朝井まかて『ボタニカ』 その3
NHKの朝ドラ「らんまん」、良かったですね。
私の中では、「らんまん」ロスがまだ治っていません。
さて、アメブロでも書きましたが、ドラマの主人公・槙野万太郎は、モデルである牧野富太郎とは少し違っていたようです。
牧野富太郎と槙野万太郎(2023-09-28)
朝井まかて『ボタニカ』という本があります。
『ボタニカ』
日本植物学の父・牧野富太郎愛すべき天才の情熱と波乱の生涯。明治初期の土佐・佐川の山中に、草花に話しかける少年がいた。名は牧野富太郎。小学校中退ながらも独学で植物研究に没頭した富太郎は、「日本人の手で、日本の植物相を明らかにする」ことを志し、上京。東京大学理学部植物学教室に出入りを許されて、新種の発見、研究雑誌の刊行など目覚ましい成果を上げるも、突如として大学を出入り禁止に。私財を惜しみなく注ぎ込んで研究を継続するが、気がつけば莫大な借金に身動きが取れなくなっていた…。貧苦にめげず、恋女房を支えに、不屈の魂で知の種を究め続けた稀代の植物学者を描く、感動の長編小説。
私の敬愛する牧野富太郎先生をモデルにした小説です。
朝井まかて『ボタニカ』の文章を一部引用して、記憶に残しておこうと思います。
今回はその続きです。
興味のある方は、是非書籍を実際に読んでみてください。
とても面白いです。
朝井まかて『ボタニカ』(祥伝社、2022.01)
□1)岸屋の坊(ぼん)
□2)草分け
□3)自由
□4)冬の庭園
□5)ファミリー
□6)彷徨
□7)書(ふみ)読め吾子(わがこ)
□8)帝国大学
■9)草の家
□10)大借金
□11)奇人変人
□12)恋女房
□13)ボタニカ
9)草の家
(つづき)
翌4月半ば、学長に呼ばれた。「植物取調」の仕事を嘱託で引き受けぬかとの打診だ。『大日本植物志』が完成していない以上、机上の学問では新種の同定も危うい。野山を踏査し、植物の実際を知悉した者がおらねば、研究は停滞する。
矢田部教授に教室への出入りを禁じられた時と同じ経緯だ。教授に疎まれて遠ざけられるも、「牧野がおらんと不便だ」と周囲から声が上がり、大学の上層部に掛け合う。そして呼び戻される。まったくもって胸糞が悪いが学長からの声がかりだ。富太郎自身、教室の膨大な文献資料がなければ植物分類学者としては苦しい。生活苦もある。ならぬ堪忍をして、嘱託を引き受けた。
ある日のこと、大きな包みが自宅に届いた。和歌山田辺在住の宇井縫蔵という生物研究者からだ。
和歌山は牧野家の遠祖の地である。昔、祖母様に見せられた系図によると、先祖は文禄か慶長の頃に紀州の貴志ノ荘から土佐に入ったらしい。当時の姓は鈴木、岸屋という屋号は在所の貴志にちなんだものだという。ゆえに紀州人からの音信は心なしか慕わしい。
中を開ければ大量の標本が入っていた。だが標本の送り主は宇井縫蔵ではなく、田辺在住の南方熊楠という人物だ。首を傾げながら宇井の添え文に目を通せば、熊楠は富太郎の5歳下、幼い頃より『本草綱目』や『大倭本草』に親しみ、長じて東京大学予備門に入ったものの単身亜米利加に渡るべく日本を出たのが明治19年だという。その地でコンラード・ゲスネルの伝記を読み、熊楠は「日本のゲスネルとならん」と決意したらしい。ゲスネルは瑞西(スイス)の博物学者で、隠花植物の研究家だ。物理学にも通じた博覧強記、多才な人物であることは富太郎も知っている。この男、日本のゲスネルとは、大きく出よったの。
富太郎はクスリと笑い、さらに読み進めれば、明治22年には富太郎のかかわっている 『植物学雑誌』と『日本植物志図篇』を日本から取り寄せて読み、欽仰(きんぎょう)の念を抱いたという。
ほうと、富太郎はますます気をよくし、「より、世界のマキノ」と己に大向こうをかける。
熊楠はやがて新種の緑藻であるピトフォラ・ヴァウシェリオイデスを発見。科学雑誌『ネイチャー』に発表した。さらに玖馬(キューバ)でも新種の地衣類を発見、英吉利(イギリス)に渡って大英博物館の収蔵品を見学するや世界の民俗学、博物学に目を開き、明治26年には『ネイチャー』に「東洋の星座」なる論文を寄稿、大きな反響を呼んだ。
富太郎はもう笑っていなかった。動悸がして、呼吸までが浅くなっている。
とんでもない男がおったもんじゃ。しかも在野に。
熊楠は帰国後、和歌山の那智勝浦で採集に気を入れ、田辺に移り住んだ今も採集に明け暮れているらしい。そのうちの標本がこの荷包みで、富太郎に同定を依頼してきたのだ。熊楠本人からの手紙の封を切れば、6枚もの洋紙の罫紙である。
「なんじゃ、これは」
眼を剥いた。びっしりと細かい字が延々と並んでいる。富太郎も松村に「牛の涎のようだ」と眉を顰められたが、涎どころではない。
顕微鏡の中で蠢く菌のようだ。
(つづく)
牧野富太郎先生は、かの有名な南方熊楠も交流があったのですね。
興味深いです。
獅子風蓮