syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

羽昨市妙成寺から森山古戦場

2012-08-29 | 気まま旅

輪島―金沢の中間、「羽昨市」へ。市の「羽咋」の地名の由来は、垂仁天皇の皇子磐衝別命がこの辺の領民を苦しめていた怪鳥を退治し、
このとき皇子の連れてきた3匹の犬が怪鳥の羽を食い破ったという伝説がもととなっているとされる。山の「妙成寺」を参拝した。

寺伝、1294年、「日像」は、師命により京都に妙法を布教するため佐渡から七尾へ渡る船中、石動山天平寺の座首満蔵法印「乗微」と法輪を交わし、
満蔵法師は法華経に感銘を受け、石動山に日像を招き、全山の衆徒の前で法華の教えを説いた。
ところが、衆徒は日像の説法に罵言を吐き、暴徒化し二人を襲った。二人は急いで下山し、命からがら滝谷へと逃げ延びた。
日像は鎌倉より携えていた槐の杖を地面に挿し、「この杖より根が生ずるなら、汝この地に法華経の寺を建立すべし」と満蔵法印に言い残して京都に向かった。
まもなく杖より根が生え始めたので、満蔵法印は日乗と名を改め、叔父の滝谷領主柴原法光の助力を得、開山を日像、自らを第二祖として
「妙成寺」を建立した。

1582年、能登国の太守となった前田利家から寺領の寄進を受け、1603年、利家の側室寿福院(三代藩主前田利常の母)の帰依を受け、その菩提寺になるなど
加賀藩前田家から厚い庇護を受け、隆盛を極めた。その後、七堂伽藍が完成し、1631年には、加賀藩3カ国の日蓮宗の総録所(触頭)となった。

山号金栄山  前田家御用大工 坂上親子三代の寺  妙成寺 (重要文化財)
    


重要文化財(建造物)
本堂は、1614年建立。入母屋造、杮葺。棟梁は前田家御用大工「坂上又三郎」。 五重塔 1618年建立、方三間、栩(とち)葺。
祖師堂 1624年建立、安土桃山時代頃の建築と思われる。 経堂 1670年建立。 書院 1659年建立。 鐘楼 1625年建立と伝える、入母屋造。
三光堂 1623年建立と伝える。方五間、単層入母屋造、杮葺。 三十番神堂  1614年建立。三間社流造、杮葺。
二王門 1625年建立。三間一戸楼門、二階建入母屋造、棧瓦葺。
庫裡  1593建立と伝える。桁行九間、梁間五間、一重正面切妻造、杮葺(棧瓦葺だったものを復元)。妙成寺最古の建造物。


浄行堂                   鐘楼               五重塔   
    

重要文化財〈美術工芸品) 山水蒔絵机。 山水蒔絵料紙箱。拝観料¥500、

書院・客殿・祖師堂                             本殿
  


能登国の領主となった前田利家から庇護され、1582年には寺領13俵を寄進、その後も加賀藩3代藩主前田利常が86石、4代光高が34石と加増したことで
寺領121石となり大名に準じる格式を得て寺運が隆盛した。
特に3代藩主利常は生母である寿福院が日蓮宗の宗徒だったこともあり、1618年に五重塔と番神堂を建立し、寿福院が死去するとその菩提寺として定め三光堂、
祖師堂、二王門、鐘楼などが造営された。その後も前田家から庇護され、1631年には加賀藩3カ国(越中・能登・加賀)の日蓮宗の総録所(触頭)となり
境内には七堂伽藍が建ち並ぶ大寺に。

三光堂                                                  彫刻と五重塔
    

「加賀騒動」とは、茶坊主大槻伝蔵は、藩の財政改革のため、倹約令と新税の制定、米相場投機の改革などに尽力した重臣。
確かにこれにより、加賀藩の財政は完全とまではいかないがある程度は持ち直した。しかし、この功績によって伝蔵はいよいよ吉徳の寵愛を受けるようになり、
ほぼ毎年にわたって吉徳から加増を受けるようになる。しかしそれも1745年、吉徳が病死するまでであった。
伝蔵はいわゆる成り上がり者であったため、藩内の保守派や門閥層が伝蔵の出世に嫉妬。さらには厳しい倹約令によってそれまであった既得権を奪われるなど、
保守派にとってはマイナス面が多かったことから、伝蔵は彼らに憎まれていた。

そして1746年、保守派の讒訴によって越中国の五箇山に配流となる。
ところが1748年、突如としてある風聞が加賀藩に流れ出す。吉徳には愛妾・真如院との間に前田利和という息子がいたが、真如院が伝蔵と不義密通して
産んだ子で、実は吉徳の子ではない。そして、伝蔵と真如院が利和を密かに藩主に擁立しようとしている、というものである。
このため、伝蔵は自殺して果て、真如院らも厳しい処罰を受けることとなったのである。この一連の騒動は加賀騒動と呼ばれ、1754年まで続く。

前田家と大槻家のゆかりの墓
    

「国弊大社気多神社」は、社伝、大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされる。
崇神天皇のときに社殿が造営され、奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、「万葉集」に越中国司として赴任した大伴家持が
参詣したときの歌が載っている。「延喜式神名帳」では名神大社に列し、能登国一宮とされ、畠山氏・前田氏など歴代の領主からも手厚い保護を受けた。

能登国一宮 気多神社鳥居        境内         神水
    

祭神は、一柱の 大己貴命。

楼門                                    拝殿
    


重要文化財(国指定) 神門、 近世初頭(社伝によれば1584年の建立。切妻造、四脚門。檜皮葺き(以下の社殿もすべて檜皮葺きである)。
拝殿、1653年・1654年、大工・山上善右衛門の作とされる。入母屋造妻入。神門と同時に指定。
本殿、1787年の建立で、三間社(桁行3間、梁行4間)で、類例の少ない両流造である。
摂社白山神社本殿、1787年の建立。三間社で、通常の流造である。
摂社若宮神社本殿、1569年の建立で事代主命が祀られる。一間社流造り。

天然記念物(国指定) 「入らずの森」としての神域で、立ち入りが禁止され奥宮が安置されている。3ヘクタールの広さ中にたぶの木
はじめ、ツバキ、シイ、クスノキ、カラタチなどの常緑広葉樹が密生し、樹齢百年をこえる木が林立している。

末社の「菅原神社」道真公をお祀りしている、

    

「正覚院」は、高野山真言宗、山号 亀鶴蓬菜山、大日如来。寺の創建年代については不詳。気多大社の神宮寺の坊のひとつとして泰澄か開いたと伝えられる。
元は天台宗系の寺院であったが、中世以降真言宗系の寺院となった。
重要文化財は、 木造阿弥陀如来坐像 - 平安時代後期。像高101cm。もと気多神宮寺講堂の本尊。膝前で定印を結ぶ、阿弥陀像である。
県指定有形文化財は、 絹本著色十二天図、 絹本著色真言八祖像、羽咋市指定有形文化財 銅板打出日輪懸仏等がある。

気多神社の神宮寺 正覚院                            本殿
  


「森山城と古戦場跡」
羽咋郡宝達志水町竹生野の国道を挟んでいる。城主は、土肥親真は上杉謙信に協力、謙信没後は織田信長の家臣となる。
1583年に親真が戦死すると、前田利家の重臣・「奥村永福」が入った。1584年、越中の佐々成政は利家の領地・能登と加賀を分断しようと末森城を攻撃。
落城寸前まで追い詰められるが、利家の援軍により窮地を脱する。その後、一国一城令で廃城となった。現在は県指定文化財。

小山の中央に国道が
    


「奥村 永福」1541年 -1624年は、戦国時代の武将、前田氏の家臣。助十郎、助右衛門、別名は家福と云った。
尾張国に生まれ、奥村氏は代々前田氏に仕えた家系で、永福は前田利家の父利春や、兄の利久にも仕えている。
前田家が1569年織田信長の命により、利家が前田家を継ぐことになった際に荒子城代を務めていた永福は、利久の命が無い限り城は明け渡さないと抵抗した。
改めて利久の明け渡しの命により、前田家を辞し浪人する。
1573年に織田家が越前侵攻を開始すると帰参する。柴田勝家の与力である利家の家臣として、朝倉氏攻めなど各地で活躍した。
後に加賀国に利家が入った際には、要衝末森城を与えられる。

主君利家が羽柴秀吉に属した1584年に越中国の佐々成政に1万5千の兵で末森城を攻められるが、二の丸まで落ちたものの、永福は寡兵で利家の援軍到着まで耐えぬき、
成政軍を撃退した(末森城の戦い)。
籠城戦の時、永福の妻である安の方は、薙刀をもって城内を巡回し、粥を振る舞って負傷者を介抱し、城兵を元気づけたといわれる。

国道に歩道橋が                   金沢の玄関口
    

次回は金沢へ、