獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

朝井まかて『ボタニカ』 その4

2023-10-24 01:41:07 | 読書

NHKの朝ドラ「らんまん」、良かったですね。

私の中では、「らんまん」ロスがまだ治っていません。

さて、アメブロでも書きましたが、ドラマの主人公・槙野万太郎は、モデルである牧野富太郎とは少し違っていたようです。

牧野富太郎と槙野万太郎(2023-09-28)


朝井まかて『ボタニカ』という本があります。

『ボタニカ』
日本植物学の父・牧野富太郎愛すべき天才の情熱と波乱の生涯。明治初期の土佐・佐川の山中に、草花に話しかける少年がいた。名は牧野富太郎。小学校中退ながらも独学で植物研究に没頭した富太郎は、「日本人の手で、日本の植物相を明らかにする」ことを志し、上京。東京大学理学部植物学教室に出入りを許されて、新種の発見、研究雑誌の刊行など目覚ましい成果を上げるも、突如として大学を出入り禁止に。私財を惜しみなく注ぎ込んで研究を継続するが、気がつけば莫大な借金に身動きが取れなくなっていた…。貧苦にめげず、恋女房を支えに、不屈の魂で知の種を究め続けた稀代の植物学者を描く、感動の長編小説。

私の敬愛する牧野富太郎先生をモデルにした小説です。

朝井まかて『ボタニカ』の文章を一部引用して、記憶に残しておこうと思います。
今回はその続きです。

興味のある方は、是非書籍を実際に読んでみてください。
とても面白いです。

朝井まかて『ボタニカ』(祥伝社、2022.01)

□1)岸屋の坊(ぼん)
□2)草分け
□3)自由
□4)冬の庭園
□5)ファミリー
□6)彷徨
□7)書(ふみ)読め吾子(わがこ)
□8)帝国大学
■9)草の家
□10)大借金
□11)奇人変人
□12)恋女房
□13)ボタニカ


9)草の家

(つづき)
あくる明治44年、千葉県立園芸専門学校の講師嘱託も依頼された。帝室博物館天産課の嘱託もすでに何年も続けていたので、帝大も併せれば三つの嘱託だ。嘱託身分のまま、12月末に『普通植物検索表』を刊行した。三好学教授との共編で、著作権者は文部省だ。西洋の手帳サイズで、富太郎は以前から携行できる袖珍本型の図鑑を刊行できぬものかとの考えを持っていた。だが文部省が乗り出したのは、2年前に亡くなった箕作佳吉博士が生前、尋常小学理科書の編纂委員長を務めていた際の提言が基になっている。
――小学校の理科の授業で植物について教えようにも、教師自身が植物の名前をよく知らぬのが実情だ。ゆえに子供たちを校外観察に連れ出しても、正しく教えることができぬ。簡易なる植物検索表を編纂し、形状を携帯できるものにすべし。
文部省はこの提言を受け、三好学教授と富太郎に編纂を委嘱したのである。
掲載した草本植物は東京近郊でごく普通に出逢うものの中から約600種を選び、さらに東京近郊の開花時期を標準として月別の掲載とした。2月から11月までを月ごとに区切り、順に植物を紹介するという編集だ。たとえば3月に観察に出れば、花の形と大きさ、葉や根茎の特徴から、これはセツブンソウだと検索でき、生徒に教えられるようになっている。コスミレやアオイスミレ、ソラマメ、そしてバイカオウレンも3月の欄に掲載した。
本来であれば図解も添えるべきなのだ。図さえあれば一目瞭然、間違って生徒に教える危険性も減じられる。しかしその予算も日数もなく、本編は文章のみの解説にとどまった。せめてもの簡便を図るべく、巻末には五十音順の索引と専門用語の解説を付けた。すべてとはいかなかったが線画も添えた。葉の縁の「鋸歯」など、文章だけでは鋸状のギザギザを指しているとは想像の及びにくい術語が多いためだ。
同じ12月末に、東京帝国大学編『大日本植物志』第1巻第4集も刊行した。大学の編纂となっているが、これも富太郎が主になったものだ。当然だ。『大日本植物志』は、この牧野富太郎が人生を賭して為すべき仕事である。
そして年が明けて明治45年、東京帝国大学理科大学講師の辞令を受けた。奇妙なことに、この顛末まで前回と似ていた。嘱託身分から「助手にしてやる」、今回は「講師にしてやる」と糸を垂らされた。意地を張って妻子を飢えさせるわけにはいかない。パクリと口を開けて喰いついた。

7月30日、天皇が崩御、世は大正元年となった。
9月13日には大喪の儀が執り行なわれ、文部省でも奉悼式が行われたので富太郎も参列した。町もようやく自粛の体を解いて冬を迎え、今日はまた小春日和であるので浅草公園界隈も大変な人出だ。
醤油の焼けた甘辛い匂いが、鉄鍋から立ち始めた。さっそく手を伸ばし、牛肉の一切れを箸で摘まみ上げる。牛鍋屋ができてまもない時分は角切りの肉で味噌仕立てであったが、この頃は薄切りの肉に砂糖と醤油で味を作る店が増えた。すき焼きと名づけた店もある。なるほど、表面積でいえば角切りよりも大きいので味がよく絡むのかもしれんと納得しながら舌鼓を打ち、洋杯を傾ける。国産の葡萄酒で赤玉ポートワインという銘柄だ。壽屋という社名の他はすべて英文で表され、意匠も洒落ている。
「牧野君、いつから呑むようになった。君は下戸だったろう」
池野成一郎が豆腐を自身の取皿に移しながら訊いてきた。
「赤玉は甘いき呑みやすいがよ。知っての通り、赤貧洗うが如し舌耕殆ど衣食を給せずの身の上、葡萄酒なんぞ滅多と口にできんがね。しかし今日はあなた方の祝いじゃいか。さ、平瀬君も葱ばかり喰っておらんと」
平瀬作五郎の皿に牛肉を入れてやり、赤玉を注ぐ。髭の剃り跡が青々としていた顎には白いものが増え、少し痩せもしたようだ。だが野武士のごとき風貌は変わりない。池野は休日とあってくだけた洋装だが、さすがは理学博士らしく紳士然とした風姿だ。富太郎はといえば、草臥れた着物に薄い綿入りの羽織、頭は箒木のごとく伸びている。
平瀬が昨日の土曜から所用で上京してきて池野の家に泊まっていると聞いたので、「ぜひに」と誘ったのは富太郎であった。しかし不覚にも、招いた側が1時間以上も遅刻した。いつものごとく夜の更けるにもかまわず著述を続け、標本と書物の隙間に手枕で横になったのが明け方、起きたら約束の時刻が迫っていた。大慌てで小石川の家を飛び出し、人力車を走りに走らせて浅草に辿り着いた。
「いや」と胡坐の膝に手を置き直し、二人に小さく頭を下げる。
「祝いがかくも遅うなったが、おめでとう」
半年前の5月12日、二人は帝国学士院恩賜賞を受けたのである。平瀬は『公孫樹の精虫の発見』、池野は『蘇鉄の精虫の発見』の業績を認められたもので、日本の学術界では最高とされる賞だ。
二人は辞儀を返し、顔を上げた平瀬が目尻にやわらかな皺を寄せた。
「明治から大正へと御世を越えても、私を忘れずにいてくださった。それだけで恐悦至極、有難いですよ」
洋杯を口許に運び、静かに、しみじみとした風情で傾けている。
「今も、中学校で教鞭を執っておられるがでしょう。僕も郷里の小学校で臨時教員をしておったことがありますが、子供は実に面白いものでしたな。あの時分は採集道具にブリキ箱を携えておって、それが歩くたびガチャガチャと鳴るもんで陰で轡虫(クツワムシ)と綽名(あだな)しておったようです。まったく、子供の着想にはかないません」
明治10年のことで、富太郎はまだ16歳だった。
「中学生も同じですよ。教えながら、思いも寄らぬことに気づかされます」
「公孫樹の精虫の発見についても、生徒らは聞きたがるでしょう」
すると平瀬の頬が平たくなり、面持ちが改まった。
「その話はしません」
生真面目な低い声だ。「それはもったいない」と、富太郎は首を傾げる。
「ああも臭い実から種子を取って、仁(さね)を剃刀(かみそり)でスライスし続けたじゃありませんか。生徒らはその過程を聞きたがると思いますがなあ。顕微鏡の中で精虫が蠢くのを初めて目にした件(くだり)など、胸を躍らせて聴き入るは必定ですぞ」
「確かに、君なら大演説を打つだろうな」
池野が揶揄するように言い、「君の講演は全国の植物愛好家に大人気だそうじゃないか」と話柄をこなたに向ける。平瀬はついと片眉を上げた。
「講釈師になれますな」
平瀬君はこうだったと、膝が弾みそうになる。謹厳でありながら、ふとした拍子に可笑しいことをシャボン玉のように吐く。
「なら、今度大学を馘(くび)になったら講釈師にでもなりますかな。いや、実際、植物の講演で全国を巡業しとるようなもんですよ。去年は東京植物同好会なる会も創立され、会長を引き受けさせられました」
富太郎は今年の一月から東京帝国大学理科大学講師を拝命し、大学に復帰を果たした。
ぐつぐつと煮える鍋の中を覗き、箸でつつく。水気が出てか眼鏡が曇ってしかたがない。
「池野君、豆腐しか喰っておらんじゃないか。豆腐がそうも好きだとは知らんかった」
「僕も牛肉が好きだが、君の箸の素早さに負けるのだ」
池野は眉を八の字に下げている。
「それはすまんことをした。僕は育ちがいいものでね」と笑いながら、女中を呼んで牛肉の追加を頼んだ。俸給30円の大学講師にとっては大盤振る舞いだが、今日は他ならぬ二人を祝したい。
「君はまったく健啖家だよ。夜も寝ずに著述をして日中は採集に講演会、それに大学の講義だろう?」
「講義や実習は担当しておらんが、学生らには好きなことを喋りゆう」
大学には腹に据えかねることが多いが、学生と接する時間は愉快だ。彼らの前に立つと、己の持つ知識、経験をすべて捧げたくなる。学生らもまたよく懐いてくる。時には自室で珈琲を振る舞い、植物談義に興じる日もある。やがて夕焼けの赤い陽で窓が染まっても喋り続ける。すると若者の瞳が独特の澄んだ光を帯びて輝く瞬間がある。若草の匂いがする。
「それで、子供もわんさか作る。今、何人だ。しじゅう君の家を訪ねてはいるが、数え上げるのはもう何年も前に放棄した」
「今は七人ある」
そう言うと、平瀬が目を丸くした。
「牧野君も偉いが、奥方も偉いですな」
「さようです」と、富太郎は謙遜などしない。本当は8人だったのだが、今年の2月に生まれた六男の富世があの世へ帰った。乳児脚気と穿孔性中耳炎を患っての死で、この世にいたのは3ヵ月に満たなかった。
「うちの細君は大した女ですよ。出産してまだ3日目という日に起きて、債権者の家まで足を運ぶんだなあ。相手先はいずこであったか、一日がかりの遠方でね。まあ、債権者に頭を下げて向こうがうんといえども差し押さえを待ってくれるだけのことで、借金が消えるわけじゃないが」「今、いくらあるのだ」と、池野が女中から新しい牛肉の皿を受け取った。富太郎は菜箸を持ち直し、鉄鍋にさっそく放り込む。「わからん」と答えた。「二万円くらいにはなっておるかもしれんなあ」
「まったく、君という奴は。禄が30円の男が2万円の借金とは只事ではないぞ。笑いながら言うんじゃない」
その通りだが、嘆いて借金が減るわけでもない。齡51、子供が7人あって、いちばん上の香代はもう21歳だ。何年か前からポツポツと縁談が舞い込んでいるようだが、父親が素浪人の大貧乏では進む話も進まず、壽衛はかなり気を揉んでいたらしい。富太郎がようやく大学に戻り、壽衛が「さあ」と前のめりになったその矢先に天皇の御不例、崩御があり、帝都はしばらく喪に服した。
しかしやがて「大正」を屋号に用いた店が町に溢れるようになり、庶民の間では喪章が流行した。葬儀の行なわれた青山練兵場に向かう葬列のさまを目にして、真似をする者が続出したのだ。小学生になった春世と百世、勝世までが揃って上着の袖に黒布を巻いており、驚いて壽衛に訊ねると「駄菓子屋さんで売っているのですよ。子供向けに。あまりに欲しがって家のお手伝いをするので、根負けしてしまいました」と苦笑した。子供はとかく大人の真似をしたがるものだが、喪章も颯爽と勇ましい姿に映ったのだろうか。
「僕のことはもう、いい。二人の祝いじゃないか。それにしても、今頃、思い出したように学士院恩賜賞を授賞とは、日本は相変わらず遅いね」
欧米の学界を驚嘆させた世界的発見からほぼ15年を経て、ようやく日本でも正式に功績が認 められた恰好なのだ。
「無茶を言うな。賞の創設が去年だぞ。我々は第二回の受賞者だ」
「それは知っとるよ。知っているが、僕はあえて言うのだ。日本人は欧米の学者を闇雲に崇拝するが、いや、この僕もその傾向があるのは認めるが、我が国の先達の偉業も常に忘れておらん。ゆえに旧幕時代の大本草学者、飯沼慾斎先生の『草木図説』を復刻している」
と口にして、思い出した。平瀬への土産のつもりで、『増訂草木図説』の一輯と二輯を用意してあったのだ。すっかり忘れ、とりあえず蝦蟇口を懐に突っ込んで家を飛び出してきた。
「日本人は日本人を不当に低う評価する。同胞の功績には冷淡が過ぎる」
理学博士である池野が此度の賞を受けるのは当然とも言えるが、学士の学位を持たぬ平瀬の受賞は異例中の異例だとされている。実際、当初は平瀬への授賞は予定もされていなかったらしいと耳にした。だがそれを知った池野が「平瀬がもらわないのなら私もお断りする」と突っぱねたらしい。
二人を順に見たが、池野も平瀬も何も言わない。ならば手前が代弁しようと、富太郎は赤玉を注いでぐいと呷(あお)った。
「僕も突っぱねたかったよ。今さら講師の口など要らん、一家が路頭に迷おうとも己一人で研究を続けてみせると言い放って席を立ちたかった。だが、大学の持つ書物を照覧できぬのは辛い。まったく、これほどの痛手は他にないゆえ、折りとうもない我をまたも折った」
己の言葉に昂(たかぶ)ってくる。今も松村教授とは剣呑なままで、廊下ですれ違っても冷たい一瞥を投げられるだけだ。捨てても捨てても帰ってくる犬を見るような目つきだ。
「学問の下では、皆、平等のはずだろう。しかし学位を持たぬ僕は、大学では学者ですらない。まったく、裸にすれば、学者ほどもののわからぬ者はないね。ふだん大きな顔をしておってもいざとなれば陰で妬み嫉み、表で綺麗な弁を述べても心は実に小さい。いや、池野君、あんたは立派な博士だが、あえて言わせてもらう。植物標本を大学に納めぬから私していると非難にかかるが、そっちこそじゃないかと僕は言いたい。目下の者を顎でこき使うて、あれを調べろこれを調べろ、間違うな、論拠を示せ、標本を出せ。学者こそ泥棒だ」
池野はうん、うんとうなずきながら焦げた豆腐を喰い、平瀬は黙って赤玉を呑む。
二人は高潔だ。近代日本の紳士と野武士だ。世俗まみれ借金まみれの凡人が酔っていかに憤慨しようが、決して尻馬には乗ってこない。ゆえにこの二人が相手なら吐き出すことができる。
「なにゆえ、こうも安う扱われる。いつまでも、なんで」
卓を叩いて息まきながら傷口の深さを知った。誰かに疎まれ、鼻紙のごとく扱われるのは、かくも苦しい。しかしそれでも大学にしがみついておらねば生きてゆけぬ。
また卓を叩けば皿が動き、胡坐から突き出した股引の上に箸が落ちた。
平瀬が「私は在野で気楽です」と、白滝を啜った。
「また研究も始めるつもりです」
「ほう。何の研究ですか」と箸を拾いながら顎を上げれば、「マツバランの発生順序らしい」と池野が代わりに答えた。
「紀州に怪物のような男がいる。南方熊楠といってな。なんでも18ヵ国語を操るらしい。ほら、神社の合祀に反対して大運動を起こして、衆議院でも議員が質問に立ったことがあっただろう。民俗学者の柳田國男が南方の考えに共鳴して運動に参加し、各方面に南方の書簡を印刷して配布した」
「僕のところにも届いたよ」
柳田國男は亡くなった矢田部とは縁続きにある。矢田部の没後に妻の末妹と結婚、柳田家の養子に入った。
「平瀬君は、その南方と共同研究するんだそうだ」
そうかと、胡坐を組み直した。
「南方も知っとるよ。以前、僕に同定を頼んできたことがある。和名はキノクニスゲなる植物だ。調べたところ、学名がまだなかった。つまり新種として発表できると踏んだが、あいにく松村教授の採集が先だった」
ゆえにスゲの学名に入ったのは松村の名であり、Minakataは入らなかった。富太郎は「だが」と続けた。
「不思議な男でなあ。『ネイチャー』に論文が掲載されるほどの男がなにゆえわざわざ他人を介して依頼してきたのか。堂々と自身が送ってくりゃいいものを」標本を送ってきた後も手紙を何度かよこし、やはり途方もなく文章が緻密だ。論旨は放埒ともいえる展開を見せ、波紋のごとく果てがない。しかも文章の合間にゆらゆらとキノクニスゲやモミラン、ヤシャビシャクの図が挿入されていたりする。
「変わり者らしいからな。倫敦(ロンドン)を素裸で歩いたとか、今も下半身をむき出して暮らしておるとか、奇行が多いらしい」と池野は言い、平瀬はそれを否定もせず鍋に白滝を放り込む。 ややあって口を開いた。
「南方さんの住居(すまい)にマツバランを植えて、実地検証してもらうんです。私は毎年京都から田辺に出向いて南方さんの報告を受け、生本を京都に持ち帰って解剖検鏡する。まあ、そういう取り決めをしましてね。発生順序の調査研究ですから、なにしろ時がかかります。10年、あるいはそれ以上かかりましょう」
「ということは、資金もかかる」と池野が言えば、平瀬は茶目な目をした。
「恩賜賞の賞金がありますから。賞金が元手です」
「なるほど。最高の使い途じゃないか。いや、平瀬君と南方君なら、また歴史的大発見になること間違いない」
鍋に箸を伸ばしたが、牛肉が残っていない。
なんでじゃろう。この二人と会うと愉しゅうて堪らぬのに、結句は気分が落ち込む羽目になる。なぜだ。
(つづく)


ドラマの中だけではなく、牧野富太郎先生は、池野成一郎(ドラマの波多野泰のモデル)と平瀬作五郎(ドラマの野宮朔太郎のモデル)とは仲が良かったのですね。
やはり、牧野富太郎先生は、人に愛される何かを持っていたのでしょう。

ただ、富太郎は、気を許した仲の二人を前にして、赤玉ポートワインの酔いも手伝って、つい愚痴をこぼしてしまう。

 

私も、大学に残って研究者として進む道は選ばず、一般臨床に進み、開業しました。
地域の子どもたちと周りの家族の健康を守る仕事は、十分にやりがいがあるのですが、ふと偉くなっていった同級生を眩しく思ってしまうことがあります。

富太郎の気持ち、よく分かります。


獅子風蓮