獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

朝井まかて『ボタニカ』 その2

2023-10-22 01:22:42 | 読書

 

NHKの朝ドラ「らんまん」、良かったですね。

私の中では、「らんまん」ロスがまだ治っていません。

さて、アメブロでも書きましたが、ドラマの主人公・槙野万太郎は、モデルである牧野富太郎とは少し違っていたようです。

牧野富太郎と槙野万太郎(2023-09-28)


朝井まかて『ボタニカ』という本があります。

『ボタニカ』
日本植物学の父・牧野富太郎愛すべき天才の情熱と波乱の生涯。明治初期の土佐・佐川の山中に、草花に話しかける少年がいた。名は牧野富太郎。小学校中退ながらも独学で植物研究に没頭した富太郎は、「日本人の手で、日本の植物相を明らかにする」ことを志し、上京。東京大学理学部植物学教室に出入りを許されて、新種の発見、研究雑誌の刊行など目覚ましい成果を上げるも、突如として大学を出入り禁止に。私財を惜しみなく注ぎ込んで研究を継続するが、気がつけば莫大な借金に身動きが取れなくなっていた…。貧苦にめげず、恋女房を支えに、不屈の魂で知の種を究め続けた稀代の植物学者を描く、感動の長編小説。

私の敬愛する牧野富太郎先生をモデルにした小説です。

朝井まかて『ボタニカ』の文章を一部引用して、記憶に残しておこうと思います。
今回はその続きです。

興味のある方は、是非書籍を実際に読んでみてください。
とても面白いです。

朝井まかて『ボタニカ』(祥伝社、2022.01)

□1)岸屋の坊(ぼん)
□2)草分け
□3)自由
□4)冬の庭園
□5)ファミリー
□6)彷徨
□7)書(ふみ)読め吾子(わがこ)
□8)帝国大学
■9)草の家
□10)大借金
□11)奇人変人
□12)恋女房
□13)ボタニカ


9)草の家
……
「いい記事を頼みます」
互いに握手を交わした。

教授室を訪ねると、外出してしまった後だった。
若者が一人、脇机に残って書類の整理をしている。学生上がりの無給の助手で、父親は製薬会社の重役らしい。洋装も地味に拵えているが相当な上物だ。
「教授、怒っておられたか」
訊くと、顔も上げずに「怒っておられましたよ」と返した。
「明日、大目玉を喰うなあ」
笑い濁したが、相手は洋書を繰っては筆写している。取りつく島もないので立ち去りかけると、「牧野さん」と呼ぶ。振り返ると、若者は席から立ち上がっていた。背の高い男で、圧迫感がある。
「相談でも? 金の相談には乗ってやれんが、いや、君は内福だったか。学問の相談なら、なんでも乗るよ」
「相談ではなく、ご忠告です」
「忠告」と、爪先を回して真正面に立った。
「身のほどを弁えられないと、今に痛い目に遭いますよ」
「身のほどとはまた、たいそうな言種だ」
「僭越、逸脱が過ぎると言うのです。あなたは仮にも、この植物学科の助手ではありませんか。国に雇われている官吏ですよ」
「さよう。下級官吏だが、それがどうした」
「少しは松村教授をお立てになったらどうです。刊行物や論文に教授への謝辞を一文たりとも認めず平気な顔をして、学外の人気取りには熱心だ」
「人気取り?」
「講演会や採集旅行を盛んに開いて、小遣い稼ぎをしているそうじゃありませんか。今日も教授が呼んでおられるというのに、新聞記者の取材で反故にする。あなたは何様のつもりなんです。大学の秩序を乱すのもたいがいにしていただきたい」
「大学の秩序」と繰り返せば、白々としてくる。
「教授、助教授、講師、助手、学生。この上下の階層、師弟関係をあなたはまったく慮外に置いて、論文も好き勝手に発表される」
富太郎は松村教授に「教授」されたことがない。一介の書生が教室に出入りするうち、助手に引き上げてもらっただけだ。ゆえに師弟関係もない。
「それなら注意されたことがあるよ。君はあの雑誌によく出しているが、もう少し自重してはどうか、などとね。おっしゃる意味がわからん」
「いや。そればかりか、教授や助教授の論文にまでケチをつけて憚るところがない」
「ケチとは聞き捨てならんな」と、一歩前に出た。「いいか」と、助手を見返す。
「誤りが明らかである部分を放置して発表すれば、学生はそれを参考にして論文を書く。誤謬が広がるんだぞ。それがいかに怖いことか、君にはわからんのか。たとえ小さな間違いであっても引き継がれて広がって、手がつけられんようになる。誤りがあればすぐに正す。それが学問の良心というものだ。肝に銘じておきたまえ」
若者の胸に向かって、指を突き刺すようにしていた。
「だいいち、人気取りなんぞと蔑んでくれるが、在野との交流がいかにこの分類学に貢献するところが大きいか、わかっておらんことがテーブル・ボタニーだと言うのだ。私の人気があるのは私のせいじゃない。羨ましければ、君も野冊と掘り取り道具を持って野に出たまえ。そしたら少 しはましな論文が書けるようになる」
相手の顔色が変わった。目の下を虫がのたうつように震わせている。
己から喧嘩を売っておいて、なんじゃ、その顔は。
「生活のためでもあるんでしょう。それはお察ししますよ」と若者は吐き捨て、唇を皮肉げに歪めた。「身分不相応な冠木門つきの大きな家に住んでるんじゃ、外稼ぎもしなくてはやっていけませんからね。お子さんも多いらしいし」
「大きな家を借りるのは必要があってのことだ。植物標本と書物で3、4室は塞ぐ」
「あなたは、大学にはろくに標本を持ってこられませんからね。常に私蔵だ」
「私すると言いたいのか」
「そうでしょう」
「大学もこの牧野も、日本植物学の前では一つじゃないか。私は自宅でも仕事をする。 昼夜を問わずだ。手許に標本がなければ論考が止まる。ゆえに家に置いている。君にとやかく言われる筋合いはない」
脇机を叩き、踵を返して教授室を出た。
廊下を蹴るように歩きながら、憤激していた。大学を出たばかりの若造に忠告とやらを受けるとは見下げられたものだ。助手室に戻り、乱暴に扉を閉めた。窓辺の乾草束が驚いたかのように揺れる。
椅子に腰を下ろしても松村教授の顔が込んで、口中が苦くなる。このところ圧迫が激しいのだ。呼びつけられ、手厳しい評を受ける。今日もおそらくそういった用だったのだろう。
『大日本植物志』の解説文だがね。あれはよくないね。気をつけてもらわんと、大学の出版物だ。権威にかかわる。
そんな叱責を受けたことがある。あの若造は弁えがないなどと言うが、自分も人の子だ。いきなり噛みついたりはしない。まさに仰せの大学の権威を守るべく、苦心を重ねて正確を期しておるつもりでありますと、返した。ただ一つの語句を記すのに一晩を費やし、数十の書物を繰って 確認することも珍しくない。
「間違いがあればご教示ください」
「文章が冗長なんだよ。論文の文章は簡潔であること、これが肝要だといつも注意しているだろう」
そう、いつものことだ。教授は内容ではなく、文章を問題視する。
「どの文章かをご指摘いただければ、今後よく心得ます」
「全部だ」と、机の上に開いた『大日本植物志』の見開きを爪の先で弾く。苛立ってか、三角眉も弓形(ゆみなり)だ。
「だいたい、君は調子に乗り過ぎて書き過ぎる。自重したまえ」
事あるごとに自重、自重だ。
なんでじゃろうと、机に両肘をついた。頭を抱える。
矢田部教授といい松村教授といい、なにゆえわしを疎む。二人とも最初は可愛がってくれるのだ。松村など助教授時代に褒め讃えてくれた。自費で刊行した『日本植物志図篇』第1巻第1集についての評だ。
――今日只今、日本帝国内に、本邦植物図志を著すべき人は、牧野富太郎氏一人あるのみ。
専門誌でそんな賛辞を贈ってくれた。当時は独逸留学から帰朝したばかりで植物解剖学を専攻し、分類学にはまだ手を染めていなかった。
今ではすべてを否定しにかかる。
若い助手が口にした「人気取り」云々も、何年も前から仲間内で耳にしていた。
君、ちっとは松村教授の感情を考えて動かんと、牧野は仕事はできますが売名が巧過ぎますと、学長に名指しで非難しておられたらしいぞ。君を罷職(ひしょく)にすべきだと訴えたらしい。
つまらぬ噂のたぐいだろうと、気にも留めていなかった。しかも理科大学の学長は、動物学の教授である箕作佳吉博士だ。かつて富太郎を助手に任命してくれた菊池大麓総長の弟であり、本郷の学舎に用があって学長室を訪ねるといつも温顔で励ましてくれる。
困ったことがあれば、いつでも訪ねてきなさい。
学長は松村教授の訴えに取り合わず、流してくれたのだろうと、今になって気がつく。 しかし今は学長も替わり、箕作博士は病で療養中だ。松村教授はもはや富太郎への敵意を隠そうともせず、冷遇されていると感じることもある。大学の俸給が上がらぬままなのだ。奉職して以来、16年余も据え置かれている。博物館の手当があっても焼石に水で、こうも貧乏をするかと思うほどの逼迫が続き、それを妻子に耐えさせているのは偏に大業への志があるゆえだ。
だが、周囲の誰も彼もが「教授を立てよ」「気を兼ねよ」と、足を引っ張りにかかる。 そんな情実を挟んでおったら、日本の植物学はいつまで経っても進歩できんじゃいか。 己の髪に両手の指を突っ込んで掻き毟った。「ああ」「ああ」と、声を振り絞る。
「上長、先輩、それがなんじゃと言う。そんなものの心情に心を砕いて、学問の何に役立つ」
研究に邁進すればするほど敵視されるとは、なんと息苦しい世界であることか。
窓外は 暮れかかり、植物園に棲む鳥が啼く。

翌日、松村の教授室へ出直した。
「昨日は申し訳ありませんでした」
神妙に頭を下げて顔を上げたが、教授は目も合わせてこない。脇机には昨日の助手が坐しており、書きものをしている。こなたを小馬鹿にしたような笑みを張りつかせ、虚勢めいている。
「ご用があると承っておりましたが」
「牧野君」
「はい」と、居ずまいを正した。昨日の新聞社の取材が気に障ったか、それともまた論文の文章か。
「君を罷職することとなった。3月末日で助手の任を解く。長年、ご苦労だった」
そうか、そういうことかと、松村を見返した。松村はなぜか蒼褪(あおざ)めている。
貧しい学者一匹の息の根を止めただけで、あなたはそんな顔をしゆうがか。返り血を浴びでもしたかのようじゃ。
「お世話になりました」
己の声が遠い。再び辞儀をして、廊下へと出た。
(つづく)

 


東大植物学教室の教授および室員からはかなり冷淡な扱いをされていたのですね。


獅子風蓮