六日町駅から坂戸山に向かうと、若き日の「直江兼続・お六」と「上杉景勝の妹・桂姫」との想像上恋物語の伝説銅像がある。
二人の関係は景勝も温かく見守っていたと云う。しかし二人の仲を妬む輩が増えてしまい、家中が騒がしくなることを懸念したお六は、一時小姓を辞めて農家に戻る。(兼続16歳の時)
上杉家の名門:直江信綱が急死し、直江家が断絶させないために、お六が直江家を継ぐことになる。直江家の娘、「お船」と婚姻。
兼続への報われぬ恋に傷心の桂姫はこの地より離れ、若くして病死。二人の純愛像と云う。

秀吉が惚れ、家康が恐れた男・戦国末期に越後の国で異才を発揮し、並み居る群雄の耳目を引いた智将、上杉家の忠臣・名宰相として敏腕を振るった
「直江兼続」。
生涯の主 上杉景勝との出会い、直江兼続(樋口与六)は、1560年、越後上田の庄、坂戸城主長尾政景の家臣の樋口惣右衛門兼豊の長男。
坂戸城夫人にして上杉輝虎(後に謙信)の姉・「綾(後の仙桃院)」は、
息子「喜平次(後の景勝)の小姓として登用し、弱冠5歳にして家臣となり、「雲洞庵」にて武芸の鍛錬に励み、武士としての肉体と精神を養う。
上杉景勝と直江兼続像

長尾景勝は、上杉謙信の姉「仙桃院」の子、謙信の甥に当たる。
父は謙信の実家である長尾家の一族長尾政景だが、政景は景勝が10歳にもならないころ変死を遂げ、謙信の懐刀である軍師宇佐美定満と一緒に摂取していたヤクに依存しすぎて心身を消耗した挙句、ある日湖岸にかけられていた小船の上で二人揃って素っ裸のまま死んでいたという。政景と定満が尋常でない死に方をしたのは確かと云う。
父の死によって受けた動揺、悲嘆を他者に悟られまいとし、徹頭徹尾他者との意思疎通を拒み、一人武芸に励み、部屋で書物を読む引きこもり同然の生活を送っていたと云う。
これを憂慮した母の仙桃院が苦楽を共に分かち合え、胸襟を開いて心中を明かしあえる莫逆の友として育成するべく選りすぐりの小姓達を近侍させたのだが、皆景勝の憤怒の如き渋面を見るや否や怖れ慄いて逃げ惑い、全く使い物にならなかった。
しかし、そんな有象無象の小姓達の中で、唯一景勝の渋面に全く恐怖しない、心から進んで屈託なく接し、その深淵な心の扉を開かせた少年がいた。
それが、樋口与六、後の「直江兼続」で、互いに気脈が通じる所が合ったのか、兼続と景勝は意気投合し、水魚の交わるが如き莫逆の友となる。
成人した景勝は謙信の養子となり、上杉家次代当主の候補の一人と取りざたされ、また、他方、謙信にはもう一人養子がいる、それが、北条家から人質として送られてきた上杉景虎。謙信の養子となり、景勝の姉の一人清円院(華渓院とも、妹説もあり)を嫁に貰い、ついには謙信の昔の名である「景虎」の名を貰い、急激に家中の求心力と人望を獲得していったと云う。
地味で無愛想な仏頂面のうえ、陰湿で愚鈍と周囲に誤解され、影の薄い景勝は、、、、、。、
雲洞庵13世通天和尚に儒教などを教育された2人

「直江兼続」 1560-1619 上杉家の名家宰ー米沢城主
樋口総右衛門の子、上杉謙信に仕え、上杉景勝・養子景勝に属す。「直江家」を継ぐ。景勝の信任を得て「上杉家」の家宰と成る。
後に、米沢30万石を与えられ、産業育成・城下町整備に尽力した。
家中の「三宝寺勝蔵が部下を成敗したが、その部下の罪は大したものではなかった。その為、部下の一族は激怒し本人を返せと詰め寄った。
そこで、直江兼続は仲介に入りその一族に「白銀20枚」を与え勘弁するよう諭したが一族の怒りは収まらず攻めよった。
兼続は「閻魔大王に話して死者を連れ戻そう、大儀だが使いに行ってもらおう、、、」と一族3人の首を刎ねたと云う。
兼続は、晩年、米沢の地に禅林文庫を創設し、貴重な古典籍を収集させ保存している。
雲洞庵ー奈良時代内大臣藤原房前公母が出家しこの地に庵を結んだ
この山を「金城山」と命じ、霊泉で多数の病人を救ったとある。
房前公は、母没後、この地に尼僧院を建立し、菩提を弔うため、薬師如来を本尊とした「金城山・雲洞庵」を建立

「藤原房前」 681-737 世渡り上手の才人、官僚。藤原不比等の第二子、継母、県犬養三千代に引き立てられ兄を凌ぐ権勢を誇った。
参議・内臣・天皇の側近を務めている。疫病で兄弟共に亡くなっている。
房前の子孫が藤原北家になる。文才に優れ、和歌、漢詩など多く残している。
室町時代の赤門(皇室・大名のみが)通常は黒門。仁王像は、江戸時代の作

藤原家の尼僧院として律宗に属し、600年間にわたり栄えた「雲洞庵」。今でも女性の参拝信仰で賑わう。
藤原房前公は、父不比等、祖父鎌足で、中大兄皇子(天智天皇)と共に、蘇我氏を滅ぼし「大化改新」を行い、「藤原姓」を賜っている。
ここ、南魚沼地方は、藤原家の荘園とされた。その関係で、藤原家ゆかりの地名や神社仏閣などが存在する。
藤原家の貴重な遺品など

「通天存達和尚」
当地の大豪族長尾家の出身で、兄弟政景が早く亡くなり、一子となった景勝を引きとり雲洞庵で教育。その景勝公の家来として一緒に教育されたのが、
直江兼続公。
景勝公、兼続公は戦国時代の武将としては教養高く、四書五経をはじめ中国古典にも造詣が深く、ほとんどの戦国武将がひらがなしか書けなかった時代において、物書きの専門家を置かぬほどの達筆であり、武田家と上杉景勝公の婚姻を通じて、両家を織田信長公との戦いに備えようと計らったのも、雲洞庵住職であった通天和尚と北高和尚であると伝えられていると云う。
しかし、この計画も時すでに遅く、武田勝頼公は滅することとなり、記録によると、1586年6月、景勝公と家老直江兼続侍大将は、萩田主馬等を連れ、太閤秀吉公に謁見し、景勝公は従三位を、兼続公は山城守従五位を受け、また、景勝公は、養父通天存達和尚の大恩に報いるため、時の正親町天皇より禅師号、佛慧普明禅師を拝受している。
位を拝受し故郷に戻った兼続公は、雲洞庵の門前に禁制の制札を高く掲げ、山城守と大名格になった事を高らかに披露したとも云う。
雲洞庵には、景勝公、兼続公、萩田主馬公の書状や禁制の制札の写しなど、貴重な品々が残されている。
越後一の寺・日本一の庵寺

「雲洞庵の土踏んだか、、、」
昔から越後の国では云われている。それは、関東官僚・上杉家の菩提寺として開創され、戦国時代では、越後の魚沼三郡の僧禄(僧侶の総括所)であり、
曹洞禅の厳しい大修行道場であった。
境内一万坪、赤門ー本堂参道80m、大池と4つの池が。

赤門から本堂の間の参道は、法華経が一字一石にしるし埋め込まられ、古くは、特別の時以外一般は一年一度で、天下国家の太平万民の富楽を祈祷する
「大般若会の日」のみ、赤門が開かれた。
樹齢400年の大柱・ブナ林

藤原鎌足ー不比等
ー房前 717年開祖ー上杉憲実1429年曹洞宗雲洞庵開基 内室(雲洞尼僧院開祖
「上杉 憲実」 1410-1466
室町時代中期の武将、守護大名。関東管領、上野・武蔵・伊豆守護。越後守護上杉房方の3男。
子に憲忠、房顕、周清(上杉憲房の父)、法興、周泰ほか。養父は従弟の上杉憲基。猶子に佐竹実定、憲基の実弟・佐竹義人の次男。
関東管領を務め、足利学校や金沢文庫を再興したことで知られる。
参道は大杉並木、大池に沿って座禅堂・観音堂・客殿・鐘楼・仏舎利塔。武田信玄公と武田勝頼公からの書簡 (宝物殿)

本堂
1429年「上杉憲実公」創建。1707年24世により再建。
間口ー14間・奥行―10間半、出雲崎の小黒甚内大工群より建てられている。県文化財指定(日本海建築文化の到達点の一つと云う)
本尊釈迦牟尼仏・脇侍迦葉尊者・阿難尊者・十六 漢などを安置され、禅寺様式。
本堂脇に長生きの涌き水が

宝物殿
上杉景勝公遺墨、武田信玄公書状、北高禅師「火車落としの袈裟」、戦国時代の武将の古文書などの品々が展示。
雲洞庵本堂から外を見ると

「上杉家」
信長、秀吉による天下統一事業が終盤にさしかかる中、武田家は信玄亡き後、家督を継いだ勝頼が信長に抗しきれず滅亡し、北条家は、氏康の跡を継いだ氏政、氏直親子が秀吉により降伏させられました。
しかし、上杉家は謙信の跡目相続で一時混乱しますが、景勝が家督を継ぎ秀吉に恭順することで激しい戦乱の世を乗り越えていき、最終的に明治まで大名として存続。景勝公の先見性が生かされた。
本堂内

「大福寺」
南魚沼市にあり、「雲洞庵」に近く、鄙びた寺。
宗派ー真言宗豊山派
越後三十三観音霊場十一番・本尊 聖観世音菩薩・越後新四国八十八カ所八十六番・本尊 阿弥陀如来
開基、聖徳太子・開祖は玄珍法印なりとか。
弘法大師越後国巡化の折、薬師仏及び十二神将を金精山の巌窟に安置し、大福寺の奥院と称した云う。
なお観音様は、三十苅という所にあって、三十苅の観音様として深く信仰されたが、明治に入り現在の地に移された。
本尊聖観世音菩薩は弘法大師作と伝承されている。
境内の入口には庚申塔が幾つ か立ち中に珍しい形を彫り上げた板碑を珍しく見る 本堂は二百年程経つ建物と云う。銀杏の神木、

本殿

「永昌庵」
六日町駅(約2km)と雲洞庵の中間にある曹洞宗の寺、本尊ー阿弥陀如来。
永昌庵 境内・本堂

次回は、直江兼続「伝世館・銭淵公園」へ。
二人の関係は景勝も温かく見守っていたと云う。しかし二人の仲を妬む輩が増えてしまい、家中が騒がしくなることを懸念したお六は、一時小姓を辞めて農家に戻る。(兼続16歳の時)
上杉家の名門:直江信綱が急死し、直江家が断絶させないために、お六が直江家を継ぐことになる。直江家の娘、「お船」と婚姻。
兼続への報われぬ恋に傷心の桂姫はこの地より離れ、若くして病死。二人の純愛像と云う。



秀吉が惚れ、家康が恐れた男・戦国末期に越後の国で異才を発揮し、並み居る群雄の耳目を引いた智将、上杉家の忠臣・名宰相として敏腕を振るった
「直江兼続」。
生涯の主 上杉景勝との出会い、直江兼続(樋口与六)は、1560年、越後上田の庄、坂戸城主長尾政景の家臣の樋口惣右衛門兼豊の長男。
坂戸城夫人にして上杉輝虎(後に謙信)の姉・「綾(後の仙桃院)」は、
息子「喜平次(後の景勝)の小姓として登用し、弱冠5歳にして家臣となり、「雲洞庵」にて武芸の鍛錬に励み、武士としての肉体と精神を養う。
上杉景勝と直江兼続像


長尾景勝は、上杉謙信の姉「仙桃院」の子、謙信の甥に当たる。
父は謙信の実家である長尾家の一族長尾政景だが、政景は景勝が10歳にもならないころ変死を遂げ、謙信の懐刀である軍師宇佐美定満と一緒に摂取していたヤクに依存しすぎて心身を消耗した挙句、ある日湖岸にかけられていた小船の上で二人揃って素っ裸のまま死んでいたという。政景と定満が尋常でない死に方をしたのは確かと云う。
父の死によって受けた動揺、悲嘆を他者に悟られまいとし、徹頭徹尾他者との意思疎通を拒み、一人武芸に励み、部屋で書物を読む引きこもり同然の生活を送っていたと云う。
これを憂慮した母の仙桃院が苦楽を共に分かち合え、胸襟を開いて心中を明かしあえる莫逆の友として育成するべく選りすぐりの小姓達を近侍させたのだが、皆景勝の憤怒の如き渋面を見るや否や怖れ慄いて逃げ惑い、全く使い物にならなかった。
しかし、そんな有象無象の小姓達の中で、唯一景勝の渋面に全く恐怖しない、心から進んで屈託なく接し、その深淵な心の扉を開かせた少年がいた。
それが、樋口与六、後の「直江兼続」で、互いに気脈が通じる所が合ったのか、兼続と景勝は意気投合し、水魚の交わるが如き莫逆の友となる。
成人した景勝は謙信の養子となり、上杉家次代当主の候補の一人と取りざたされ、また、他方、謙信にはもう一人養子がいる、それが、北条家から人質として送られてきた上杉景虎。謙信の養子となり、景勝の姉の一人清円院(華渓院とも、妹説もあり)を嫁に貰い、ついには謙信の昔の名である「景虎」の名を貰い、急激に家中の求心力と人望を獲得していったと云う。
地味で無愛想な仏頂面のうえ、陰湿で愚鈍と周囲に誤解され、影の薄い景勝は、、、、、。、
雲洞庵13世通天和尚に儒教などを教育された2人

「直江兼続」 1560-1619 上杉家の名家宰ー米沢城主
樋口総右衛門の子、上杉謙信に仕え、上杉景勝・養子景勝に属す。「直江家」を継ぐ。景勝の信任を得て「上杉家」の家宰と成る。
後に、米沢30万石を与えられ、産業育成・城下町整備に尽力した。
家中の「三宝寺勝蔵が部下を成敗したが、その部下の罪は大したものではなかった。その為、部下の一族は激怒し本人を返せと詰め寄った。
そこで、直江兼続は仲介に入りその一族に「白銀20枚」を与え勘弁するよう諭したが一族の怒りは収まらず攻めよった。
兼続は「閻魔大王に話して死者を連れ戻そう、大儀だが使いに行ってもらおう、、、」と一族3人の首を刎ねたと云う。
兼続は、晩年、米沢の地に禅林文庫を創設し、貴重な古典籍を収集させ保存している。
雲洞庵ー奈良時代内大臣藤原房前公母が出家しこの地に庵を結んだ

この山を「金城山」と命じ、霊泉で多数の病人を救ったとある。
房前公は、母没後、この地に尼僧院を建立し、菩提を弔うため、薬師如来を本尊とした「金城山・雲洞庵」を建立

「藤原房前」 681-737 世渡り上手の才人、官僚。藤原不比等の第二子、継母、県犬養三千代に引き立てられ兄を凌ぐ権勢を誇った。
参議・内臣・天皇の側近を務めている。疫病で兄弟共に亡くなっている。
房前の子孫が藤原北家になる。文才に優れ、和歌、漢詩など多く残している。
室町時代の赤門(皇室・大名のみが)通常は黒門。仁王像は、江戸時代の作



藤原家の尼僧院として律宗に属し、600年間にわたり栄えた「雲洞庵」。今でも女性の参拝信仰で賑わう。
藤原房前公は、父不比等、祖父鎌足で、中大兄皇子(天智天皇)と共に、蘇我氏を滅ぼし「大化改新」を行い、「藤原姓」を賜っている。
ここ、南魚沼地方は、藤原家の荘園とされた。その関係で、藤原家ゆかりの地名や神社仏閣などが存在する。
藤原家の貴重な遺品など



「通天存達和尚」
当地の大豪族長尾家の出身で、兄弟政景が早く亡くなり、一子となった景勝を引きとり雲洞庵で教育。その景勝公の家来として一緒に教育されたのが、
直江兼続公。
景勝公、兼続公は戦国時代の武将としては教養高く、四書五経をはじめ中国古典にも造詣が深く、ほとんどの戦国武将がひらがなしか書けなかった時代において、物書きの専門家を置かぬほどの達筆であり、武田家と上杉景勝公の婚姻を通じて、両家を織田信長公との戦いに備えようと計らったのも、雲洞庵住職であった通天和尚と北高和尚であると伝えられていると云う。
しかし、この計画も時すでに遅く、武田勝頼公は滅することとなり、記録によると、1586年6月、景勝公と家老直江兼続侍大将は、萩田主馬等を連れ、太閤秀吉公に謁見し、景勝公は従三位を、兼続公は山城守従五位を受け、また、景勝公は、養父通天存達和尚の大恩に報いるため、時の正親町天皇より禅師号、佛慧普明禅師を拝受している。
位を拝受し故郷に戻った兼続公は、雲洞庵の門前に禁制の制札を高く掲げ、山城守と大名格になった事を高らかに披露したとも云う。
雲洞庵には、景勝公、兼続公、萩田主馬公の書状や禁制の制札の写しなど、貴重な品々が残されている。
越後一の寺・日本一の庵寺



「雲洞庵の土踏んだか、、、」
昔から越後の国では云われている。それは、関東官僚・上杉家の菩提寺として開創され、戦国時代では、越後の魚沼三郡の僧禄(僧侶の総括所)であり、
曹洞禅の厳しい大修行道場であった。
境内一万坪、赤門ー本堂参道80m、大池と4つの池が。



赤門から本堂の間の参道は、法華経が一字一石にしるし埋め込まられ、古くは、特別の時以外一般は一年一度で、天下国家の太平万民の富楽を祈祷する
「大般若会の日」のみ、赤門が開かれた。
樹齢400年の大柱・ブナ林


藤原鎌足ー不比等
ー房前 717年開祖ー上杉憲実1429年曹洞宗雲洞庵開基 内室(雲洞尼僧院開祖
「上杉 憲実」 1410-1466
室町時代中期の武将、守護大名。関東管領、上野・武蔵・伊豆守護。越後守護上杉房方の3男。
子に憲忠、房顕、周清(上杉憲房の父)、法興、周泰ほか。養父は従弟の上杉憲基。猶子に佐竹実定、憲基の実弟・佐竹義人の次男。
関東管領を務め、足利学校や金沢文庫を再興したことで知られる。
参道は大杉並木、大池に沿って座禅堂・観音堂・客殿・鐘楼・仏舎利塔。武田信玄公と武田勝頼公からの書簡 (宝物殿)



本堂
1429年「上杉憲実公」創建。1707年24世により再建。
間口ー14間・奥行―10間半、出雲崎の小黒甚内大工群より建てられている。県文化財指定(日本海建築文化の到達点の一つと云う)
本尊釈迦牟尼仏・脇侍迦葉尊者・阿難尊者・十六 漢などを安置され、禅寺様式。
本堂脇に長生きの涌き水が



宝物殿
上杉景勝公遺墨、武田信玄公書状、北高禅師「火車落としの袈裟」、戦国時代の武将の古文書などの品々が展示。
雲洞庵本堂から外を見ると



「上杉家」
信長、秀吉による天下統一事業が終盤にさしかかる中、武田家は信玄亡き後、家督を継いだ勝頼が信長に抗しきれず滅亡し、北条家は、氏康の跡を継いだ氏政、氏直親子が秀吉により降伏させられました。
しかし、上杉家は謙信の跡目相続で一時混乱しますが、景勝が家督を継ぎ秀吉に恭順することで激しい戦乱の世を乗り越えていき、最終的に明治まで大名として存続。景勝公の先見性が生かされた。
本堂内


「大福寺」
南魚沼市にあり、「雲洞庵」に近く、鄙びた寺。
宗派ー真言宗豊山派
越後三十三観音霊場十一番・本尊 聖観世音菩薩・越後新四国八十八カ所八十六番・本尊 阿弥陀如来
開基、聖徳太子・開祖は玄珍法印なりとか。
弘法大師越後国巡化の折、薬師仏及び十二神将を金精山の巌窟に安置し、大福寺の奥院と称した云う。
なお観音様は、三十苅という所にあって、三十苅の観音様として深く信仰されたが、明治に入り現在の地に移された。
本尊聖観世音菩薩は弘法大師作と伝承されている。
境内の入口には庚申塔が幾つ か立ち中に珍しい形を彫り上げた板碑を珍しく見る 本堂は二百年程経つ建物と云う。銀杏の神木、



本殿

「永昌庵」
六日町駅(約2km)と雲洞庵の中間にある曹洞宗の寺、本尊ー阿弥陀如来。
永昌庵 境内・本堂



次回は、直江兼続「伝世館・銭淵公園」へ。