵯峨野に近習と隠居生活となる。堅物の側室の父は「いっそ、そのまま安土に向かい、城を守る明智勢を、攻めれば良かったのではないか。光秀殿への加担は知らぬ顔で押し通せば済む事じゃ。なまじ常滑に帰ったために、このようなことに相成った」
  • 村田平蔵は、常滑で許嫁がいたが戦国の世で婚姻できず、やがて許嫁が秀吉の家臣小笠原図書と結婚する。平蔵の幼なじみの加世が平蔵を頼り嵯峨野で一緒に生活をするが、やがて子供を2回授かる。が隠れ生活(忠義を尽くすことを優先)を理由にやもなく下ろすことを承諾する。
  • 水野監物は焼物の知識で鑑賞力を持っており、何とか常滑の焼物を継続させたいがため茶の雄に願いを込めていたが、その一人千利休も秀吉の命で切腹させられ生き抜く気力をなくす。秀吉はさらに家康に対する嫌がらせを縁深い水野監物に切腹命令を下す。近習の平蔵も最後に堅物を介錯し追腹をする。

小文章の書き方テクニック『頭がいい正体は読解力』

2020-03-17 08:13:36 | 人生を「生かす」には
短い文章を上手く書くのは案外難しい。それは書き手側の限られた文字数内から意味内容の単純明解化、読み手側の誰もが即座に理解してもらう内容にするこの「読解力」が必要だからである。 確かにこの「読解力」はまさに現代人に欠け始めているのかもしれない。 「読解力」をつけるには「読む」事と「書く」事、両方で「頭がいい正体」になると言う。 本文にある「3W1H」の実践はこの様なブログから始めるのが最適だ。

『頭がいいの正体は読解力』樋口裕一
ものごとを正確に読み取り、理解する力=読解力。読解力のない日本人が増えている。読書量の不足やネット記事・短文SNSの普及による「長文を読み解く耐性がない」「言葉の意味は知っていても使いこなせない」ことが主な原因だ。

正しく読み解き・書くテクニック
●基本文章・小文章の書き方(型) 
    第一部 問題提起
    第二部 意見提示「確かに・・・。しかし・・・」
    第三部 展開 意見の根拠を示す「理由は2つある・・・」
    第四部 結論 全体を整理し、Yes or No をはっきり述べる
●小文章をまとめる・アイデアのメモを取る(3W1H)
    「それは何か」(定義)
    「何が起こっているのか」(現象)
    「何がその結果起こるのか」(結果)
    Why  理由・根拠
    When(いつから・以前はどうだったのか=歴史的状況)
    Where(何処でそうなのか・他の場所では=地理的状況)
    How(どうやればいいのか=対策)
●書き方文調・ルール
    「である」「だ」(常体)を用いる。「です・ます」調はふやけた感になる
    一文を長くしない (約60字以内)
    書き言葉を用いる「!」「?」は利用しない
    リアリティー・具体的な描写・動き・色彩や音響・その詳細
    綺麗事は書かない、重ね言葉・形容句を用いる(とぼとぼ・ぼそぼそ・カリカリなど)
    言葉の定期を明確にする「ひどい」「悲しい」「嬉しい」は主観的で曖昧になる
    自分のことは「私」を利用する
    読点(、)には主語の後、接続詞の後、「~だが」「~なので」の後、誤解される言葉
    書き出し方は客観的事実から「最近~」「では、~だろうか。それについて考えてみたい」
    結果三段論法 「こんなことが起こると、必然的にこうなる。その結果、こんなことが起こる。だから、これは良いことだ」
●漢字参考言い回し語:「ことの良し悪し」「塾考する」「画一化する」「個性が欲しい」「~れる」 「~に他ならない」「~として」「~と言える」「~と言えるだろう」
    必要・不可欠・必須条件・絶対・前提・不透明・未知数・不明確・予測不能
    効率・合理性・簡略化・合理化・簡素化 などの「~性」「~化」

出会いのチャンスは日頃の構え『玄冶店の女』

2020-03-16 08:02:36 | 歴史から学ぶ
@「身分と女心」登場する五人の市井の女、その時代のそれぞれの生き様が鮮明に描写される。特に元花魁で小物店を営む「お玉」の自分の「分」を弁えた恋心は、最後の言葉「これで帳尻があった」と世間への風当たりを消し、漸く素直な女心で逢えると旅にでる。「日陰な女」という出生と身分において江戸の世間体「分」は「流れには逆らえない時代」、現代は、「様々な出会い」を如何に捉え引き寄せるかは自分次第、「チャンスの出逢い」は突然やってくる。 それには日頃から「構え」姿勢が大切なのだ。 話は変わるが日本は世界に比べ「ジェンダー・ギャップ (男女差)」が極端に多い事だ。153カ国中121位 https://www.joicfp.or.jp/jpn/2019/12/19/44893/ 女性の自由・平等度は日本にはまだ存在しない。

『玄冶店の女』宇江左真里
日本橋の玄冶店と呼ばれる路地で小間物屋を営むお玉は、元花魁。身請けされた旦那と縁が切れた矢先、芸妓屋の顔見知りの娘が通う手習い所の師範・青木陽蔵に出会う。その清廉な人柄に、お玉は強く惹かれるが、それは世間が許さぬ分を越えた恋だった…。運命に翻弄されながらも健気に生きる女たちの切なくて心温まる八つの物語。
  • 江戸・市井(人が集まる場所・町)玄冶店界隈物(現在の人形町3丁目交差点)。登場人物は女性五人
    • お玉:元花魁・小物問屋に藤次郎に身請けされ「糸よし」のお店の主となる 身請けされた元花魁が身分が違いたとえ何があっても武士の妻にはなれないと思い詰める
    • おまさ:お玉の家で女中・離婚され離れ離れになっていた息子と再会
    • お喜代:芸者・三味線の師匠 後妻となり商売を嫁いで行くことになる
    • 小梅:芸者家の跡取り娘、8歳、お玉を「小母ちゃん」と呼び、お玉の青木への思いを動かせる
    • お花:隠居の妾であり、役者の間夫に貢ぐが、最後は間夫と喧嘩で心中する
  • お玉は青木を諦める「日陰の女」心に「人には分というものがあるのさ。私はその分を守っただけさ」
  • 恋心を持った青木が労咳(肺結核)である事を知ると心を断ち切り寂しく別れた青木が近くなった。
  • 心がにつまらないお玉に対してお内儀は「後で悔やむより、エイっと踏み切った方がいいですよ」
  • お玉の言葉「ここで小梅に会い、お喜代に会い、お花に会い、そして青木に会った。川の流れにできる渦のようにみんなと出会い、また流れの勢いで渦は解け、てんでんバラバラにどこかへ流される。これが人の世であり、誰もその流れには逆らえないのだ」
  • 世間が許さない元武士に恋心を持ち、最後にお玉は「これで帳尻があったと思ってさ」と病を持った青木の伊勢・津まで旅に出ることを決意する。

「世渡り上手」は何処にでもいる『自分をもっと深く掘れ!』

2020-03-15 07:54:06 | 経営・リーダーシップに必要な事
「世渡り上手」は批評・評論化し、自分では直接手を下さない輩の事である。それを見極め、指導できる「優れた目利き」は現代社会には最も重要であると感じる。特に会社、国家組織で「目利き」リーダシップが重要な要となる。 ここにある「理論から実践」、自らの行動があって初めて周りが認めることを知るべきだ。それが末に信頼につながり「満足」する会社・社会につながるのではないだろうか。「目利き」になるための仕法がここにある。 現代の組織・リーダーにとってのニーズは少なくともレジリエンス(回復性)、サステイナビリティ―(持続性)、クリエイティブ(創造性)、イノベーション(変革性)だろう。

『自分をもっと深く掘れ!』新渡戸稲造
かつて日本には、「武士道」に象徴される「生き方のモデル」があった。ひと言でいえば、「品格のある生き方」である。そして今、再びそうした「生き方」が脚光を浴びている。自分を最高に生かし、人からも存分に生かされるためには、日々何を考え、どう行動したらいいのか。自分の「生き方」に絶対の自信がつき、生きることのかぎりない“喜び”が満ちてくる新渡戸流「人生論」の決定版。当時の第1級の国際人であっただけでなく、優れた常識人でもあった。人生哲学「毎日の生き方や生活上のいろいろな問題に対し、具体的な解決さが示されている
  • 「独りよがりの生き方」=他人との深い結びがあって初めて実現される自分の理想、それには足元にある手近な仕事から始めることと、安易に自分で自分を売り出すような事をしないこと。
  • チアフル」=愉快らしい顔色をすること・微笑にながら、相手を善意で見る、その為に怒気を抑える
  • 誠実さ」=真心を尽くす、それが自分の力となる(他人を尊敬・敬意・礼節する念を持つ)
    • 「人間関係に油を差す役割」=円満に世渡りができる工夫
    • 6つの長所に目を向けて、4つの短所に目をつむる
    • 自分自身を足りない者である」と謙遜 謙遜は使いすぎると「嫌み」になる
    • 専門バカより聞く耳を持つ素人になれ
  • 理論から実践」理論を理解するよりも実行する方が返って難しい
    • 実行は決して軽視すべきものではない、価値があると認識すべき
    • 評論家的態度を保ち、自ら何の仕事にも直接手を下さない者は必ず何かが犠牲となる
    • 西郷隆盛の「欠点」は「騙され易い人柄」(知恵不足、討議不足)だが、決断力は好かれた
  • 「いい人生・感性の力」
    • 恩と恨みでは受けた恩より恨みはどんなに浅くても報復する
    • 人相・顔の上層部(鼻以上)は人の知能を表し、下部(口・頬・顎)は性格を表す
    • 人の弱さを見せない「NO」をうまく使える人、一歩退いて考えるクセをつける
    • 「見込み」「見切り」を使い分ける(考え過ぎは何事も成し遂げられない
  • 「存在感のある人生」
    • 代打がいない存在である事
    • 世の中は相持ちである(助け、助けられる、惜しみ、惜しまれる)
    • 「優れた目利き」は一番の財産、「どうせ」の連発は仕事ができない人材
    • 無理難題を小言を言わずやり遂げる事が上司に好かれる(できる人の真似をする)
    • 人の悪口・噂を言わない「人を責めず、陰口を言わず、悪口を言わない
    • 相手の立場に立ってものを考える人になる(他人の視線を気にしない)
  • 「満足度ある人生」
    • 「先に踊った人」だけが味わう人生の醍醐味
    • 本当の思いやりは「生きる勇気」を起こさせる事
    • プライドは持っても奢らない
    • 孔子・秀吉に共通する「世渡り」の極意は自分の義務を完全に尽くす事

浅井長政の謀反は明智光秀にもつながる『浅井長政のすべて』

2020-03-14 07:57:44 | 経営・リーダーシップに必要な事
@「明智光秀につながる信長への謀反理由」姉川の合戦(信長・家康vs浅井・朝倉)に決定的な理由が隠されていた。それは「将来への不安と不信(安心と信頼)。家臣との「信頼」無くして家臣の不安は払拭できない、また武将の頭にはなり得ないというのがこの書で得た謀反の理由だ。(下記本文参照) 現代でもこの「信頼」無くしてリーダーシップは取れない。「信頼」を得るには、相手の立場に立った姿勢・物事の考え方を読み取る事だろうか。それに皆が「安心・安全・安定」を臨んでいるのは言うまでもない。

『浅井長政のすべて』小和田哲雄
浅井長政とその時代
    祖父亮政、父久政、長政 浅井3代、元服時は六角からの賢政、妻も六角重臣から
    北近江(伊香郡、東浅井郡、坂田郡)守護は京極氏
    南近江の守護大名は六角定頼・義賢(長政元服から双方で争いが始まる)
    16歳で六角との決別離婚し、名前を長政とする、初陣は六角義賢との野良田合戦
    17歳佐和山城を奪回
    22歳蒲生野合戦
    23歳織田信長が斉藤龍興を滅ぼし稲葉山城を得る(信長に接近)
    24歳お市の方を妻に迎える、足利義昭小谷城に入る、信長と義昭が上洛、六角氏討伐
    25歳長女茶々誕生、足利義明より一色式部小輔を受け鷹を返礼する
    26歳次女お初誕生、信長が越前朝倉義景を攻撃で信長に謀反、姉川の合戦で敗退
    27歳筆頭家老磯野員昌が寝返り、佐和山城が落ち、その後鎌刃城、横山城が没
    28歳信長小谷城城下を攻め山本山城を攻撃
    29歳3女小督誕生、足利義昭、信長に降伏、山本山城阿閉淡路守貞征寝返り
        朝倉義景一条谷にて自害41歳、朝倉氏滅亡、27日長政の父久正自害49歳
        9月1日長政、小谷城本丸で自害29歳 浅井氏滅亡
信長に反旗を翻した理由
    信長の長政に相談なく朝倉攻めを決行した事(当初は越前若狭武藤友益討伐)
    六角攻めで信長から長政に対し恩賞がなかった事(信長の江北一円の分国の前触れ)
    長政・朝倉に手を貸した比叡山延暦寺も信長によって攻められ壊滅された事
浅井長政の織田信長に対する戦略(姉川の合戦~小谷城攻め・3年と4ヶ月)
    姉川:浅井軍・総勢8千人、姉川には5千人、小谷城に3千人
    姉川:信長・家康勢・信長3万人、家康5千人
    甲斐の武田信玄との同盟を推進
    大阪石山本願寺や近江・加賀・越前一向一揆衆との連携
浅井側敗因の理由
    武田信玄の陣中での死去と足利義昭の流落
    家臣たちの寝返り(山本山城、月ケ瀬城など城主)
    朝倉・信長との戦いで敗走、朝倉義景が自害する
    長政は小谷城落城とともに自害、その後忠臣百人余りも追腹
    信長の天下統一への一戦で浅井側の資料が少なく、秀吉・家康の優勢資料ばかり
小谷築城とその支城
    山頂部(495m)の大嶽と住居空間の山麓部(390m)
    安土城に先行していた石垣城廓の構造と清水谷(山屋敷)、福寿丸・山崎丸(曲輪)
お市との婚姻・生涯
    お市は信長の従兄弟、織田信秀の5女
    織田・浅井との同盟関係を築く目的
    信長と足利義昭・幕府再興のため京への上洛(京への近江路の安全)
    小豆の袋を信長に送ったのは逸話(長政の謀反を知らせる目的)
    柴田勝家の妻となり、秀吉との合戦で夫婦ともに自害
お市の三人娘たち
    長女茶々は秀吉の側室となり二人目秀頼を出産「淀姫」正室となる
    次女お初は京極高次に嫁ぎ、京極家江戸屋敷で64歳まで生きた(浅井長政の血筋を引く浅井家が讃岐・丸亀藩主として残った)
    3女小督(お江)は尾張大野城城主佐治与九郎一成と婚姻、その後離婚、秀吉の甥羽柴秀勝と再婚、秀勝が朝鮮出兵で戦死、その後徳川秀忠(17歳)と3度目の結婚(23歳)、二人の姫と後の3代将軍家光を出産
史跡
    養源院 京都東山 長政とお市の方・長政の法名「養源院天英宗清」
    多賀神社 滋賀県犬上郡 長政の寄進した梵鐘
    佐和山城跡 彦根市佐和山町 石田三成の居城 浅井方城主磯野丹羽守員昌
    鎌刃城跡 米原市番馬 枡形虎口や防御石垣
    徳勝寺 長浜市平方 浅井家の菩提寺(井伊直興により移転)
    小谷城跡 滋賀県東浅井郡 浅井家2代の居城 標高495m
    山本山城跡 滋賀県東浅井郡 朝日山(阿閉氏城主)

権力の存命はいつまで続く『裏太平記』

2020-03-10 07:57:21 | 歴史から学ぶ
「太平記」、天皇の即位争いに下で支えた公卿たちの陰謀が見え隠れする。武家社会も同じ、現代社会に置いても同じような現象を多々見受ける。国内の大手家具系でみた子が親を見下す継承事にも見られたように、戦国時代の子が親を殺すのは家臣・部下との信頼関係と個々の貪欲さで大きく左右される。 往々にして権力の立ち振舞いは過去の歴史でも長続きはしない。 周りを人徳で引き寄せる工夫が必要だ。

『裏太平記』半村良
『徒然草』の兼好法師には裏の顔があった! 皇位をめぐる争い、下克上を求め動めく民衆の異様な動きの影で兼好の画策する陰謀とは。伝奇小説の巨匠が大胆な推理を元に描く本当の太平記の世界。
  • 兼好法師が日陰一族の創始者(影法師)と言われ、当時の貨幣経済が拡大するその富の集まる集団をまとめた。密教と浄土宗、その他の宗派と対立させるべく活動し、有力寺院の僧兵など、その武力集団の一つが楠正成だった。兼好法師の終焉は伊賀で忍者等を後々創出した集団である。
  • 兼好法師の基本理念「権力は肥大すると腐る」、当時持明院統と大覚寺統の両派に分かれた天皇即位順位が公家、公卿等で乱れ始める。それを早くから見抜き「下克上」を招こうと行動した無名法師等を抱き込み後の後醍醐天皇の王政復興、倒幕へと動きを取る。好法師の興味は天皇家が所有する「天領地」で、「悪党」盗賊・武力を持った豪族が動き出した時代。そこで兼好法師の言う「世は武士が争いをする、公家、公卿は種を撒く人じゃ」と。それはまた言う「乱世の始まりは、荘園の米が銭で買われる様になり、銭は権力を養う糧となったこと。銭は力となり、力は銭を呼ぶ。貴賤は問わず力のあるものが上に立つ下克上を招いた」「下克上は万民平等の第一歩じゃ」また「融通無碍に生きることを勧める」
  • 無名法師の仲間で円真、文観等は寄進寄付(お布施)で富裕層(石見銀山)を狙い呪い、遂には天皇家にも近づき、次期天皇(邦良親王・病弱を利用)を祈祷をしながら毒殺させ、後醍醐天皇を推挙する。当時毒薬(柱毒)は主に公家、公卿等が買取、利用していた。
  • 後醍醐天皇(31歳で即位)は単なる飾り物ではなく過去を断ち切る破壊的な思想で王政復古を標榜し、密教を復興、幕府討伐する動きをするが失敗、気鋭の宗学者日野俊基、日野資朝などを六波羅奉行により失くす。過去院政を行ったのは後白河法皇である。後醍醐天皇は将来剛健な体質で公妃18名、皇子18名、皇女18名と言う精力盛んな天皇だった。
  • 陸の悪党が楠木正成、海の悪党が名和長年、武藤なる姓は、武蔵の藤原ではなく、武士の藤原である
  • 酒屋・土倉(鎌倉時代)はその当時「酒屋」と「高利貸し金融業者」(消費者金融:無尽銭=貸付金、出挙=貸付)としての役割を持ち裕福な商人だった
  • 柿色は人外魔境の者の色で、俗界から超越した人間と認識されていた。 柿色とは柿の実の色で渋色の赤茶色やベンガラに少し黒を入れた色

男は甲斐性、女は愛嬌、変わる現代『我が家のヒミツ』

2020-03-08 11:52:17 | 人生を「生かす」には
「甲斐性」とは辞書では「やる気溢れた気質・根性」、と男根性を指す意味である。だが現代では女性に対しても「甲斐性」を使うが、どちらかと言うと「スマートにこなせる人」と言う感じになるのか。「男女平等」などで逆に女性にも「甲斐性」が求められる時代になったのだろう。それとネット上のやり取りが増え、相手の感情が読み取れないのか「他人への思いやり」も案外少なくなっている感がする。
『我が家のヒミツ』奥田英朗 6短編小説
1、『虫歯とピアニスト』 結婚して数年、子供ができないことで夫の実家から医者に診察に行くようにと言われ悩む。悩みを抱えたまま妻は歯医者の受付で仕事をする。そこで出会った患者の一人がファンのピアニスト。そのピアニストからの言葉「プランAしかない人生は苦しいと思う。常にプランB、プランCを用意し、不足の事態に備えている。つまり理想の展開なんてものを端から信じていない。理想を言い訳にして甘えてもいない。逆に言えばそれが一流の条件だ。だから人生にもそれを応用すればいい。あなたも・・」「人生を大袈裟に考えなければ、ほとんどのことは諦めがつくのだ。それを悲劇と捉える人と、運命と思って受け入れる人の差は、心の中のスイッチ一つでしかない
2、『正雄の秋』同期との昇進レースに敗れ、53歳にして気分は隠居。その昇格した同期にもお祝いの言葉させかけられない惨めさを感じたまま久しぶりの旅に出る。旅の中ほどで同期の親が亡くなり急遽旅を変更、葬儀に参加することに。そこで漸く同僚に心を開い思いを伝えることができた。それは同期の親元の故郷に着き同期の育った和やかで素朴な環境を見て心の癒しになったのだ。
3、『アンナの十二月』16歳になったのを機に、初めて実(血の繋がった)父親に会いにいく。今の家庭の父は血縁関係のない育ての父親で、血縁のある父は独身、著名な演出家だった。夢憧れる仕事に魅せられ、心も身も揺さぶられる。だが同級生からのアドバイスもあり、今の育ての父親の立場を考えさせられ、自分は2股をかけた夢を追いかけていたことを恥じる。実の父親が「もしかしたら離婚して、アンナを苦しめたかもしれないね。大人の都合で振り回しておいて、その後フォローもしてなかったし、申し訳ないと思っている」女の子は「運命」「将来性」「ブランド」に弱い。男は甲斐性、経済力とか、権力とか社会的ステイタス、女は愛嬌で誤魔化せる。
4、『手紙に乗せて』母が急逝。憔悴した父のため実家暮らしを再開するが食欲をなくし、睡眠も十分でなく痩せ細ってきた。娘は「残された家族三人の悲しみが10としたら、そのうちの7ぐらいはお父さんが引き受けてくれているのよ。だからお兄ちゃんと私は残りの3で済んでいる」。心配した息子の上司、同年齢で前年に妻を亡くし、辛い思いをした経験者、から1通の手紙を預かり、父に渡す。父もその上司にお礼の返事をしたため渡す。上司は「この歳になって伴侶を失うと言うのは、自分の人生の半分を失うと一緒なんだ」年配者などは縁者が亡くなったときの感情、辛さが読めるから労りの気持ちがあるが、若い世代はそうでもないと身をもって感じる。歳をとると経験から自然に他人の気持ちを思いやることができる、若者の人生経験が乏しいと言うことは、それはそれで貴重な時期だと言う。
5、『妊婦と隣人』産休中なのに、隣の謎めいた夫婦が気になって仕方がない。マンションの隣部屋に引っ越してきた1組の男女。ほとんど外に出ず、ポストにもドアにも表札がない・・「人間は普段慣れていない環境に置かれると、知らずのうちに神経が圧迫され、自覚症状のないままに幻覚や幻聴と行った超以上体験をすることがある」夫は精神的に不安定になり始める妻に忠告するが、妻は一旦疑問を持つと不安で夜も寝れなくなる。ある深夜に隣が外出すると跡をつける。と警官に止められる。隣は実は中国からのスパイで警察が監視をしていた。時間があると身近で何でもないことが気になることが起こる。
6、『妻と選挙』妻が今度は市議会議員選挙に立候補すると言い出す。夫はN賞受賞者の作家、だが今は下り坂で売れ行きも芳しくない。そんな時期出版からは書き下ろしを依頼され時間的なゆとりができる。妻の選挙活動が思うように人が集まらなく、夫も家族全員で協力すると人々の脚光を浴び、遂に当選する。

これからの転職・就職、国内だけではない『主を七人変え候』

2020-03-08 07:59:06 | 歴史から学ぶ
@「転職に次ぐ転職」七人もの主人を変えた戦国武将藤堂高虎の生涯だ。最初は禄高を求めて転々とするが、途中からは仕える主の人柄・思考・戦略等(侍大将)に傾き、城・仏閣建築に興味(建築家)を持ち、終盤には守り固め(相談役)に終始する人物に変わっていく。 現代、転職して誰もが恵まれた上司には出会えない、ましてや昨今の志望する就職難からか給与の大幅なアップが見込めないこともあり「社内での生き残り策」でもがいている社員もいるかのように見える。国内の景気にもよるが今後国内転職において良い条件での採用は困難な時代を迎えると予測できる。 それは日本経済の滞り(消費が増えない構造)、新規産業開発・発展の衰え、中高齢者の退職時期の延長、少子・高齢化による経済構造の変化、世界経済の低迷(新型肺炎など)である。必要なことは中間目標、最終目標を立て、目標に向かって日々勉強し、経験(質問し、聞く)していくことかもしれない。東南アジア諸国を旅(商用)すると多くの起業・就職の機会があると感じる。 成熟した諸国が次に歩む予測とこれから成長する諸国の動向を知ることは大切。

『主を七人変え候』小松哲史
高虎は、歴史の日陰者となった。だが素朴な疑問がわいてくる。「ゴマスリ」だけで三十二万石の大名になれるのか?なぜ七度も主人を替えたのか?なぜ家康の信用を勝ち取ることができたのか?大名取りつぶし攻勢のなかで、なぜ生き残ることができたのか?これらの“謎”を、波乱に満ちた高虎の生涯で追いかけてみよう。人を誰も信じない家康の肝をつかみ、外様にして徳川の先鋒にまで昇りつめた男。乱世にも治世にも生き残る知恵と覚悟を活写。
  • 藤堂高虎 15歳の初陣から七人の主を変えた武将
  • 1、浅井長政 小谷城1570年 父の縁で出仕 禄高なし 姉川の戦い ただ働きが嫌になる
  • 2、阿閉貞征 山本山城1572年  無録 生計が成り立たない
  • 3、磯野員昌 小川城1573年 80石(自分を入れて三人と馬の餌など)
  • 4、織田信澄  城主交代1574年 80石のまま
  • 5、羽柴秀長 長浜城1575年 300石 1581年中国遠征などで3千石加増 
    • 賤が岳合戦で4.6万石、1587年紀伊粉河で2万石の領主となる
  • 6、豊臣秀吉 伊代飯島7万石
  • 7、徳川家康 1600年関ヶ原の戦い、伊予今治20万石
    • 1608年伊賀・伊勢22万石 冬夏の陣1614年32万石
  • 近江屋主人与左衛門との出会いで得た知識、それは人柄・質素・低姿勢・商売の秘訣
    • 礼儀正しく、信用を重んじ利益は後に考える
    • 安易に金を借りて、商売を広げぬこと
    • 財は天下一の宝物なれど、悪く用いれば身と家を滅ぼす
    • 仕事を楽しみ、不平を抱かず、困難に出会っても屈してはならない
    • 職業に価値が高いも低いもない、ただ心の持ちようである
    • 小さな商いも疎かにせず、客を分け隔てしない
    • 勉強と節約とは福を招く門である
    • 一つの小さなことにも手ぬかりないようにせよ。何事も堪忍の2字を弁えるべし、さすれば万事において大成する
  • 高虎は「ゴマスリ」「風見鶏」「裏切り者」「世渡り上手」など悪評が多いが、徳川幕府では忠誠を誓う「外様」の見本として活躍、勇将な武士でありながら城・仏閣の建築で家康などから信頼を受ける。高虎と宮大工宗黄による日光東照宮・5千体に及ぶ彫刻がある。 明治まで幕府からの簡易がなく生き延びた外様は多くない。正室、久芳には子がなく養子を育てるが発狂して自殺する。途中妻帯(松寿)し長男を授かる。遺産は後継ぎの長男、松寿に多く、残りを家臣に分配した。 老後70を超えると家光、家老たちに昔話をすることが多く逸話として
    • 博打の男と遊女に走る男に「どちらに重きを置いた罰を与えるか」 高虎は博打男を軽い罰
    • 天下太平で一番大切なことは「文武両道が必要だ」(どちらもほどほどが一番良い)
  • 高虎の城建築(テクノクラート・技術官僚) 歴戦で城を攻め抜いた経験者であり、武略・知略・計略の3つを備えた武士だった。 伊賀上野城(30mの石垣)南北長さ240m、西の250mと大阪城並み敷地5双の天守閣、40箇所の蔵(8万俵を備蓄可能)、その他江戸城、(天下普請)、伏見城、増上寺、伊勢津城、丹波亀山城(再構築)丹波篠山城などを建築した
  • 高虎の目標は手柄を求め戦場に出向く、侍大将になることだったが、「平和」「幸せ」の徳川時代になり「大切な何かを失ったような・・・」があった。
  • 「人は少しくらい切られても死なない、だが、致命傷を与えるには刺すしかない」
  • 高虎の遺言「選択があるとしたら迷わず「領土」「領民」を選べ」
  • 高虎の中国出征の間違い「敵を知り己をしらば百戦危うからずが、敵を全く知らずガムシャラに猛進したことでが敗北の要因であった」
  • 徳川家康の誰一人信じない武将 「外様であろうと譜代であろうと、信用できるものは信用できるし、裏切るものは裏切る。人を図るには、まずその力量と技量で図れ。次にその姿勢と人柄で図れ。そして最後にはその人間が勝つことだけでなく負けることを知っているかどうか図れ」
  • 石田三成を筆頭の政務派vs家康らの武闘派の戦い:関ヶ原の戦い
  • 東西に分かれた関ヶ原の戦いを他所に黒田官兵衛は九州において「3分の計」を計画していたのか