@「戦争の原因」、それは日本を含めた独伊の「持っていない国」と米英仏ソなどの「持っている国」で起こっている。それは主に天然資源と植民地を保有している「国」か、であり、更に強力な軍事力を誇示した国である。 太平洋戦争において日本は、当時の近衛首相、陸海相、統師部等誰もが責任の擦り合いで難を避けようとする態度が見え見えで、最終的に軍を統制できる人材が誰一人いなかった事が全てに起因している。いわゆる政治家のリーダーシップ(提言ではなく実践)が貧弱で、国政が軍部主導型となってしまった事である。近衛首相が所信で記者に言った「政策政網はできもしないことをたくさん並べることは止めにしたい」は現代でもそのままだ。 安倍総理などがよく使う「完全に、素早く、積極的に、先頭に立って〜」など言葉だけで「自らの実践証明」(実行力)が全く伴っていない声明は国民の心にはもう届かないと思う。
『近衛文麿と日米開戦』川田稔
「内容」日本が太平洋戦争に突入していく重要な時期に国政を担った、第二次・第三次近衛文麿内閣。その内閣書記官長を務めた富田健治によって、戦後に書かれたのが『敗戦日本の内側――近衛公の思い出』である。そこには、近衛らが緊迫する国内外の情勢にいかに対応したかが、当事者しか知りえない舞台裏と共に、息づかいまで感じられる筆致で綴られている。解説は、昭和史研究の第一人者である川田稔名古屋大学名誉教授。会話などからも歴史的価値を見出し、読み解いていく。はたして、日米開戦は不可避だったのか、それとも――。
この書は第一次近衛内閣(日中戦争)から第二次・第三次近衛内閣(第二次世界大戦開始=1940年7月)~太平洋戦争開戦直前1941年10月)の内情について記述したものである。富田健治は長野県知事を歴任し、1934年近衛が貴族院議長の時意見を聞いたのがきっかけで内閣書記官長を務める。
時期は米山内閣が総辞職した1940年7月、荻窪会談(東条英機=陸相候補・吉田善吾=海相候補・松岡洋右=外相候補・近衛文麿=次期首相)から陸軍案「時局処理要網」の申し合わせから始まる。
日中戦争解決(蒋介石政権の屈服)から対南方問題(対英国植民地)による戦争準備
独伊の結束と対ソ連国外交調整
国防国家の完成を推進、強力政治機構の確立(軍部と一体化)
更に軍部が作成した「総合国策基本要網」(10年計画)
日本・満州・中国の結合「大東亜を包容する共同経済圏」への軍備増強
(東南アジアからの資源獲得目的:石油・生ゴム・鉄・錫・ニッケル・リン・アルミ原料等)
欧州戦争への不介入
「日本・満州・支那」経済総合産業開発計画
強固なる政治指導力を確立、「全国国民総動員組織」の創設
日米の国力の差は約12倍と分析していた日本政府、よって対米国戦争は陸軍等も否定していた
近衛文麿の思惑「新しい政治体制によって強力な新党を結成し、重大なる磁極に対処する。軍に反抗したりすることではなく、軍とピッタリ一緒になっていくようにしなければならない。これが私の理想だ」と新党結成と新内閣を望んだ。だが、首相就任後には「軍人にリードされることは甚だ危険である。1日も早く政治を軍人の手から取り戻す為には、まず政治家がこの運命の道を認識し、軍人に先手を打って、打開するに必要なる諸種の革新を実行する他にない。」
対米戦争を回避する為にと松岡外相は強く主張し、日独伊三国同盟を締結する。またソ連を加えることで米国に対抗する交渉をする。独伊ソを訪問した松岡はスターリンに「君たちはアメリカの常套手段に乗せられて、すぐ喜ぶなんて、なんという甘いことだ。もっと相手を引き摺り回して、我に有利な条件を取り付けなければならぬ。勝手にアメリカと妥協するなどということは、盟邦独伊に対しても、不信極まることにある」と言われ、野村米国大使に対して松岡は「アメリカにあまり腰を使うな、野村に急ぐなと伝えておけ」と言った。その後松岡の「我の毅然たる態度」を持ってした日米諒解修正案に対して、米国の対日感情は悪化、日米開戦の引き金になった。やがて対米交渉は松岡の大幅な修正案(譲歩を許さない)に即座に反応し石油全面輸出禁止となった。
西園寺公望は「今の日本を救うには、この議会主義を叩きつけなければならない」と言って亡くなる。ドイツがソ連に侵攻する時期に米国は日本がソ連への攻撃をすることを恐れ、急遽石油の制裁を発令し、日本が資源を求めて南方へ進出する作戦に出た。それは日米開戦への導線となる。その時期日本はソ連への備えで85万人の兵力を用意していた。日本とドイツは国際社会でも「持たざる国」であり「持てる国」からの「力」によって抑えられてきた。
御前会議において昭和天皇は「・・大帝の平和愛好の御精神を紹述しようと努めているものであるぞ」と言われたが陸軍・海軍を統括する統師部は意見が分かれており海軍は首相の裁断に一任という形となり内閣が総辞職、その後東条内閣となり一党独裁(軍中心)で日米開戦となる。
終戦後、即座に近衛は特使としてソ連に遣わされたが、ソ連から会談を拒否される。その後近衛は戦犯指名受けたが、マッカーサーからの収監命令を拒否し服毒自殺をする、54歳だった。近衛は自身を支える強力な権力基盤を欠いた根本的な弱点があった。特に松岡外相を最後まで説得できず外交・政治を放棄した形となる。
近衛首相は、ドイツがソ連に侵略した時点で、条約を御破算にし英米に接近、当時米国が言う「三国同盟違反で無視」することは可能だった。それに当初東条陸相、及川海相、それに武藤陸海軍自局長も当初の諒解案(日米開戦を避ける)を賛同していたにもかかわらず松岡外相一人の反対で太平洋戦争に導かれたのはやはり政治のリーダー的存在近衛首相・内閣の性格は「はっきりしない、割り切れないもの」で実践に努めようとしない役職の怠慢でありで接戦して米国交渉を再開すれば太平洋戦争は回避できたといえる。近衛は第二次近衛内閣成立直後記者に「政策政網はできもしないことをたくさん並べることは止めにしたい」と言っていた本人が実践していなかった。東久邇宮殿下は近衛の内閣総辞職に対して「あなたは気が弱くでいけない。どうか勇気を出してもう一度考え直して欲しい」と言われ、近衛の第三次内閣の前に近衛はいつもの昼寝を夕刻まで取っていたと言う。
この書で読める太平洋戦争への要因は
①松山外相の独伊・ソ連寄りの姿勢から米国に対する歪んだ感情を持ったこと。
②三国同盟と新たな対ソ関係保持は米の日本に対する輸出全面禁止規制と欧州への戦争参戦を早めた
③ルーズベルト大統領と近衛首相との直接会談が日本の内政・軍部圧力で内閣リーダーシップ不足から内閣総辞職、実現不可能となった
④東条内閣は軍部による包囲網拡大策で戦争準備、南方方面への武力行使の意図が鮮明になった事
結果、米国は「ハル覚書」を持って最期通牒を日本に叩きつけた。 この「ハル覚書」について東京裁判ではインド、モナコ、ルクセンブルク、英国の代表ですら「米国に対し鉾を取って立ち上がったであろう」と言う日本に対し交渉余地は全くなく米国の宣戦布告的な内容であった、と言う。