空港の立木問題で滑走路短縮に伴い2500m用に設置した灯火などの変更工事費が1億円もかかるという。
おそらく職員の過失を認めないまま税金投入で済まそうとしているのだろう。
もちろん今の時点では縮小案・開港時期遅延も正式決定ではなく世論の動向をみるための観測情報段階でありどうひっくり返るかはわからない。静観が基本だ。
ただ、法理論的に職員のミスを認めれば県は収用処分等の専決権を持った職員に賠償を求める必要があることは
「県職員のミスで生じた損失は県民負担?」
http://navy.ap.teacup.com/hikaritoyami/27.html
にも示した判例からも明らか。だから失敗は認めたくはないのだろう。
とはいっても、過失は収用のミスというだけではない。
1年以上も前に立木が障害となる事実を認知しながら漫然と2500m滑走路3月開港で整備を進めてきたことも重大な過失であろう。
変更可能なように決断のタイミングを計るべきが常識だ。
これは危機管理以前の組織としての能力・体質の問題ともいえる。
『合理性を欠くわが国民性は、やることなすことが行き当りばったりで、相互の間に理屈が合わない。セクショナリズムの国民性は、ものをみる視野が狭く、やることが独善的である。因襲から容易に抜け切れない国民性は、気が付いても、直ちに180度転換の進歩的革新を行うことができない。熱しやすく冷めやすい国民性は、すぐ思い上がって相手を見下げる。かと思うと自主邁進の気迫に乏しい日和見的な国民性は、他力本願になりやすく、卑屈な事大主義ともなる。合理性を欠くために希望と現実を混同して、漫然とことに臨み、敗れて後はじめて名論卓説を述べる』
これはネットでもよく引用される淵田美津雄著「ミッドウェー」の有名な国民性評価だが、県組織にあっても同様だ。
問題を認識した時点で合理的に考えればなすべきことは整理可能だ。
それがもっとも重要な戦略構築であり、個々の交渉術である戦術に希望を託すだけでは無能といわれても仕方あるまい。まったく合理性がない。
静岡県のレベルはしょせん
『県庁を変えた「新公共経営」』で宣伝中の職員改善提案もどきを改革といっている程度のものでしかない。
「真実を見る目を」
http://navy.ap.teacup.com/hikaritoyami/115.html
無責任と欺瞞と自己満足の矮小化した世界にどっぷり浸ってきたつけが回ってきたのだ。
もちろん、このつけを無過失の地権者・県民が負担すべき合理性は何一つない。
だったら、誰が責任を負うのか。説明責任を果たしてもらいたい。
おそらく職員の過失を認めないまま税金投入で済まそうとしているのだろう。
もちろん今の時点では縮小案・開港時期遅延も正式決定ではなく世論の動向をみるための観測情報段階でありどうひっくり返るかはわからない。静観が基本だ。
ただ、法理論的に職員のミスを認めれば県は収用処分等の専決権を持った職員に賠償を求める必要があることは
「県職員のミスで生じた損失は県民負担?」
http://navy.ap.teacup.com/hikaritoyami/27.html
にも示した判例からも明らか。だから失敗は認めたくはないのだろう。
とはいっても、過失は収用のミスというだけではない。
1年以上も前に立木が障害となる事実を認知しながら漫然と2500m滑走路3月開港で整備を進めてきたことも重大な過失であろう。
変更可能なように決断のタイミングを計るべきが常識だ。
これは危機管理以前の組織としての能力・体質の問題ともいえる。
『合理性を欠くわが国民性は、やることなすことが行き当りばったりで、相互の間に理屈が合わない。セクショナリズムの国民性は、ものをみる視野が狭く、やることが独善的である。因襲から容易に抜け切れない国民性は、気が付いても、直ちに180度転換の進歩的革新を行うことができない。熱しやすく冷めやすい国民性は、すぐ思い上がって相手を見下げる。かと思うと自主邁進の気迫に乏しい日和見的な国民性は、他力本願になりやすく、卑屈な事大主義ともなる。合理性を欠くために希望と現実を混同して、漫然とことに臨み、敗れて後はじめて名論卓説を述べる』
これはネットでもよく引用される淵田美津雄著「ミッドウェー」の有名な国民性評価だが、県組織にあっても同様だ。
問題を認識した時点で合理的に考えればなすべきことは整理可能だ。
それがもっとも重要な戦略構築であり、個々の交渉術である戦術に希望を託すだけでは無能といわれても仕方あるまい。まったく合理性がない。
静岡県のレベルはしょせん
『県庁を変えた「新公共経営」』で宣伝中の職員改善提案もどきを改革といっている程度のものでしかない。
「真実を見る目を」
http://navy.ap.teacup.com/hikaritoyami/115.html
無責任と欺瞞と自己満足の矮小化した世界にどっぷり浸ってきたつけが回ってきたのだ。
もちろん、このつけを無過失の地権者・県民が負担すべき合理性は何一つない。
だったら、誰が責任を負うのか。説明責任を果たしてもらいたい。