獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅠ:FC2へ引越し後 (5)

2021-10-05 01:09:00 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。


■幸せになる権利           投稿日: 2012年1月24日

たとえば、日本国憲法前文や世界人権宣言には、いまの世の中で考えられる最も崇高な精神と自由を保障するかのような言葉が連ねられています。字面を追っていけば、ほんとうに素晴らしい涙が出るほどの理想が語られています。しかし現実はどうか。この平和ボケと言われて久しい日本においても、目に見えて卑劣な人権侵害は横行しているし、凶悪犯罪は絶えることなく、私たちは民主主義などとはほど遠い利権国家にいることに甘んじています。大多数の一般庶民は単に搾取されるだけの愚民となり、小さなコミュニティのなかでのささやかな人情に生きる糧を見出しているに過ぎないようにも思います。特に311以降、私たちは幸せになる権利があるのかどうかさえ疑問に思えてしまうほどです。 しかしそうした中にあっても、やはり一人の人間としての正義感というものは絶やしてはならないと思います。それが実現できそうもない単なる理想であったとしても、言葉として掲げていくことの意味は大きいと思います。どんな世の中になろうと、私たちは幸せになる権利を持っているのだということを信じて示していきたいと思います。
創価学会の欺瞞と矛盾がもはや隠せない段階に来ているとはしても、まだまだ数百万人という会員が騙されていることに気づかないばかりか、よかれと信じてその悪行に加担してしまっています。私は生まれてずっと創価学会という閉鎖的かつ排他的な環境の中で育ってきました。私の親も兄弟もそれとは知らないままその社会悪に加担してきました。そして私は53年目にし てやっとそのことを客観的に見る機会を得ることができました。それまでの数多くの学会の矛盾に関しても、無理矢理思考停止を余儀なくされると言ういわゆるマインドコントロールによって、疑問が疑問でなくなるという恐ろしい状態に陥れられてきたわけです。個人の思想を否定し、ひとつの思想を強制し、従わないものは地獄に落ちると恐怖をあおることで縛り上げる。そしてすべての金と権力を池田という一人の傲慢この上ない人間に集中させる行為を崇高なものと植え付けていく創価学会を宗教ととらえること自体がおかしいことであって、そのおかしさに気づかないことが、あきらかにカルトによる大規模な犯罪行為であることの証左であると断言します。
こうはっきりと断言できるようになった私でさえ 、まだ自宅の仏壇を処分することにためらいを感じてしまうのは、あきらかにMCから解かれていない証拠だと思います。本尊の曼荼羅が何の意味もない印刷物だとわかってはいても、むげに廃棄してしまうことを躊躇する自分がいます。これはなんだろうかと考えます。信じてはいない。功徳などあるわけもなく、しかし自分のこれまでの人生のかなりの部分も同時に否定してしまうことの躊躇なのか。自分の中での理屈と感情が軋んで音を立てているようです。
仏壇を処分する。これは自分は仏教徒であるという、普段はさほど気にもしていなかったアイデンティティを、ここにおいて、しかもこんなくだらないことが原因で、あっさり否定してしまっていいのかという問いかけでもあると思います。もちろん創価学会とは決別するにしても、宗教とりわけ仏教との縁を切ってしまってもい いものかどうかという疑問というか不安…。これは墓の問題とも関わってくることです。この先、自分の中での宗教観というもの、また信仰というものをどのように捉えていけばいいのかという、おそらく初めてつきあたる問題に正直戸惑っています。なにかしらよくわからない重荷というより欠落感がやはり心のどこかにあるようです。
創価学会は宗教であるという前提で考えれば、これが宗教ならば必要ないという結論とともに、いわゆる無神論者として生きる道もあるでしょう。今の世の中を見れば、神も仏もあるものかと思うのも当然なのかもしれません。かといってこの世界での人間の知覚能力を遥かに超えた力の存在を否定するにも、あまりに無理があると私は思います。創価学会は宗教ではないということを前提に考えれば、あらためて自分自身と宗教、もしくは自分とこの世界をつなげるなんらかのものに対する認識について、もう一度検証し直さなくてはいけないと個人的には思っています。これはあくまで私個人の考えですが、今まで創価学会の考えと違うというそれだけの理由で、自分の中の封印してきた感覚をもっと大切に生きていきたいと思うのです。
そう考えると、創価学会がいかに人を宗教や哲学から、それ以前に人として感じ考えることを遮断させてきたかが思い知らされます。まったく愚かなことです。もはや人類が辿ってきた信仰の軌跡を否定する気はありません。そこから素晴らしい技術や文化が生まれ、芸術が生まれ、人々はさらに生きる意味を問いかけてきました。そして同時にこの世界で生きていくことの喜びをも表現してきたように思います。むしろ無心論者の言い分が偏狭なアナーキズムのようにも私には感じられるのです。
世の中はそう簡単には変わらないだろうし、現に今の世界はろくでもない支配者によって搾取され続けています。それでもこの世に生まれてきたことに感謝し、子どもたちに命をつないでいくことの尊さを伝えていく自分でありたいと思います。
このブログはなにも特別なことをやろうとしているのではありません。自分の時代には実現できないであろう幸せな世界を、せめて子どもたちか、またその子供たちの時代には、その理想を見失うことなくつくりあげていってほしいという思いで立ち上げました。創価学会の現実を一日も早く社会に示すこと。これはみなさんのひと言ひと言の積み重ねによって必ず実現するものと信じています。ちょっとしたことでもかまいません。それぞれの立場で創価学会を見てきたこと、感じてきたことをありのままお話ししていただけるとありがたいです。ここで学会を罵倒し攻撃する必要はありません。ありのままの事実とあなたの正直な思いをここに記していただけるだけでいいのです。創価学会員であるがゆえに創価学会の真実から遠ざけられて、何も知らされていない多くの会員さんの心に届けたいと思います。よろしくお願いします。


解説
こうはっきりと断言できるようになった私でさえ 、まだ自宅の仏壇を処分することにためらいを感じてしまうのは、あきらかにMCから解かれていない証拠だと思います。本尊の曼荼羅が何の意味もない印刷物だとわかってはいても、むげに廃棄してしまうことを躊躇する自分がいます。これはなんだろうかと考えます。信じてはいない。功徳などあるわけもなく、しかし自分のこれまでの人生のかなりの部分も同時に否定してしまうことの躊躇なのか。自分の中での理屈と感情が軋んで音を立てているようです。

シニフィエさんは、宗教とりわけ仏教との縁を切ってしまってもいいものかという不安を正直に吐露しています。

このスレッドの直前に、沙樹羅というHNの人が登場して、シニフィエさんに難癖をつけたようです。
参加者によりアラシ認定され、そのコメントは削除されてしまったため、詳細は不明です。
しかし、対話ブログはじめてのアラシとして、記憶にとどめておきます。

獅子風蓮