北陸の旅に戻ります。
七尾の内浦から外浦輪島市に入る、能登半島北岸奥能登の拠点として栄え、輪島塗で全国的に知られている。
市名は、古代の大陸人が「倭島」と呼称していた。古墳時代から奈良時代のかけて文化が伝わり「平 時忠」の能登配流によって畿内文化が、源氏の家人
「長谷川信連」により関東文化が入っていた。中世に入り大屋荘の地で、大屋湊(輪島港)が中心地。現在は、国際観光都市として伸びている。
輪島塗伝統的工芸品の職人業は、日本一の座を譲らない、もう一つ「市」の歴史は古い奈良時代までさかのぼる、4・9の市日には出店数と人出
も多い。
今日は残念ながら休日で一店も出ていなかった。朝市観光施設「海の駅」六銘館で駐車。
輪島の市内 観光案内所とショッピングセンター
輪島は、漁業も盛ん、暖流と寒流が交わる沖合の天然礁の好漁場により1年を通じ豊富な魚介類の水揚げに恵まれ、輪島港の水揚げ高は県内一となっている。
輪島港は冬場にはズワイガニの水揚げ量も県内一であり、さらにこのズワイガニの水揚げ量は日本海側の港の中でも有数のものとなっていて冬期の貴重な
観光資源ともなっており、このために遠く関東、関西からも観光客が訪れている。輪島の海女は、日本海のアワビやサザエ、海藻などを伝統的な素潜りの
形態でとる漁で、漁獲も多い。
市内の「馬場崎通り」 商店が点在している
平家一門のうち、「平家にあらずんば人にあらず」と奢った言葉を述べた事で知られる武将・平大納言時忠は、平安時代後期の1127年に平時信の子として
京都に生まれ、姉の時子は、平清盛の妻。妹の滋子は後白河天皇の后となり、建春門院と称し後の高倉天皇を生む。
時忠は、平清盛亡き後、平清盛の妻の弟だったことから、平家一族の纏め役として実質上の頭領、壇ノ浦の戦いで平家一族が敗れ海の藻屑と消え去った際、
時忠は生きて捕らえられ、三種神器の神鏡を義経に奉じ、また娘(蕨姫)を義経に献じて身の安全を図り、それで、助命されることになる。
平時忠が流罪になったのは、1185年で、配流地は奥能登の現在の珠洲市大谷の地、時忠は、小舟に乗って、須々(珠洲)の浦の船着き場、その約40日後に
頼朝は、義経追討の院宣を得るのであり、大谷の地に妻を含む一行と訪れたことになっている、
時忠のあとを継いだ時忠の子、時国は平家の子孫ということもあり、牛尾という山の中にしばらく身を潜めていたが、頼朝は義経追捕に躍起で時忠の子孫に
感心がないようであった。時国は、館を構えたといわれ。町野川下流地域に勢力を伸長し、代々の当主の努力によって土豪となり、近隣の村々を統治したとある。
馬場崎通り突き当りが 朝市通りになる、残念ながら本日定休日
中世の輪島周辺は、「大屋荘」と呼ばれ、現在の輪島市の河原田川流域から穴水町、能登町の一部を含む広大な荘園であった。
鎌倉時代は、鳳至郡の東保(南志見村を含む)、西保と鹿島郡の穴水保から構成されていたが、のちには「大屋庄十箇村」と言われ、三井保、穴水村、山田村、
光浦、深見浦、鳳至院、西保、東保、南志見村などが含められていた。当時の地名が、およそ800年後の現代にまで受け継がれていることがわかる。
「重蔵神社」は、祭神、天之冬衣命 大國主命、配祀、天忍穗耳命 天津日子根命 天之菩卑能命 活津日子根命 熊野久須毘命 多紀理姫命 市杵嶋姫命 田寸津姫命
表筒男命 中筒男命 底筒男命 建御名方神 豊受大神 事代主命 大山咋神を祀る。能登半島の輪島市内と輪島港の近く、河井町に鎮座している。
輪島市の中心を流れる川の河口部から東になる、249号線に面して境内は南向き。鳥居をくぐると、駐車場になっており、石橋の奥が境内。大きくはないが歴史を感じる。
朝市通りにある輪島の鎮守、重蔵神社 朝の参拝を
「要石」のある神社として有名で,社号「重蔵」は、本来は、「へくら」と読むという説があり、輪島の沖に浮かぶ、舳倉島の神を祀ったということらしい。
創祀年代は不詳だが、古社には間違いない。
756年、泰澄により寺院が建立され、以後、神仏習合の社として、十蔵権現あるいは重蔵宮と称され、七堂伽藍の立ち並ぶ、壮大な境内であったという。
神社の裏手は輪島の外浦海岸 荒磯自然遊歩道
「曹洞宗大本山・総持寺祖院」は、約700年前栄山禅師が開創、後醍醐天皇の勅願所として「曹洞賜紫出世第一の道場と定めている。全国末寺1600余りに至っている。
明治31年災禍により、七堂伽藍が全焼している。これを機に布教伝導の中心を神奈川鶴見に移している。
境内は、山内約2万坪に焼失を免れた電燈院、慈雲閣、経堂と七堂も建立された。
総持寺祖院総門 拝観受付(有料)
「山門」境内中央誇る、総欅造りたかさ17.4m・間口20m・奥行14.4mで、楼上に観音、五百羅漢の古仏を祀っている。畳一枚ほどの「諸嶽山」の扁額は、
「前田利為」公の筆によるもの。
「経堂」は、加賀六代藩主「前田吉徳」公より寄贈された建物。1743年、県重要文化財。文化財は、狩野派初期の「四季花鳥」などある。
経堂 山門
「法堂」正面に開祖栄山禅師、道元禅師を祀っている。栄山禅師の一代記を山形県の名工が親子二代で彫刻している。
「伝燈院」は、貴重な建物、1693年に復元された建築物。
「仏殿」1912年再建、間口20m・奥行16mで正面にご本尊、達磨大師など、工事中であった。加賀の画家岸駒作、花鳥の額。
「香積台」正面に、韋駄天尊安置・僧堂などがある。
仏殿から法堂へ 渡り廊下で
「古和秀水」は、總持寺祖院の門前町を流れる鬼屋川の5km上流の深い森林に包まれた丘陵の中に日量約90tリットルの湧水が湧いている。
これは、開祖瑩山紹瑾が竜神の神託により霊水が出ることを教えられたとの伝説が伝わっている。
この由来により、寺及び住民では、この水を仏前の献茶・献湯の聖水として尊び使用されている。
子供には清水大人には酒になったため瑩山が「コワシュウド」と命名したとの伝説がある。
見事な彫刻 仏様と位牌
しゃもじ、己が身は、水をも火をもいといなくすくい上げぐるぞ御佛の慈悲、すりこぎ、己が身を、すり減らしてぞ人の為世の為つくす御佛の慈悲と書かれ、
そこに大きな実物のしゃもじとすりこぎあった。禅宗の厳しさの中の美しさ、境内をめぐって山水古木の樹影の情趣に浸れた。
境内の中央に小川が 法堂の改築工事中 不動明王像
「松尾神社と松尾寺」は、能登の志賀町にある木造の松尾神社本殿は国指定文化財に指定されている。茅葺の拝殿は石川県の重要文化財建造物に指定。
松尾神社は室町時代末期に建立。松尾神社に隣接して松尾寺は、高野山真言宗のお寺で北陸不動36礼所の3番目のお寺。
松尾神社鳥居 松尾寺
神社の創建は、834年に山城国にある松尾大社の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。古くから3村(町居村、草木村、日下田村)の惣社として
信仰されてきた。
本殿は室町時代後期の1559年頃に建立されたと推定される建物で、一間社流造、板葺、1704年に改修工事が行われているものの細部の組物や彫刻などが
建立当時の姿を留め、能登地方に残る数少ない中世神社本殿建築の遺構として国指定重要文化財に指定。
茅葺屋根の拝殿
「松尾寺」は、神社の別当寺,石川県指定文化財の銅造懸仏などがある。創建年代は、834年と云われている古寺。
歴史を感じる寺 境内
七尾市から輪島市、能登半島の中央志賀町まで来た。この町、かっては繊維工業で栄え、今は、電気機械製造が盛んな地域。北陸電力の志賀原子力発電所がある。
かほく市から金沢へ
次回は、如成寺、気多大社方面に向かう。