獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

自治と反抗/大悪大善御書(その1)

2023-10-30 01:07:26 | 友岡雅弥

これまで、karagura56さんのブログ「浅きを去って深きにつく」から、友岡さんの言葉を拾ってきました。
同じブログには、友岡さんのセミナーや講演の記録も残っています。

「浅きを去って深きにつく」karagura56さんのブログ
自治と反抗/大悪大善御書(その1)(July 1, 2019)


友岡さんがまだ創価学会に幻想を抱いていたころの講演ですから、多少割り引いて読む方がいいかもしれません。

 


自治と反抗/大悪大善御書(その1)
大悪大善御書は、断簡(手紙の一部)だけが残っていて、そのために、誰に宛てられたものか、またいつ書かれたものかは、よく分かりません。建治元年という説がありますが、確定してはいません。
真蹟断簡は、大阪の堺・妙国寺に残っています。
むむっ、何で堺やねん、と思いはるかたもいらっしゃるかも分かりません。

廃藩置県後は、堺県としていまの奈良県も堺県の一部でした。それほどの大きさ。今は政令指定都市で、人口も多い(わずかに100万には足りない)ので、日蓮宗系の寺があるのは当然でしょうが、大聖人真筆が残っているということは、そこそこ由緒ある寺でしょうから、それがなぜ、堺やねんと思われるのも当然です。

キーワードは、「町衆」です。
みなさんは、茶の湯や水墨画などは、「禅宗」の影響とか習いませんでした?もちろん、どの分野にしても「影響」というのは、複層的なものなので、禅宗の影響もあるにはあるのですが、ことに、室町末期から安土桃山、そして江戸初期に於ては、禅宗というより、「日蓮系」なんです。

今、「日蓮系」と述べました。日蓮宗ではなく、なぜ「日蓮系」としたかというと、僕は、「宗派」などの違いもですが、「属人的」な違いが大きいのではないか、というのが、僕の考えなんです。
日蓮大聖人の仏法と言っても、とても呪術的な、また日本のさまざまな世俗的信仰のような「神頼み」みたいな人もいるし、時には、戦闘的で排他的な人もいる。また、磨かれた人格の人もいる。そういう属人的要素が大きいような気がするのです。

時代的要素も大きい。
何と言っても、江戸時代の檀家制度の影響で、一般信徒は、教義を学んだり経文を読んだりすることは、基本的には、禁止されていたわけなので。そのころは、禅宗であれ、日蓮宗であれ、門徒であれ、「村の宗教」を強制されていたわけですよね。

室町~江戸初期は、日蓮系でも、池田名誉会長が同時中継のスピーチで長時間とりあげた、焼けた鉄鍋を頭に押し当てられるという拷問を受けながらも、権威への抵抗を続けた「鍋かぶり日親」の「不受不施派」が興隆したわけで、

権力へ近づいていった日興門流とは、かなり違います。

どちらが「大聖人的」であったか。

ある意味で、それは、「私」が「大聖人」をどう見ていたかの「リトマス試験紙」であると言ってもいいでしょう。

同じ身延派でも、身延の本山のように、国のハンセン病隔離政策の片棒担いだところと、綱脇龍妙さんみたいに、身延派の僧侶なのに、日本人で唯一、ハンセン病療養所(隔離のためのではなく、治療のための)を作った人もいます。

さてさて、応仁の乱(最近は、応仁年間よりもその後の文明年間のほうが、戦乱のピークであったことから、「応仁・文明の乱」と言われますが)の後の一世代、京都の町は長く荒廃していました。1500年ぐらいから、「町衆」と呼ばれる商工業者が交易で力をつけてきて、その人々が、「再び、京都を戦乱におとすものか」と、自治を始めたんです。
その人たちの7割ぐらいが、日蓮系だったんですよ。
現実の社会を自分たちのちからで、よくしていきたいという町衆にとって、日蓮大聖人の考えは、とてもベースとして適していたのです。
祇園祭も、もとは「法華祭り」だったんですよ。題目の声が鳴り響いたそうです。
もったいなくも、ご本尊を掲げた山鉾もあったそうです。

ええっ、祇園さんて八坂神社違うの!神道違うの!と思ったら、それは歴史を忘れている、ということです。
「排仏毀釈」です。

明治維新の「排仏毀釈」で、祇園八坂神社は、神社になったのであって、それ以前は、天台宗系の寺だったのですよ。

「檀家制度」と「排仏毀釈」というものがあった日本で、「宗派」による分類が、いかに、あてにならないかが分かります。

俗に「大文字」とも言われますが、五山の送り火にしても、「妙」「法」の送り火がありますよね。もともとは、法華信仰だったんです。

ただし、この法華町衆たちは、戦国時代に天文法華の乱で弾圧されて、若干下火になりましたが、「気風」は地下水脈として、残り続けます。

「京の町衆」の運動は、「自治」とともに、「文化」も花開かせていきました。
江戸時代のごく初期、本阿弥光悦は、京都の町の北、辺土であった鷹峯に、一族や多くの町衆とともに移住して、村を作ります。アート・ヴィレッジですよ。本阿弥光悦というのだから、もともとは阿弥陀系の信仰の家系だったのでしょうけど、「阿仏房」と同じく、日蓮系です。だから、そのアート・ヴィレッジの中心は、今も残る日蓮系の光悦寺です。
光悦たちは、ここで様々な工芸作品、陶芸、絵画を作り、日本美術史に燦然と輝く琳派の流れをつくったわけです。

さて、「町衆」というと、堺も忘れてはいけません。世界に誇る「自治都市・堺」を作り上げたのも町衆でした。そして、やはり、そこには、日蓮系の思想が基盤となったわけです。
冒頭に挙げた、本抄の真筆が残っている妙国寺。ここは、日蓮系の「本山格」の大寺院で、やはり堺の町衆がつくったものです。徳川家康が大坂夏の陣、冬の陣で、拠点としたところです。

ちなみに、池田名誉会長が、若き日に、頻繁に通った銭湯もこの近くにありました。

 

そんな場所に、この断簡はあるのです。

特別な因果関係はないですが、その延長に、「私の人生」を置いても、面白いかもしれませんね。

 

 


解説

この講義は、「すたぽ」にも載っていました。

freak72 - 自治と反抗/大悪大善御書(その1)

友岡さんの御書講義が読める「すたぽ」はお勧めです。

獅子風蓮