「拡張の根拠となる将来の需要予測が過大に設定され合理性を欠く」
最高裁まで争い、今年3月に静岡県に対して下された伊東市内の幅員17メートルの拡張計画に対する違法判断の理由である。
県は昨日までに計画を変更し17メートルを11メートルに変更告示した。
税金を投じて最高裁まで争ったが敗訴。
しかも、杜撰な根拠で違法との認定だ。
にもかかわらず、誰一人責任を取らない。
行政が計画したにもかかわらず。
これが行政の本質である。
理論的には政治、すなわち議会が判断したことで責任は議会にありそれは選挙で審判を受けるべきもの。行政はあくまでその政治の判断に基づき執行するだけの機関であるとして実質無責任がまかり通るのだ。
結局犠牲になるのは国民であり県民であるが、建て前というか理論上は選挙民の責任に帰するという主張の前に泣き寝入りである。
県議会が始まったが、そのほとんどは陳情型の質問に終始している。
実質の政策決定権が役人の側にあることを承知し、承認しているからだろう。
これでは、無答責の上に安心感を持って無駄遣いを行える役人天国の構図は終わらない。
国政の場では政治主導が芽を出しては消えつつも、しぶとく生き残っている。リスクと困難を承知で公務員改革を唱える信念の政治家たちによって。
一方県政では、・・・残念ながら皆無である。希望はない。
最高裁まで争い、今年3月に静岡県に対して下された伊東市内の幅員17メートルの拡張計画に対する違法判断の理由である。
県は昨日までに計画を変更し17メートルを11メートルに変更告示した。
税金を投じて最高裁まで争ったが敗訴。
しかも、杜撰な根拠で違法との認定だ。
にもかかわらず、誰一人責任を取らない。
行政が計画したにもかかわらず。
これが行政の本質である。
理論的には政治、すなわち議会が判断したことで責任は議会にありそれは選挙で審判を受けるべきもの。行政はあくまでその政治の判断に基づき執行するだけの機関であるとして実質無責任がまかり通るのだ。
結局犠牲になるのは国民であり県民であるが、建て前というか理論上は選挙民の責任に帰するという主張の前に泣き寝入りである。
県議会が始まったが、そのほとんどは陳情型の質問に終始している。
実質の政策決定権が役人の側にあることを承知し、承認しているからだろう。
これでは、無答責の上に安心感を持って無駄遣いを行える役人天国の構図は終わらない。
国政の場では政治主導が芽を出しては消えつつも、しぶとく生き残っている。リスクと困難を承知で公務員改革を唱える信念の政治家たちによって。
一方県政では、・・・残念ながら皆無である。希望はない。